プロローグ。牢屋で生活するには 14
なにか酷い悪夢を見たような気がして目を開ける。
うっすらと映るのは、薄暗い石の壁。手のひらには冷たい石の感触がして、私はそこにうつ伏せになっていた。頬に石の床が当たってざらざらする。
釈然としないものを感じながら、むっくりと起き上がる。
頭が全然働かない。
でもとりあえず、壁に傷をつけて日数を確認する。
傷の数は今日で53個め。
早いもので、牢屋生活ももう53日もたったのかー・・・。
と感慨にふけってから、ふと首をかしげた。
そうだっけ? なんかすごい事があったような気がする。
例えば、拷問とか、虎とか虎とか爆発とか。
いやいやまさか。そんなまさか。
私ってば、夢の中で夢を見てしまったんだって。その証拠に、体に傷はどこにもないし、どこも痛くないし、謎の声だって今は聞こえないし。
そうそう、そのうちまたいつものように男がやってきて、ご飯をくれて雑談して、そういう平和で呑気な牢屋生活がまた始まるんだって。
と、そう思っていたのに。
やってきたのは、
カッカッカ。
という硬質な足音だった。足音は地下の空間に反響して、少しづつ近づいてきている。
良くない事が起きる、と反射のように思った。
恐怖が蘇る。裂けた背中、折れた腕、つぶれた足に、剥がれた爪。
壊れた自分の体。無表情の銀色の男。
来るな、と思った。彼はこの平和な夢を終わらせる悪夢の先触れだ。
カタカタ鳴る歯をかみしめて、私は自分の体を抱きしめた。
丸くなって、俯いて、鉄格子に背を向ける。
しかし、願いは叶わなかった。
カツン、と最後の音を立てて、鉄格子の前で足音が止まった。
私はゆっくりと振り返る。
そこにいるのは、金や銀のボタンのついた、白いフリルの襟元の、とても整った相貌の男。
けれど、銀の瞳も、涼やかな美貌も、ひどく疲れたというように陰っている。良く見れば、豪華な服装もヨレや皺があるし、薄汚れているような気がした。
後ろでひとつにくくってあるらしい長い銀髪も、ほつれてやつれた印象になっていた。
あれ? と思った。
男は一言も口を開かず、一歩下がった。
騎士たちは私の牢屋の鍵をあけて入ってくる。
一人の騎士が私の前で立ち止まり、兜を取って、頭を下げた。
もう一人の騎士は私に向かって礼をしている。
何だ。何が起こっているんだ?
騎士が私に向かって手を差し伸べたので、思わずその手を取ってしまい、流れで立ち上がった。
そのまま導かれて牢の外に連れ出される。
「あの、これはどういう・・・?」
疑問の声をあげたが、騎士たちは何も答えてくれなかった。
銀色の男は、何も聞こえていないとでも言うように歩いて行ってしまう。
一人の騎士がそれを追いかけて、私も促されて追いかけることになった。
早足で進むが、拘束もされない。しかも向かう先は牢屋の奥の下り階段ではなく、反対側の上り階段で、私は戸惑いながらもそれを上り、建物の中を歩いて、扉をくぐった。
そして私は、思わず立ち止まってしまった。
そこには世界が広がっていたからだ。
藍色の帳が下りた世界の中では、夜空に白い星が煌めいて、月が銀に輝いていた。
庭園の花は月の光を受けて、淡く光っているように見える。
その中からひとつ、ふたつと光が浮かび上がり、空に舞い上がっていく。蛍だ。
なんて幻想的。
だが、同時に足元に点々と落ちる黒い血痕も見えてしまった。
世界は鮮やかだが、美しいだけではない。と思った事を思い出した。
そうだ、私はここで戦ったのだ。虎の様で虎ではない、獣と。
夢ならいいのにな、と思っていたのだけれど、そう上手くはいかなかったみたいだ。
これは夢のはずなのに、全然甘くない。
庭園に転がっていた騎士たちは一人もいないけれど、どうなったんだろう。助かったのだろうか。
気になったけど、尋ねたところで銀色の男が答えてくれるとも思えず、疑問を呑み込んだ。
立ち止っていたのを促されて、また歩き出す。
庭園の中の道を歩き、壊れた東屋の隣を通り、また建物の中に入る。
入る前に見上げて眺めてみたが、その建物は城であるらしい。白亜のレンガで作られた城だ。
その中を導かれるままに従って歩く。最初はシャンデリアが明るく照らす真っ赤な絨毯の、大きな通路を歩いていたのだけれど、騎士の一人が銅像の一つを押すと壁に新しい道が出来て、そこを進んで行くことになった。
細い道や暗い階段をひたすら上っていく。
これは多分、裏道と言うか、もしもの時の脱出口のような、隠された道なんだろう。
私が知って良いものとも思えないけれど、大丈夫なんだろうか?
長い長い道を歩いて、ふいに、ある広い部屋に出た。
その部屋は明るい。何度も上り階段を上がったから、城の中でもかなり上の方にある部屋だろう。
きょろきょろ部屋の中を見回すと、部屋の壁を埋め尽くすように本棚が並び、立派な装丁の本で埋め尽くされていた。
もふ、と足を包むような絨毯に敷き詰められ、皮のソファーと高さの低いテーブルがある。そのどちらにも本が山と積んである。
そして一際目立つのは、頑丈そうな執務机。そこに座っている、金色の人物。
金色の髪と、金色の瞳。
歳は若くはないが、老いてもいなかった。迫力があるので、年齢がよく分からない。
どこかで見たような顔だな、と凝視していると、
「来たか」
その上品な口元から出てきた声は、あの、例の、とてもよく知っている男のものだった。
ここまでお付き合い頂きありがとうございます。これにてプロローグは終了です。