ACT.八 雨の森
森の中を少し歩き回って、二人は崖の下にぽっかり空いた洞窟を見つけた。薄暗くて不気味なことこの上ないも、背に腹は変えられない。地面が乾いていることに感謝しなければいけないだろう。
なるべく平たい石を探して座り込むと、和音は大きく息を吐き出した。じっとり濡れた体のうち、傷だけが、焼き鏝でも押し当てられているみたいに熱い。痛い。
隣に腰を下ろして、黙が腰に巻いていた飾り布を解いた。こちらの腕を取り、
「見せてみ。……ははあ、表面だけだな。見た目より軽い傷だぜ、こりゃ」
相変わらずの口調でつぶやく。ポケットから引っ張り出したのは、ヘアスプレーのようなボトルだった。しゃかしゃか振り、布にぷしゅーっと吹き付けてから、傷口へ当てる。
得体の知れない液体は、予想以上に染みた。和音は涙目になりつつ、心の中でジタバタする。まるでわさびでも塗りたくられたみたいだ。思わず文句の一つでも言ってやろうと、口を開きかけて――止める。
彼が、せっせと自分の手当てをしてくれているからではない。いや、多少はそれもあるのだが、何よりこの人は先ほど、自分のことを救ってくれたのだ。あわやグライクで大激突、という所を、いきなり現れて助けてくれた。口の減らない怪人だが、曲がりなりにも命の恩人に、文句を言うのは筋違いだろう。
「……ありがとうございました」
軽くむすっとしながらも礼を言うと、黙は手を止めずにきょとんとする。
「ナニが?」
「さっきのことです。危ないところを助けてくれて、ありがとうございました」
「あァ――ナニ。いいってコト」
口の端を上げて笑い、くるくると布を巻いてくれる。
その、器用に動く指を見るともなしに眺めながら、思い切って訊いてみることにした。
「BSさん、あの――」
「黙。さっきも言ったろ? 俺のことはそう呼ぶように。……お、そういや子リスちゃん、アンタの名は?」
「そのリスっての止めてくださいよ……。新羅和音です」
「和音君、か。イイ名だねえ。ご両親のセンスがうかがい知れる」
「はあ……」
どうもこの人と話すと、調子が狂って仕方ない。咳払いし、改めて問うた。
「じゃあ、黙さん。訊きたいことがあるんですけど、お願いですから、正直に答えてください」
「ふんふん?」
「――どうして、私を助けてくれたんですか?」
和音は不思議でならなかった。今のところ、偶然出会ったということ以外、二人を結ぶこれといった関係はないのだ。なのに、なぜこの人は、管理局やフェルマータに追われる危険を冒してまで、自分を救ってくれたのだろう。
彼が間賊だという点を考慮すれば、答えはある方向性を示す。すなわち、何かウラがあるということだ。助けるふりをして、自分を何かに利用しようとする、とか。善意だけで人を助けるなんてことが、彼に限ってありえないのは、牢屋で脱獄を頼み込んだ男をあっさり断ったあたりからも予測できる。
怒るか、嗤うか、どう出るか。身構えた和音は、黙の妙に意味深で艶っぽい笑いに、ギクリとした。嫌な予感にうながされるまま身を引こうとするも、それより早く手首をつかまれてしまい、逃げられない。
「おやおや、それはアレかい? BSが多意なく人を救うわけねェだろ、ってことかい?」
「え、ええと」
「図星って顔だな。俺って、そんな打算的な人間に見える?」
「充分見えま――あ、いえ、だから、その」
「まァ、ホラ。何と言っても、男が命をかけて女を救う理由といったら、ひとつしかナイんじゃないの?」
「ははは、はいっ!? ひ、ひとつしかないんですか!?」
声が裏返る。何だかさっきから、黙との距離が縮まっていっている気がしてならない。もっと離れてくれえ、と思うものの、傷ついている左手をつかまれていては、痛くて振りほどけないのだ。
黙は自信にあふれた表情を崩さない。それで不意に、彼が無精ひげをそって身なりを整えたら、かなり格好良くなるという事実に気がついてしまった。薄汚れた風貌のせいで、おじさんとばかり思いこんでいたものの、こうやって見てみると、年だって結構若いのかもしれない。
「そう、一つだけだ。これは、ちょっと前から思っていたことだが――」
すい、と顔を近づけてくる。鼻と鼻がくっつくほどの至近距離で、目を閉じ、一言。
「アンタ、イイにおいがするな……」
「ーーーーー△ζ○ё☆ッ!!」
やぶからぼうに何を言い出すんだこいつは!? と、内心大絶叫である。叫べるものなら叫びたいが、あまりの出し抜けっぷりに行動が追いつかない。
真っ赤になって進退窮まる和音に、彼はとどめの言葉を送った。
「うん、コーヒーのにおいだねェ」
考えるより先に、足が男をぶっ飛ばしていた。
「………世界は、決してひとつじゃナイ。ソレを実感出来るのが、挟間という場所だ。あそこはまさに、どこでもない場所。ありとあらゆる世界と世界の間に位置するゾーンでな。
当然そこを流れる風――挟間風――は、ただの風じゃねェ。全ての世界の、時間と空間とが、風という形をとったものだ」
蹴られた腹をさすりつつ、黙が説明する。ひざを抱えて聞く和音は、そっと口を開いた。
「世界がひとつじゃない……?」
「アンタ、見なかったか? 管理局の牢にいた、すんごい種類豊富な人の数々を」
「見ましたけど……。――そうか、あの人たちはみんな出身世界が違うんだ。だから、色々な姿形をしていたんですね?」
「誓ってイエス。人じゃねェ生き物が高等知能を持っていたり、ロボットしかいなかったり、科学を使っていたり、魔法を使っていたり、ジツに多種多様な世界があるからな。同じ世界でも、時代が違えばそりゃあ別の世界だ。早い話、人の数だけ世界はあるのよ。現段階で判明している世界は、ざっと七百くらい。それでも、毎日十数個ずつ新世界が見っかってるんだ。全体でいくつあるのかは、到底分かりゃしねェだろうナ」
「うわあ……」
途方もない話に、和音は嘆声を上げた。平行世界より、さらにスケールが大きい。様々な世界。様々な時代。様々な常識、様々な文化、様々な生物――。
「世界で初めて挟間を発見したのは、とある科学世界の住人だった」
彼の話は続く。
「だが、挟間には他者を拒絶する力が働いているらしく、人がそこへ行けるようになったのは、もっとずっと後のコトなんだよ。山のような施設と、莫大なエネルギーを駆使して、『挟間ゲート』という門が発明された。このゲートを通れば、人工的に挟間へいける。
科学者達は、むさぼるように挟間の研究を始めた。世界は挟間の時代となり、そこで様々なことが判明していったってワケよ。
まずは、挟間風の特性だ。挟間を吹く風は、一般的に支流と呼ばれている。で、その中には、挟間から各世界へと道案内してくれる流れも存在していてな。コレを本流と呼ぶ」
ああ、と和音は納得した。
先ほど自分達は、今いる世界へと通ずる本流に身を投じたのだ。だから、体中を風が取り巻いたように感じた、と。
「支流と本流は、専用機械を使わない限り、見分けがつかん。ゆえに、ちょっと面倒な事態が発生しちゃうのよ。例えば、のほほんと挟間の風に当たっていたら、どうなると思う?」
不意の質問に、和音は今まで得た情報を頭の中で照らし合わせ、結論に達した。
「いつ何時、どこの世界の本流に飲み込まれるか、分からない」
そうだとすれば、大変なことだ。たくさんある世界が、全て安全とは限らないだろう。
本流に飲み込まれ、行き着いた先が、燃える大地だったら? 酸素がなかったら? ひょっとすると、本物の地獄、だってあるかもしれない。飛ばされたとたん即死することは目に見えている。
「あ! そういえば、挟間に来た最初に、私のカバンがどこかへ行ってしまったんです。急に消えてしまったように見えたけれど、あれがつまるところ、『違う世界への本流に飲み込まれた』ってことなんですね?」
黙は口笛を吹く。生徒をほめる教師然として、
「物分りがイイってのは、人間最大の美徳だぜ。その通り、今頃カバンは、どっか別の世界をあてどなくさまよってるな。探し出すことは、まずもって不可能だ」
と、洞窟の天井を見上げた。外では依然、しとしとと雨が降っている。
黙はやおらに、和音の左手首についている腕時計を示した。最初に出会ったとき、わけもわからず持たされたものだ。横についているツマミをねじり、引っ張ると、アンテナがするすると伸びる。
「もしアンタがカバンをなくしたとき、コレを持ってたら、状況は変わってただろう。この読風機は、文字通り風を読む機械だ。アンテナを使えば、どの風がどの世界へ流れているのか、一発で分かる。本流と支流を見分ける唯一のモノで、ま、挟間必需品のひとつだ」
次に、ベルトに着けた万歩計に視線を落とした。
「必需品その2。さっきアンタが言ったような、『勝手に別世界へ連れて行かれる』なんて事故防止に役立つものが、この『ラクシー』よ。正式名称は空間固定装置。こいつを身につけ、挟間における自己存在の安定化をはかれば、どんな挟間風に当たろうが怖かねェよ」
「ふ……ふうん……」
空間が固定出来るなど、初耳だ。どういう仕組みかさっぱり分からないが、きっとこういうのは考えるだけ無駄なのだろう。もともと自分は文型で、論理的思考には向いていない。細かいことは放っておいて、要所だけ覚えればいいか、と開き直ることにする。
「その挟間風だが、実は、『挟間→各世界』という方向でしか流れてねェんだよ。挟間から出ることはたやすいが、入るとなると、ものすごいエネルギーを必要とするワケ。行きはヨイヨイ、帰りはコワイ~♪ ってね。だから挟間ゲートは、一山もあるような、仰々しい機械の塊にならざるを得ない。挟間という存在がメジャーじゃないのも、そのせいだ。
――しかぁし。何事にも例外はあるものでな。海流が時々変動するように、挟間風も予期せぬ動きを見せることがある。法則性をまったく無視し、『各世界→挟間』へと、もしくは『各世界→別世界』へと流れるさだめを持った風。……それが、暗流と呼ばれる流れよ」
黙の語り方は、不思議と人を引き付けるものがあった。ずいぶん複雑な事を話しているようだが、要所を的確に押さえているため、混乱することなくするりと胸に落ちる。
「この暗流を予測することは、完璧に不可能、今の文明じゃムリだ。ほとんど前触れもなく始まり、前触れもなく終わる。アレっと思ったころにゃあ、もう、別世界ってことが珍しくない。規模が小さけりゃ、突然人が消えたようにも見えるハズだ。大方アンタはそれに飲み込まれ、コッチに来ちまったんじゃねェか?」
記憶を反芻しながら、和音はうなずいた。すべての始まりとなった、あの瞬間。文字通り前触れなく、足もとが消えてしまったのだから、たぶんそうなのだろう。
ふと、こんなことを思う。人が突然行方不明になる「神隠し」。あれはひょっとすると、この暗流が正体だったのではないか。今頃もとの世界では、『女子大生謎の失踪! 現代に甦る神隠しか!?』などという題名が、週刊誌を飾っているのかもしれない。
ここでようやく、和音は重大な問題に気がついた。ピンチに継ぐピンチのせいで、すっかり失念していたが――果たして、自分は元の世界に戻れるのだろうか?
チラリと黙を見ると、彼は全て心得たとばかり、鷹揚に構えている。
「自分の出身世界を探すことは、どっか行ったカバンを探すより、簡単っちゃあ簡単だ。アンタの体に、その世界のにおいが染み付いているからな。ちゃんとした設備さえあれば、時間はかかるかも知れねェが、判明するだろうよ」
「――本当ですか!?」
思わず身を乗り出した。まだそんなに実感はないが、このまま帰れなくなってしまうのは嫌だった。家族や親戚、仲の良い友人達と、二度と会えない、なんて。
「俺ぁ冗談は言うケド、得にもならん嘘はつかねェよ。絶対帰れる、誓ってイエスさ」
決め台詞のように、キッパリと告げられた。
……一〇〇パーセント信用した、わけではない。しかし、信じてもいいのでは、と思い始めたのは事実だ。
何より和音は、生来が人を疑うように出来ていない。警戒することも時には必要だと理解しているものの、あまりピリピリしていると、なんだか自分がすごく矮小な生き物になったみたいで、疲れてしまうのだ。
「分かりました。……その言葉は信用します」
答えて、膝を抱えなおす。黙も軽くうなずき、また天井を見上げた。
沈黙が流れる。聞こえるのは、ざあざあという雨の音だけだ。降りは強くなってきており、洞窟の外で森がにじんで見え、ちょっとした樹海のような雰囲気をかもし出している。
ぼうっと景色を眺めていた和音は、しばらくしてから異様なものを発見し、目を見開いた。ほぼ同時に、黙もゆっくりと立ち上がる。
「……長居しすぎちゃったか」
つぶやく顔は、いつになくシリアスだ。
森の奥で、赤くきらめくものがある。それらは次第に数を増し、低いうなり声とともに、這うようにこちらへ接近してくる。
洞窟の外が、多くの獣達に囲まれていた。