玩具城
男の心には、城がある。
幼い頃に築かれ、齢を重ねど色褪せぬ、
墨守すべき、唯一自分の為だけの城が――必ず在る。
「今日ね、ミステリーがあったの」
思わぬ休日出勤から帰宅したぼくに、妻の寿が最初にかけた言葉がこれだった。
学生時代の縁でつきあい始め、くっついたり離れたりを繰り返した末の、「もうこいつでいいか」という諦観めいた結婚だった。新鮮味のない新郎新婦、新婚という呼称も気恥ずかしい限りだが、いざ二人で暮らし始めると、彼女だった女性の新たな面が見えて来る。
なかなかどうして、結婚も面白い。
「予定通り、安原さんとお茶したんだろ?」
「そうよ。あなたも来てれば話が早かったのに。仕事じゃしょうがないけど」
つまり、ミステリーは安原家で起こったものらしい。
「例のご主人とは会えたの?」
「会えたわ。でも、『すごいコレクション』はなかったの」
「なかった?」
「だから、ミステリーなのよ」
大袈裟な身振りが、寿の受けた衝撃を物語るようだ。
背広を脱ぎつつ、ぼくは妻の語るミステリーに耳を傾けることにした。
ぼくと寿がこの公団住宅に引っ越したのは、ちょうど一年ほど前だ。見るからに親世代の建築物で、長く住める物件とは思えなかったが、一戸建てを買う頭金を貯めるまでと割り切ったのは、意外にも寿の方だった。その寿は引越しと同時にパートを始め、有限実行と言わんばかりに貯蓄に励んでいる。
安原さんとは、そのパート先で知り合ったそうだ。
棟は違うが、二ヶ月前、同じ公団に引っ越してきたこと。ご主人と五歳の長男の三人家族なこと。二人は同年代で、すぐに意気投合した。責任感が強く礼儀正しい彼女に、寿も「今時珍しい人」と太鼓判を押していた。
そんな安原さんの一番の悩みが、ご主人の収集癖らしい。言い渋るのを「うちも似たような感じよ」とぼくをダシにして聞き出したとか。
収集対象は玩具。昔の特撮のヒーローや怪獣、美少女、フィギュア、プラモデルと何でもござれ。日増しに増殖し、ただでさえ狭い夫婦部屋を圧迫しているらしい。
「そんなにすごいの?」との問いに「壮観よ」と答えた安原さんの表情は、いたく寿の興味を掻き立て、互いの夫婦が揃う週末に、安原家でお茶することが決まった。突然、休日出勤を余儀なくされたぼくは欠いたものの、お茶会を称したコレクション鑑賞は、つつがなく行われるはず、だったが。
「そこで、思わぬ乱入者が現われたのよ」
安原家のインターホンを押したまさにその時、寿に声をかけてきたのは、同じ棟で知らぬ者とてない双子の老婆だ。当団地の最長老だが痴呆には無縁のゴシップ好き。地獄耳の上に押しが強く、よくも悪くも井戸端会議の中心人物だ。
ついた渾名が「ババラッチ」。二人にかかって私生活を暴かれた住人はもちろん、有りもしないことまで喧伝された者も少なくないと聞く。
寿は、決して馬鹿ではない。焼き菓子の手土産まで持参した二人を見て、その目的を瞬時に見抜いた。
「引越しのご挨拶、まだ済んでなかったの。一緒させてちょうだいな」
安原家の秘密が、何処からか漏洩したのだ。とってつけたようなお題目の裏には、寿に便乗し、特ダネをスクープしようと目論む浅ましさが見え透いていた。
いそいそと現われた安原さんも、この事態に顔色を失った。
「私もかなりがんばったのよ。色々理由を挙げて、今日はご遠慮くださいって。
でもあの二人、揃って聞く耳持ってないし。それにがんばり過ぎても、隠し事があるって暗に認めることになるじゃない?」
結局、玄関先でのいざこざを嫌った安原さんが折れ、ババラッチは安原家に上陸した。
形ばかりの挨拶とテーブルに並んだ焼き菓子、紅茶を他所に、二人の目は無遠慮に安原家を探り始めた。
部屋の間取りは、簡単に説明すれば「田」の字になる。左半分の長方形はキッチンとリビング。右上と右下はともに襖で仕切られた六畳間だ。どの部屋も、他二つと行き来は自由になっている。
右下の部屋からは、襖越しに子供の声が聞こえてくる。
畢竟、ババラッチの熱視線は、右上奥の部屋に収束した。
ご主人が姿を見せたのは、その時だった。線の細い、物腰柔らかな人物で、不意打ちじみた来客に嫌な顔一つせず、丁寧に対応する。こう言っては何だが「おたく趣味」の人間とは思えなかった、とは寿の弁だ。
せわしない様子のババラッチにコレクションの話を振ったのも、ご主人からだった。
「たいしたものじゃありませんが、ちょっとお見せしましょうか?」
一も二もなく頷く双子老婆と寿を先導し、ご主人が向ったのは子供部屋の方だった。
「そっちの襖は閉め切ってるんですよ」
右上と左上の部屋を繋ぐ襖をそう説明し、子供部屋の襖を開ける。中は驚くほど散らかっていた。絵本や玩具、ゲーム機の類が投げ出され、床を埋めている。その中央に王様のように座っていた幼児が振り返り、不思議そうに大人たちを見上げた。
「おやつあるから、こっち来なさい」 母親の言葉に歓声をあげ、子供は部屋を出て行く。
「散らかしていて、申し訳ないですけど」
足場を探し探し子供部屋を渡ると、五人はついに夫婦部屋に到達した。
だがその光景は、期待を悪い意味で裏切るものだった。
平凡な調度品の並ぶ、シンプルな部屋。ローテーブルの上で開いたノートPC。その横に幾つか並んでいるのは、掌サイズの怪獣、数体だけだ。部屋を見回しても、本棚でロボットのプラモデルが一つ、ポーズを取っている程度。子供向けの本が並んでいるが、その消耗から見て息子の持ち物なのは明らかだ。
「確かに昔は集めていたんですが、引越しの際にほとんど処分して、今はこれだけです。妻は以前の印象が強いのか、今でも多い多いと言うのですが」
それでも、ババラッチはあきらめなかった。RPGゲームの勇者よろしく、押入れを開け、箪笥を探り、訴えられない程度の家捜しを行ったが、噂の超コレクションは出て来なかった。
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
逆にご主人に頭を下げられ、流石のババラッチたちも退散を余儀なくされた。
――以上が、ことのあらましだ。
「先に言っておくけど、安原さんは白髪三千畳って性格じゃないから」
「うん、わかってるよ」
「それに、玄関先で騒いでたのは五分くらいよ。部屋を片付ける時間なんて絶対なかったの」
「それもわかってる」
ぼくは顎に手を当て、黙考した。すぐに幾つかの疑問が浮かび上がった。
「夫婦部屋の左の襖は、本当に閉め切られていた?」
「閉めてあったわ。襖にも鍵って出来るのね」
取り外しの効くタイプで、桟に固定するものだという。着脱は容易で、帰りは夫婦部屋から直接、リビングに出られた。
「安原さんは、夫婦部屋には来なかったんだね?」
「そうよ。キッチンでお子さんの相手してたわ」
「なるほど、なるほど」
「何がなるほどなのよ」
じれったそうな寿に、ぼくはおもむろに宣言する。
「――寿司、行こうか」
「もうわかったの?」
目を丸くする寿に微笑むと、ぼくは車のキーを取り、くるりと回した。
安くて旨いと評判の桂寿司も、閉店間際のこの時間帯は閑散とする。
カウンターに陣取ったぼくたちは、貸切状態で板前と向き合った。
「またおかしな謎を拾ってきたな、おまえ」
寿司を振る舞いながら寿の説明を聞いた寺島は、いかにも楽しそうにそう言った。
寺島とは学生時代からのつきあいで、家業を継いで寿司屋を営んでいる。
何かと謎を持ち込んでは、ぼくを頼ってくるのは寿と同じだが、とある饅頭を発端とする事件で、ぼくが犯人に買収されかけて以来、相談の折には飯を奢るようになった。犯人は寺島の実弟だったが、今はその饅頭屋で見習いをしていると聞く。
「寺島くんは、どう思う?」
寿の問いに、寺島は眉根を寄せた。
「押入れに突っ込んだとか?」
「ないわ。ババラッチが確かめてたもの」
「そこまでするのかよ」「するからババラッチなのよ」
「じゃあ、子供部屋の方に隠したんだ」
「そんな時間はなかったと思う。それにたとえ玩具を隠せても、棚が残るわ。空の棚が部屋にあったらそれで十分怪しいけど、そんなものはなかった。どんな棚でも、動かすような時間は絶対になかったと断言できるわ」
「うーん、わからねえ。お手上げだ。」
あっさりと降参し、ぼくを見つめる二人。
「で、おまえの推理は?」
「大トロ」
「わかったよ、奢りだちくしょう」
お茶を口に運び、喉の湿りをよくしてから、ぼくはおもむろに口を開いた。
「寿の話で、最初に不思議に思ったことが二つある。
一つは、夫婦部屋とリビングの間の襖が閉め切られ、子供部屋には開いていたこと。
大事なコレクションを飾った部屋を、幼稚園児の部屋と繋げるだろうか。
リビングとの襖を開け、子供部屋との襖を閉ざすのが普通じゃないか」
「確かにそうだけど、それは人の好みじゃない?」
「もう一つは、安原さんの態度だ。寿の説明だと、彼女は責任感が強く、礼儀正しい。子供のしつけもしっかりしてるんじゃないか?」
「そうね。確かそう聞いてるわ」
「その安原さんが、来客を前に、部屋を散らかした息子を叱っていない」
寿の口が、「あ」の形に丸くなった。
「普通は叱り飛ばすシーンじゃないかな。でもそうじゃない。逆におやつをあげている。
この二つの疑問から、考えられるトリックは――」
「いいから早く言え」
寺島の出した大トロを飲み込み、ぼくは寿を見た。
「寿の言った通り、短時間で棚は絶対に動かせない。
だから、ご主人は部屋を動かした。
大事なコレクションを子供部屋にばら撒き、玩具の中に玩具を隠した。
片付けるのは難しくても、散らかすのは簡単だ。
その上で、夫婦部屋を子供部屋と偽り、子供部屋に君たちを案内したんだ」
寺島と寿の瞳が、揃って丸く変わる。
「ちょっと待って。もしそうなら、嘘の子供部屋には棚があったってこと? 私、そんなの見てないわよ?」
「見ていなかった、だろ。なかったと断言できる?」
「……玩具が滅茶苦茶に置かれてた気がするけど、ちゃんとは覚えてない」
「君が覚えていないのには、理由がある」
「子供部屋だと思って、よく見なかった?」
「それだけじゃ、ババラッチには通用しなかったと思う。
おそらく、ご主人は意図的に棚を掻き回し、見苦しい状態にしておいた。人は興味のないものや見苦しいものは目に入らない。
何より、君たちは、それより見るべきものがあった」
カウンターを指で叩いてみせる。
「床だよ。玩具で足の踏み場もない部屋で、余所見をする人間はいない」
「そこまで計算ずくなのかよ」
絶句する寿に代わって、寺島がうなった。どこまで計算していたのかは不明だが、これを短時間で計画、実行したご主人には、畏敬の念を禁じえない。
安原さんが子供を叱らなかったのは、散らかしたのがご主人だから。おやつを与え呼び出したのは、余計な発言で仕掛けを台無しにされるのを防ぐためだ。
締め切った襖の鍵は、おそらく子供部屋と夫婦部屋を仕切っていたもの。先に偽の子供部屋
を通さなければ、ババラッチは当然、隣の部屋を疑っただろう。大胆にして繊細なやり口だ。
「だがよ、一つだけ不思議なんだが」
寺島がおもむろに尋ねる。
「同じ玩具つっても、大人の趣味と子供の趣味は違うだろ。年代もだし、美少女フィギュアとか、誰でも気付くんじゃね? 混ざってても、足元に転がってたらよ」
なかなかいい質問だ。
「子供のいる家庭で、その手のフィギュアをオープンにしてる可能性は低い。安原さんはしつけにうるさい人だし、なおおさらだ。奥まったところに飾ったり、すぐに隠せるようにしてあったんじゃないかな。
あと、玩具の年代とか、女にはどうでもいい話だ。
寿、昭和と平成のライダーの違いわかるか?」
「え、それって何か違うの?」
「納得した」
このトリックの肝要は、関係者が全員女性だったことだろう。
女にとっては玩具など全てガラクタだし、男にとっては化粧品はどれも同じだ。
ご主人は自らの城を女性の死角に移し、出し抜いたのだ。
「土産だ。持っていけ」
勘定を済ませたぼくに、折り詰めを手渡す寺島。
見覚えのある包み紙は、くだんの饅頭屋のものだ。
「本物か?」
「馬鹿言え。本物なら誰にも譲るかよ」
弟が作り、持ち帰った品らしい。
「で、味の方は?」
「まだまだだな。でも着実に近づいてる」
弟の饅頭に夢中になる未来なんてぞっとしないがな、と付け加えた。
鬼の魂百まで、というところだろうか。
暖簾を降ろす寺島に見送られ、ぼくらは桂寿司を後にした。
「それで、この推理の報酬は?」
高速を走る車の中、おもむろに切り出してみる。
「え? お寿司食べたじゃない」
「奢ったのは寺島で、君じゃない」
口をへの字にする寿だが、こういう話を有耶無耶にしないのが彼女の美点だ。
「何が欲しいのよ」
「本棚」
振り返らずとも、寿が目を剥くのがわかった。
「幾つ目よ? 置く場所どこにもないでしょ」
「リビングにまだ置ける」
「リビングは二人の部屋でしょ? だいたい」
「『私と本とどっちが好きなの?』、なんて言わないよね」
効果的なカウンターだったようだ。思わず顔がにやける。
「あーもう。本好きは知ってたけど、ここまでとは思っていなかった」
「そのおかげで、君の隣にいる」
何を隠そう、彼女との馴れ初めも事件が発端なのだ。
「推理は人のためならず、ね」
少しとうの立った新妻は、そうつぶやいたきり、ぷいと横を向いて押し黙る。いつもの照れ隠しの癖だ。インターチェンジが見えていなければ、これみよがしに覗き込み、からかってやるのだが。
眼下には人家の灯が、星空のように広がっている。
車は高速を抜け、我が家の待つ町へと滑り降りていった。