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葉月と一緒にいるようになって2週間ほどが経った。
最初のやり取りの通り、葉月は誠が誰かといるときには話しかけて来ない。その代わり、一人になるとうるさいくらいに話しかけてくるので誠はうんざりしているのだけれど。
それとすっかり颯希と彩に打ち解けたようで、何かにつけては誠を引っ張って颯希の家に行きたがるようになった。
颯希は全く葉月を見ることが出来ないのだが、彩は何とか見て話すくらいの力が出てきたようで、それには誠は驚きすぎて言葉を失った。
こんな力って開拓されるものなのかな。いや、やっぱりあいつがおかしい。まぁだいたいからしておかしいんだが。
すっかり葉月のペースに流されてしまっている誠だが、何となく楽しかったりする自分がいることには、まだ気づいていない。
「誠くん、ちょっとお願いがあるんだけど」
放課後の廊下を歩いている時に、葉月は突然誠に声をかけた。
「なんだ?改まって」
ちらりと斜め後ろを歩く葉月に視線を送ると、その切れ長の大きな目を楽しそうに細めて笑われ面食らった。
なんか、ふとした時の顔が可愛すぎるんだよな…あーぁ。
またもや残念な思考になってしまった自分を、あほらしく思いつつ葉月の言葉を待った。
「ん…音楽室行きたい」
「音楽室?行ってくりゃいいじゃないか」
そっけない誠の返事に、葉月はプッと頬を膨らませて上目づかいに睨んでくる。ぱっつん前髪とその目も、プックリさせた頬も絶妙に可愛い。どうにも見た目は、誠の好みのど真ん中だ。
「私だけで行っても何もできないから誠くんに言ってるんじゃない」
「できない?」
「うん。だからお願い。少しだけで良いから」
両手を合わせてお願いされ、誠は小さくため息をついて頷いた。それに喜んだ葉月は、危うく誠の体に抱き着こうとしてきて、誠は慌てて飛びのいた。
「学校で近づくなって言ってんだろっ」
「あ、ごめん。だって嬉しかったから。早く行こうよ、ね?」
蕾の綻ぶような可憐な笑顔を見せて、葉月は軽やかに走っていこうとする。
「ちょっと待てって。音楽室って鍵かかってなかったか?」
「え?そうなの?」
「普段使わない時は鍵閉めてたともうけど…颯希がいれば早いんだけどな」
颯希は小さい時からサックスを習っていて、部活以外にも時々音楽室を借りて練習していたりすることがある。
「とりあえず、一回行ってみるか」
誠は独り言のように呟いて特別教室のそろう校舎に向かった。
古い校舎の階段を上がり、二階の一番奥の教室が音楽室だ。誠は楽器をしているわけではないし、さして音楽にも興味がないので、こんな時間にこの場所に来ること自体初めてだった。
階段を上がり切ったところで、ちょうど今鍵を開けようとする颯希が目に入った。声をかけると颯希はビックリした顔をして誠を見て、それからふんわりと笑う。その顔に葉月が、
「颯希くんって本当に可愛いよね」
と、呟いた。誠は葉月に顔を近づけて小声で囁く。
「可愛いって、あいつにあんまり言うなよ。実はちょっと気にしてるんだから」
「そうなの?良いと思うけど、可愛いの…」
「あいつが気にするのは、彩があいつを玩具みたいに化粧させたり女物の服着させたりするからだ」
『可愛いは正義』。と彩は、自分の弟に対して色々とくだらないことをしては楽しんでいる。確かに女装でも難なく似合ってしまうし、他人事の誠からしてみれば楽しい余興位な感覚だが、当の本人は『可愛い』という言葉が呪いの言葉に聞こえてしまうらしい。
「うん。分かった。気をつける」
と言った葉月の顔が既に笑いを堪えていて、それを見た誠も小さく笑った。
「どうしたの?誠がこんなとこにいるなんて」
そんな話をされているとはつゆほども知らずに、颯希はニコニコとしている。
「この子が音楽室に行きたいって言うから」
自分の斜め下を指さした誠に、颯希はキョトンとする。
「葉月ちゃんが?僕見えないからよく分からないけど、僕がいて迷惑にならないかな?」
颯希の言葉に葉月は大丈夫と答え、それを誠が伝えると颯希はホッとしたように笑った。
三人で音楽室に入って、颯希は慣れた手つきで譜面台と楽譜、それからサックスを準備する。
「葉月ちゃん出てこないの?」
キョロキョロと周囲を見渡して探そうとする颯希。誠は仕方なく葉月に自分の腕を触らせた。
「私ここにいるよ」
誠の隣にふわっと葉月が現れる。
「なんだ、そこにいたの。で、なんでここに来たかったの?」
颯希に聞かれ、葉月はすっと視線を流してある所で止めた。それに習うように誠と颯希の視線も移される。
「ピアノ?」
「あんた、ピアノ弾けるのか」
「うん。好きだったの。小さい時から習ってて、音大に行きたかったんだぁ。でも死んじゃってそれもできないし触ることもできなくて…だから、誠くんにお願いしたかったの」
「何を?」
「私に触っててほしいの」
誠はキョトンとしたが、颯希はすぐに分かったようで、何も言わずに近くにあった椅子に座った。
「俺が触って…で、どうするんだ?」
「ピアノ弾くの。誠くんが触っててくれたら、私は鍵盤に触れる事が出来るでしょう?」
「あー…なるほど」
誠はやっと葉月のやりたいことを理解した。今の葉月では音を奏でることは愚か、触れることもできない。長い間ずっと弾きたかったと小声で言った葉月を、誠は黙って見つめて、ぶっきらぼうに言った。
「じゃあさっさと座れば」
その言葉に内心断られるかもと思っていた葉月は、嬉しそうに笑ってピアノの前の椅子に腰を下ろした。
後ろから誠はそっと近づく。そして葉月の細い肩に手を置いた。
それは、誠から初めて触れた瞬間だった。いつも触られることはあっても、自分の意志で葉月に触れることなんてなかったし、正直触られるのに慣れてしまって、触ることなんて考えた事もなかった。
葉月の肩は誠が思っていたよりずっと細いもので、体の小ささを思わせるものだった。
誠はどちらかと言えば身長の高い方だ。でも葉月はクラスの女子と比べても小柄な部類に入ると思う。元々細身なのだから当たり前かもしれないが、それでも誠には小さくて頼りないものに感じた。
こんな、細かったのか。いつも賑やかで身振りも大きいから気にならなかったていうか…初めて知った。
驚く誠のすぐ前には、葉月の髪の毛がある。校則が厳しかったと、少し前に葉月が言っていた以前のこの学校では、髪を染めるなんてことはできなかったらしく、葉月のそれは真っ黒で癖のない綺麗な髪だ。それが背中の中ほどまであって、肩に置いた誠の手にサラサラと触れる。それも初めてで少し新鮮だった。
葉月は誠のそんな気持ちなど気づかず、真剣な顔をして少し震える指で一つの鍵盤を叩いた。
ポーン……。
澄んだ音が鳴る。
颯希も葉月の奏でる音を楽しみしているようで、邪魔をしないように椅子に座り、また誠も何も言わず葉月を後ろから見ている。防音造りの、静まり返る音楽室の中で、一つのピアノの音が気持ちいいくらいに放たれた。
「音、出たね」
颯希の優しい声がして、それに葉月は鍵盤を見つめたまま頷き頬を緩ませた。ホッとしたような、泣き出しそうな顔をしていた。
「久しぶり…。なんか、感動する」
一つ、二つと、葉月は確認するように音を出す。旋律ではない音だが、葉月にとっては楽しい音だ。しばらくそうやって音を出していた葉月だったが、やがてゆっくりと鍵盤を連続して叩き出した。最初は少し固い印象のある演奏だったが、次第に柔らかく弾む音色へと変化していった。
細い指が鍵盤の上を軽やかに滑る。誠は初めて間近にピアノを弾く手を見て思わず見入ってしまった。
葉月の顔は誠からは見えないけど、体全体で嬉しいと言っているのが分かる。肩から感じる葉月の腕の動きと、リズムに合わせて動く体と、鍵盤の上を踊る指。いつものバカみたいに元気な葉月とは違ってしとやかな、しなやかな雰囲気があった。
演奏の最後の音が静かに消えていく。葉月の体からふうっと力が抜けて大きく安堵した。
「葉月ちゃん楽しそう」
椅子から立ち上がり、颯希はピアノのそばに近づいてきた。颯希が教えてくれた曲名は有名らしいが、クラシックなど興味のない誠には初めて聞いた曲名だった。でも、軽やかなで流れるような旋律は心地よかった。
「うん。楽しかった…」
穏やかな声で葉月は誠を振り返り、その大きな目で見上げてくる。キラキラと輝いて見上げてくる表情は子供みたいで愛らしい。
「ありがとう。誠くん…すごく嬉しい」
自分が映り込む葉月の瞳を、誠はいつになく優しげな眼で見て返した。誠にはよく分からないけど、葉月が気持ちよく弾けたのならそれでいいと思った。
「ねね、僕と一緒に弾こうよ」
颯希の申し出に、葉月はパッと顔を輝かせてその誘いに乗ろうとして、あ、と小声で誠を見上げる。
その顔は反則だって………いちいち可愛い顔すんなっ。
「いいよ、もう少しぐらいなら」
自分の思考にほとほと呆れながら、誠は葉月の後ろに立って、颯希とピアノを弾く姿を眺める。
俺のこの変な性質も、役立つことあったんだな。
流れる旋律に耳を傾けて、ぼんやりそんなことを考えてみると妙に口元が緩む。たったこれだけのことで、葉月が喜んでくれることを嬉しいと思ったことは秘密だ。