オデットの偽り
いつの時代もどんなお話も、決まって幸せになれるのは愛らしく清純で、素直なばら色の頬をした天使のえくぼを持つ女の子なのだ。
この三日間、大地を鞭ではたきつけるような雨が続いた。
咲きかけていたユリはうなだれ受胎告知には間に合わず、てっぽう水で魚の鱗はそぎ取られ、羊は毛を刈り取られ丸裸にされるのをほんの少し免れた。
家の夕日と同じ色をした三角屋根からも雨がざぶざぶ滑り落ちているに違いない、とヴィエネッタは馬車の窓ガラス越しに荒れ果てた荒野を眺めながら思う。
大石やら、小石やら緩やかな坂道やらで足場の悪い道を黒いレースのヴェールをかぶったヴィエネッタを乗せ馬車は進む。ばん、ばんとヴィエネッタのすぐ後ろにある荷台に積まれた荷物が跳ねる。
今にも壊れてしまいそうなこの小さな箱を引くのはサンドリヨンの魔法にかけられた二匹のネズミではなく二頭の黒い痩せぎすの雄馬だ。
目隠しをされ、振ればひゅんと音の鳴る革の鞭で体を御者に叩かれる彼らをヴィエネッタは傷ついた額を押さえ哀む。
ただでさえこの雨だ。しかも、彼らが乗せているのはプリンセスではなく罪人で、向かう場所はお城の舞踏会ではなく断首台。
そう、哀れんだのだ。嵐の中、鞭をふるわれる馬をかわいそうだと。
そういう優しい心もあるというのに、民衆はヴィエネッタを許すまじ悪だ、魔女だと投石し額に傷を負わせ、自分の気持ちを相手に伝えることの出来ない臆病な女・ベーネを可憐な花だと、善良な行いしかしない聖女だと崇めたて祭り上げた。
「何が聖女」
激しい雨音と馬車の揺れ、ぐるぐると泥や土を踏みつけ、草むらに弾き飛ばしながら転がる車輪の音に紛れてヴィエネッタは憎しみを込め呟く。
今日までに何度同じ言葉を口にしただろう。
ヴィエネッタの舌とくちびるはこの言葉をしっかりと記憶してしまい、彼女が眠っているときも、バスタブで無心になっている間も、彼女の意志とは関係なしにこの言葉を繰り返した。
「それほど聖女がお嫌いですか」
向かいに座っていた、上から下まで黒ずくめの神父が尋ねる。黒と言っても神に清められた黒。
どこまでも澄んだ穏やかな海の色をした瞳の中にヴィエネッタの姿が浮かぶ。
この小さな箱の中には二人の人間がいた。
世界に愛の手を伸ばし神に一生を捧げる覚悟を決めた神父と、これから麻袋を頭から被せられ首を切られる罪人の女。
「嫌いよ。きれいなことしか言わないから」
罪人ヴィエネッタは聖女をあざ笑う。
ある日、鍛冶屋の父に連れられこの町にやってきたベーネの屈託のない満面の笑顔とえくぼは人の心の垣根をぽんぽん飛び、良い印象だけを残しながら、町中を踊るように歩いた。
彼女はさらにスカートを無邪気にたくしあげ垣根を越え、ついにはヴィエネッタがずっと思いを寄せていた男の土地に入り込んで、そのまま……そのまま、彼の隣に居着いてしまった。
「きれいなものがお嫌いになったのですか」
落ち着いた調子で神父はさらに問いかけてくる。
がたん、と馬車が傾き神父の胸の上で錆も曇りもない十字架が揺れた。同時にヴィエネッタの長い髪と小さな十字架が揺れる。
彼がずっと好きだったコーエンが、きれいだと言ってくれたプラチナゴールドの髪。
きれいなものが嫌いになったのか、と聞かれてヴィエネッタはこの答えを簡単に、けれど的確に返すにはどんな言葉がうってつけなのか、頭を悩ませる。
きれいなものは好きだった。というよりも愛していた。
雨上がりの小径を見上げたときのダイヤをちりばめたような輝きや、庭に咲き誇るパーティーレッド、キャンディ・ボンボン・ピンク、キャットイエローの花々。既婚の蜘蛛が編むレースの繊細さ。
どれもこれもヴィエネッタの心に潤いと満ち足りた幸福を与えてくれる。
しかし道行く人々が口にする聖女ベーネの美しさ可憐さについてとなると、話は別だ。
「そうね、純粋にきれいなものは好きだけど、造り物の美しさは嫌い」
果たしてこれが的確な返事なのか、ヴィエネッタ自身悩んだが、脳みその中をぐるぐるさせた後に彼女は神父にこう告げた。
「ベーネのこと、あなたも聖女だと思う?」
思う、と言うのと同じタイミングでヴィエネッタは顔を動かさず、目だけを神父に向ける。
「どう、バスキン。あなた私の最期の懺悔を聞くためにここにいるんでしょ」
バスキンと呼ばれた神父は沈黙を守る。
刻一刻、がらがらと車輪は回転しながらすこおし触れただけで皮膚がすぱんと切れるという噂の刃が待つ断首台へと向かっていく。
断首台にはカササギが住んでおり、銀細工の魔法の鏡を持つ可愛い姫をいたぶった王妃もこの刃に首を飛ばされたという。
ヴィエネッタがこの道を戻ることは二度とない。ばん、ばんとヴィエネッタの背の後ろにある荷台が揺れた。
あれほど愛をひたむきに捧げた相手に会うことは二度とない。この愛のためなら死ねるとさえ思った愛。
しかし、ベーネが突然現れたことでヴィエネッタの愛は行き場を失った。
「まさかあんたが私の最期を見届けることになるなんてね、神父ならたくさんいるのに」
町の外れの教会には二十人ほどの神父が居り、毎日目に見えぬ物に祈りを捧げている。
その中からなぜ、どうして、ヴィエネッタの幼なじみであるバスキンが選ばれたのか。
偶然なのか故意なのか、それこそ神の思し召しなのかは知らないが、とにかくそうなった。
雷を走らせる暗雲がざわめく。
「聖女かどうかはわかりませんが、可愛いらしい人だとは思いますよ」
「あんたもあの女を擁護するの」
「正直な気持ちではありますね」
たまらずヴィエネッタは忌々しい物を見る目つきでバスキンを一瞥しため息を落とす。
深く、地中を通り抜けてぐらぐらと腸が煮え立つ地獄へ届きそうなため息だ。
いっそのこと、本当の悪魔になってしまいたい。
身も心も悪に染まって、繰り返す後悔や、胸にずっと残る後ろめたさや、食べ物もろくに与えられず荒野を走る馬への哀れみ。そういったことを何ひとつ感じない悪魔になりたい。
他人の悲しみを素直に喜びとして受け止められるような。
誰もがばら色の頬で南から来た柔らかな風と一緒にステップを踏む聖女をあたたかな目で見守った。
ベーネは人々にとっていばら姫で、サンドリヨンで、オデットで、ラプンツェルだった。
そうして、その真逆の対照的な存在としてヴィエネッタを批判と憎しみの目で遠巻きに見つめ、ひそひそとヴィエネッタについて容赦ない言葉で罵るのだ、人の心を持たぬ女だとわざと聞こえるように。
果たして自分は本当にそんなふうに見えるのだろうか、とヴィエネッタは雨に濡れたガラスを見やる。
馬車の上からぶら下がるランプが揺れ、金の光が反射するその下に顔。
頬にくちびるに色のない、ひどくくたびれた風貌の女の顔。
こんな女をコーエンが好きになるはずがない。健康的なベーネを選んだのも悲しいが頷けた。
「私、意地悪な継母みたいな顔をしてる?」
明日の天気晴れだっけ、と尋ねるときと同じようにしてバスキンに投げかけ、ヴィエネッタはガラスに映る自分の輪郭を指の腹でなぞった。
指先が冷たい。
「いいえ」
神父は否定する。重みのある声がヴィエネッタのに添う。
「なら、わがままで自分勝手な悪い姉みたい?」
「いいえ」
「わかった。へそ曲がりの十三番目の魔女で、悪魔ロッドバルトの娘、オディール」
ガラスの中のヴィエネッタがおとぎ話の悪役の姿に次々と変わっていく。
出てくるのはすべて黒の似合う女たちばかりだ。自分で言っていて悲しくなったが、それでもよく似合っていると思った。ヴィエネッタは町の人々にとっての悪なのだ。
「いつから君はそんなふうになってしまったんだ」
彼女を窘める声は神父としてではなく、友人としてのものだった。呆れるでも、咎めるでもなくバスキンは尋ねる。
いつから。
ヴィエネッタは背筋をしゃんとさせたまま馬車に揺られる。
果たしていつからだっただろう。
ベーネが来るまでは、海沿いのテントの張られた市場に行けば皆がヴィエネッタに声をかけてくれた。
やあ、どこに行くの、おいしいプロシュートが入ったよ。
ヴィエネッタ、一人かい、荷物持ちのコーエンはどうしたの。
今日も可愛いね。ヴィエネッタ。
ヴィエネッタ、ヴィエネッタ。
人々がヴィエネッタの名を呼ぶ声は明るく、表情は朗らかで絹より軽い。
ところが、この小さな町にベーネが来てからというもの、ベーネがそれまでのヴィエネッタになった。
やあ、どこに行くの、おいしい林檎が入ったよ。
ベーネ、一人かい、荷物持ちのコーエンはどうしたの。
今日も可愛いね。ベーネ。お父さんは元気?
ベーネ、ベーネ、ベーネ。
もう彼女の名を聞くのも苦痛だった。ベーネはヴィエネッタが持っていた値段の付けられない財産を何もかもを奪い、取り上げた。
「わからないわ」
わからない。いつの間にかそうなっていた。
ヴィエネッタは塞がって血が乾いた額の傷口に触れる。
町ではヴィエネッタがベーネの持っていた真珠の耳飾りを盗んだという噂や、腐りかけた食材でスープを作り、ベーネがそれを食べて体を壊したという話や、コーエンにベーネの悪いところを吹き込んでいる、という話があちこちに飛散していた。
事実、なぜかヴィエネッタのエプロンから見覚えのない小さな耳飾りが出てきたり、体調を崩したベーネにとびきりの食材でミネストローネを作ったりしたことはあったが、ヴィエネッタの知らないところで話は膨張し、いつの間にかヴィエネッタがベーネをパン焼き竈に押し込もうとした、という根も葉もない噂までが飛びだし、そして、四日前。
「思い出せ。君はそんな女性ではなかったはずだ、ヴィエネッタ」
神父であり、幼なじみであり、親友であるバスキンはヴィエネッタの胸に下がる銀の十字架を手に取った。
手に取り、聖書をめくる指で持ち上げくちびるを落とす。その一部始終をぼんやりと見ていたヴィエネッタの左目の脇には黒子がある。
ヴィエネッタが小さな頃からこの町で人々の幸せをエプロンいっぱいにしながら微笑み、無邪気にスカートの端を摘んで垣根をぽんぽん飛び越えていたときも、町に来たまだ何も知らないベーネに良くしてやっていたときも、ずっとそこにあった。
「君は意地悪な姉でも、継母でも、魔女でも、オディールでもありません」
がらがらと今にも外れそうな車輪が荒野を行く。外では御者が骨の浮いた馬の背に鞭を振るう。
ランプより強い光を放つ雷が一瞬、あたりを昼間のように照らした。
「じゃあ……私は……私は、なに」
意地悪な姉でも継母でも魔女でも、オディールでもないならなんだ。
悪いことをしたから、性格が捻くれ返っているから、あれほど良くしてくれた町の皆に罵倒され、唾を吐きかけられ、娼婦のように扱われたのではないのだろうか。
嘘をつき人々を騙したから、四日前、大好きな友人のベーネに誤解を解こうと家を訪れたときにも信用してもらえず、この小汚い腐った売女が、と彼女がコーエンのナイフを振り上げてきてもみくちゃになった結果、誤ってナイフの刃先がベーネの足を貫いてしまったときも、誰もがヴィエネッタを信用せず、ヴィエネッタが私を刺した、と悲しそうに訴えるベーネを哀れみ、擁護し、信じたのではないか。
愛する人を失い、友人に裏切られ、ぎすぎすになった心は自分自身さえも信じられなくなった。
春と夏を繋ぐ妖精の糸より細く息を吐き出し、ヴィエネッタはバスキンを見つめる。繊細で触れたらその場で崩れてしまいそうな、少女が姿を現す。
「君は君だ」
ぽたり、とヴィエネッタの頬から一粒の涙が落ちる。黒いドレスの上で弾けた粒は甘い宝石のようだ。
辱められても、陥れられても誰にも汚されずそこにあった美しさを目の当たりにした神父はヴィエネッタの頬に手を添えてしっかりと実感するように、親指の腹で繰り返し撫でる。
人々の噂に飲まれず、じっとその場で真実だけを探そうとしていた者だけが見ることを許された尊い美しさだった。
「みんな私を責めるわ。私がいけないからでしょ」
「違います」
「愛しているって言ってくれたコーエンも、私を殴ったわ……ベーネを抱いて……」
ヴィエネッタの声が震える。
「彼には見えなかったんです」
「何が……?」
「君の心の美しさが」
「私は美しくなんてない! 肌もこの荒野みたい。憎しみを刻まれた額の傷は一生消えない! もう、誰も信じてくれない。何を言っても聞いてくれない……私は、悪魔になりたい!!」
痛々しいほどの叫びは嵐にも引けを取らず、激しく響く。
ヴィエネッタに触れていたバスキンの手にもその苦しく、悲しいまでの感情がびりびりと伝わってくる。
ひとしきり大きな声を出してしまうと、ヴィエネッタは肩を小刻みに揺らし泣き出した。道が悪いせいではない。
「君は昔からずっときれいだ」
バスキンはそのままの思いを伝えるが、失意の底でうずくまるヴィエネッタには届かない。
馬車が坂道を下り、ばん、ばん、と再び後ろから内側から叩きつけるような音がする。
傷ついた心のままに感情を露わにするヴィエネッタは何度目かの揺れに吐き気を感じたが、そのときはっきりと助けて、という聞き覚えのある少女の声がして耳を疑った。
嵐のせいか、もしくはとうとう狂ってしまったのだろうかと泥を跳ねる音や車輪の音、窓を叩く雨の音ひとつひとつに神経を研ぎ澄ませた。
すると、やはり助けて、出して。背後から確かにベーネが叫んでいる。
おそらく荷台に積まれた衣装箱の中に閉じこめられているのだろう。誰がこんな恐ろしい真似を?
はっとして口元を強ばらせ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を聖女が上げる。
バスキンはしっ、とヴィエネッタのくちびるに自らの人差し指を当てた。
彼の目は美しいものを愛する海の色をしている。
「誰が何を言っても俺は神より君を信じる。ひとりになんて、決してさせない」
2012 かとうえり