ACT.九 世界旅行者(ワールド・トラベラー)
ゴールデン・レトリバーや、ハスキー犬ぐらいの大きさ。てらてらと濡れて光る黒い毛並みの中で、真っ赤な瞳が燃えている。犬か狼のように見えたが、首が長く、耳がなく、頭部はつるんとした卵形で、奇妙なことこの上ない。どの獣もぱっくり裂けた口元から、らんぐいの牙をむき出して、大きな爪で地面をつかみ、うなり声をあげていた。
和音と獣の間に立つ、黙はいたって冷静だった。
「血のにおいに誘われたな」
はっと視線をやった傷口は、痛みがほぼ引いたものの、隠しようなく血がにじんでいる。
「し、黙さん……!」
思わず立ち上がって、彼の服のすそをつかんだ。獣達はどう見ても襲ってくる気だ。対抗手段のない和音にとって、頼みの綱は、黙以外にいない。
彼は気にした様子もなく首を傾げ、
「もしかしてアンタ、どんな状況においても『殺生はいけません』っていう、生命至上主義者だったりする?」
冗談なのか、真面目なのか、良く分からないことを訊いてくる。
和音は思いっきり首を振った。
「この場合は正当防衛でしょう?」
「お。良く言ったぜ、さすがイイ娘だ」
にやりと笑って言うと、右手で拳をつくり、油断なく構える。武器らしいものは一切見当たらない。まさか殴って応戦する気じゃないだろうなと懸念した矢先、一匹の獣が、地を蹴って飛び掛ってきた。
あぶない! と思ったのもつかの間。黙が腕を一閃したとたん、獣の首がすっぱりと斬れ、悲鳴とともに地に叩きつけられた。叫ぶ暇もない早業だ。獣達はひるんだように身をすくめ、なおいっそう、ぎゃあぎゃあとほえ騒ぐ。
和音の目に、彼が獣を斬ってのけた武器がうつった。幅三・四センチ程の、先のとがった薄い金属刃。BSは皮製のガントレットをしているのだが、その手甲の部分から、しゅるしゅると滑らかに伸び出ている。
形から察するに、たぶん両刃だろう。それにしたって空中で獣の首を一刀両断とは、よほど斬れ味がよくなければ出来ない芸当だ。
つい、食い入るようにそれを見ていると、本人にニヤッと揶揄される。
「カッコイイ俺に見とれるのは分かるが、もうちょっと離れてくれねェかい? そうピッタリくっつかれちゃあ、イロイロ集中出来ナイんでね」
「…………」
いっそ蹴倒してやろうかと思ったが、TPOを考えてぐっとこらえる。まったくこの男ときたら、生まれたときに危機感を母親の体に置き忘れたんじゃなかろうか。
獣がじりじりと距離を詰めてきた。様子をうかがいながら、二頭が同時に、別々の方向から襲い掛かる。
剣がうなった。真横に振り薙ぐと、一匹が胴体を二分される。今一匹はかろうじてかわしたものの、後ろ足を斬り飛ばされ、ぎゃおんと叫んで落下する。返す刀で振り上げ、振り下ろせば、今度は避けられずにとどめを刺された。ガチーンと音がして、剣のあたった石が綺麗に斬れてしまい、和音は思わず口を開ける。
飛び掛らずに駆け寄った獣は、真っ向から串刺しにされる。そのまま黙は腕を持ち上げ、振り回した。他の獣達が、剣に刺さった獣の体になぎ倒される。剣をひく。再び突く。跳ね上げては振り下ろし、横へ伸ばしては反動を利用して、十把一絡げに斬り伏せる。
まるで生き物のごとく、剣は縦横無尽に駆け巡った。ビュルンと風を斬り、大きくしなる様は、どちらかというとムチのようだ。白刃が閃くたびに周囲で犬の赤黒い血がはね、一瞬、黙が赤い嵐にとらわれているような錯覚すら覚えてしまう。
「イイ武器だろ? コレ、とある世界に行ったときにもらったモンなのよ」
喜々として剣を振れば、びっ、とすぐに血糊が落ちる。刃には一点の曇りもない。あきれるほどの代物だ。
たちまち獣の死骸が積み重なり、和音はかすかに身震いをする。それは、片手一つでこの偉業を成し遂げる黙に対する、恐れのせいでもあったし、強い憧憬のせいでもあった。
グライクひとつ満足に操れず、かすり傷で失神しかけ、獣を前に立ちすくんでいる自分。
どうしてもっと、しっかりしていられないのだろう。上手く立ち回れないのだろう。機敏で、勇敢で、凛々しく、聡明になりたいと思うのに、現実はいつだって正反対で―――。
「は。まったく最高だぜ。斬っても斬っても、うじゃうじゃ出てきちゃうんだからなァ」
自嘲するような黙の声が聞こえた。
確かに、かなりの数を斬り伏せたものの、洞窟の外からはいまだ多数のうなり声が聞こえている。いい加減に逃げてくれてもよさそうなものだが、血のにおいに酔ったのか、どの個体も退こうとはしなかった。これではいくらなんでも、黙の体力に限界が来るだろう。
再び血を振り落とし、剣を元通り手甲の中にしまうと、彼は和音を引き寄せた。
「やーめた」
「――って、ちょっと、黙さん!?」
「キリがねェわ、こりゃ。非生産的なコトはやらない主義なんでね、場所かえましょ~」
こちらが言葉を口にする寸前、左手首を握られ、同時にぐらりと視界が揺れた。ほえたてる獣達の姿が歪む。足元から柔らかな風が吹きあがる。
えっ? と思っているうちに、渦に飲み込まれて――
「どこですか、ここっ!?」
「自分のラクシーをご覧あそばせ。ディスプレイに『#二一一一二四二』って出てるハズだから。それが、世界識別番号たる界号ってモンよ」
「ということは、さっきとは違う世界なんですかあ!?」
「同じに見えんの、子リスちゃんの目には?」
茶化す黙に構わず、ポカンとして周囲を見渡す。
三六〇度、見事な青空が広がっていた。二人が立っているところは、丸い形に切り取られた草原の上だ。広さは学校の教室ほどで、青々とした草が生え、どうも――その円形草原は、浮いているらしいのだ。
端によって、ひょいと下をのぞいてみる。「落ちるナよ」と子どものように注意されたが、冗談でもなんでもないということはすぐに分かった。はるか下のほう、雲と雲の合間、紫色に光る海がある。
頭を上げてよ~く目を凝らせば、他にもいくつか「浮島」のようなものがあり、ふよふよと周囲を漂っていた。大きさは、ホットケーキほどの小さいものから、プールのようにだだっ広いものまで様々だ。
冷涼な風を受け、大きく伸びをしつつ、
「最高だねえ。実にサワヤカ」
と、ほざいている黙の三つ編みを、引っ張ってやった。
「むしろ寒いですよ。風邪ひきます!」
ちょっと前に雨にうたれたせいで、服が湿っているのだ。そこに冷たい風が吹かれては、たまったものじゃない。
自分で自分の体を抱いていると、彼が軽く首を傾げて、さらりと申し出てきた。
「俺が暖めてあげようか?」
「ここから突き落とされたいなら、どうぞ」
前もって台詞を予想していたので、間髪いれずに切り返す。さらに余計な口を挟ませず、
「一瞬で別世界へ移動するなんて……ひょっとして、黙さんってテレポーテーションでも出来るんですか?」
と、畳み掛けるように言いつのった。
ここは異世界で、彼も異世界の住人だ。テレポーテーションの一つや二つ、使えてもなんら不思議ではない。
「生憎と、誓ってノーだね。万一テレポートが出来たとしても、それは同一次元の世界間でしか効力を発揮しない。世界から世界へ移動することは、ゲートを使わない限り無理よ」
いきなりセリフが小難しくなり、和音の眉間にしわが寄った。
「えーと。でも、とにかく、さっきはゲートなんか使ってませんよね?」
彼の話では、挟間ゲートは恐ろしく大きいということだった。そんなものはなかったというのに、どうして世界移動が出来たのだろう。
すると黙は、やけに意味深に片目をつぶった。人差し指を立て、
「世の中、常に選べる道は二つ以上あるんだぜ」
と、謎かけのようなことを言う。
「いつだって選択肢はひとつじゃナイ。ゲートを使わなければ、挟間へもいけないし、世界移動も出来ない――その考えに捕らわれてちゃあ、いつまでたっても先へは進めねェの」
「……それって、ゲートを使わなくても、世界移動が出来るってことですか」
「ちゃんとそのための材料があればナ」
「材料……」
「そう。トワイライト・ムーンだ」
どこか自慢げな笑みが、和音の瞳を射抜く。
T・Mという音の響きは、以前にも聞いたことがあった。確か、管理局にいたグラーデルがその単語を口にしていたはず。
―――トワイライト・ムーンの話は、また後でね。
首を傾げた和音は、みたび質問しようと口を開いた。ところが、実際にそこから飛び出たのは、問いかけではなく、驚きの声だった。
「あ――暗流!?」
雲が流れる、綺麗な青空。そのど真ん中に、独特な歪みゾーンが出現していた。風を噴出すひずみ。かなり大きく、アパート一軒くらい易々と入りそうな特大サイズだ。
思わず一歩身を引き、反対に、黙は身構えた。
「いや、コイツは『挟間ゲート』だ!」
彼の言葉が立証されるのに、そう時間はかからなかった。歪みの中から姿を現したのは、螺旋水晶の旗を掲げた白い船――そう、あの挟間管理局・第十三号船ではないか。
「こりゃマズいっ」
言うが早いか、こちらの手をひったくって駆け出した。
惰性で和音はついていくも、進行方向を見るなり、ぎゃっと叫ぶ。
「黙さん、前、前! 落ちる!」
考えれば、二人がいる場所は浮島、つまり空中だ。逃げ場はないし、無理にでも逃走しようとすると、島から飛び降りる羽目になってしまう。
「ナニいまさらビビってんのよ。管理局に捕まるのと、こっから飛び降りるの、どっちがイイんだ?」
「捕まる方!」
「ん~ん、見解の相違ってヤツだな。どのみちもう、遅い♪」
「いっ……!」
イヤ、と言う寸前、腰に腕を回される。そうして、抵抗する間もなく、二人は浮島の端から身を躍らせていた。
体を捕らえる一瞬の無重力。その後引力にわしづかみされ、真っ逆さまに落下した。強烈な風が下から吹きつけ、周りの景色はものすごい勢いで、下から上へとぶっ飛んでいく。
落ち着けば、かなりいい眺めが堪能できたのかもしれないが、あいにく和音にココロの余裕はない。表記不可能な悲鳴を上げ、縮こまるのが精一杯だ。
「……しっかし、つくづくスピードに弱いんだねェ、アンタ」
愉快そうに笑った黙は、それでも一応、こちらに配慮してくれたらしい。再び視界が歪む。接近しつつあった海面が、ぐにゃぐにゃと揺れていく。
直視していると気分が悪くなるので、どこか腑に落ちないものを感じつつも、和音はシッカリ目を閉じることにした。
今度の世界は、まるで産業廃棄物処理場のようだった。
あたり一面、薄紫色のもやがかかって暗い。黒や赤に錆びた鉄骨が折り重なり、その間を、蛍光黄緑のどろどろした川が流れている。植物らしきモノも生えてはいるのだが、どれも巨大かつ奇怪で、ほとんど廃材と同化して見えた。
鉄やセラミックのくずを踏み、あまりの錆び臭さに閉口する。バンジージャンプのショックを覚ますために、深呼吸したいところだが、この臭いではそんな気も失せてしまう。
「ここの空気、とても安全とは思えないんですけれど?」
たまらず手で鼻を覆う。さすがの黙も顔をしかめていた。
「ん、健康的な臭いとは言いがたいなァ。ラクシーから警戒音が聞こえてこねェから、毒じゃナイことだけは確かだがね」
なんと、ラクシーにはそういう機能もついているらしい。
彼がざくざく歩き始めたので、一拍遅れてついてゆく。
「訊いてばかりで何ですけれど。また質問が」
「『どうして管理局の船が現れたか』?」
先読みした黙に、うなずいて肯定を示す。
「足跡ならぬ、風跡をつけてきたんだろう。局の船には、ソレを見つけるレーダー、ならびにポータブル挟間ゲートも搭載されている。まさに世界の果てまで、間賊を追いかけることが出来るってワケだ」
「じゃあ、いくら逃げても無駄ってことですか?」
つい頓狂な声を上げてしまう。黙が大げさにガッカリして見せた。
「オイオイ、もう俺の言葉を忘れちゃったの? 『いつだって選択肢は』、ホレ、何だっけ?」
「ひ――『ひとつじゃナイ』……?」
「EXCELLENT!」
こちらの手首を捕まえ、やにわに居住まいを正す男。うやうやしく礼をし、
「それではただ今より、世界各国漫遊の旅に出発いたします」
などと、空々しいことを言い出した。
和音は目をむく。彼の意図することが分かったのだ。
「お客様、搭乗手続きはお済みですか?」
「ま、まだ! 心の準備が――」
「それでは、道中はくれぐれも、窓から手をお出しになりませんよう」
「って、聞いてませんね!?」
「よい旅を!」
にやりと彼が笑ったのを合図に、二人の姿は、かげろうのような揺らぎの中へ溶けた。