テレフォンレター
ピ(、)ー(、)ピ(、)ッ(、)ピ(、)ー(、)ピ(、)ピ(、)ー(、)ピ(、)ー(、)ピ(、)ピ(、)ピ(、)ピ(、)ッ(、)、ピ(、)ー(、)ピ(、)ッ(、)ピ(、)ー(、)ピ(、)ピ(、)ー(、)ピ(、)ー(、)ピ(、)ピ(、)ピ(、)ピ(、)ッ(、)
信号。
真っ暗な空間に浮かぶ人工衛星。そこからその暗闇そっくりの無機質な信号が送られてくる。
異空間からの交信。その、試み。
人工衛星の真っ白なからだには、一つの穴が開いている。円形の窓。どうやら誰かが中にいるようだ。目を凝らして見ようとする。その部分がレンズの倍率を上げるように拡大される。その体は黒と白で構成されていた。そして、それには嘴もあった。
ペンギン?
それはペンギンだった。
俺はけたたましい電子音で目を覚ました。手元の時計に目をやる。緑色に光るデジタルの数字は午前三時を告げていた。鳴っているのは固定電話の着信音だ。地球の裏側からだろうか?非常に機嫌が悪い。
妙な夢を見ていた。俺は宇宙を見ていた。小さな星が点在する暗闇の中、孤独に彷徨う人工衛星。それに乗っている一匹のペンギン。全く意味不明だ。
電話はまだ鳴っていた。俺は無視を決め込むことにした。当たり前だ。こちらにはこちらの生活があり、それは明日も続いていく。こうして貴重な安眠時間を中断されただけでも多大な損害だ。俺は頭から布団をかぶって強く目を閉じた。
しかし、電話はいつまでたっても鳴り止まなかった。鳴り続けた。留守番電話に接続されることもなく。ひたすらに、鳴り続けていた。
俺はついに起き上がった。ベッドから降りて電話のある方へ向かう。途中、床に置きっぱなしにしてあった空のビール缶を蹴飛ばしてしまった。ちっ、と舌打ちをしつつ、そのまま暗闇に足を進める。次はプラスチックの容器を踏む感触。昨日食べた弁当だった。俺は構わず進んだ。そして、電話機があるはずのところへ手を伸ばした。
あれ?
しかし、その手は空を切った。そこに期待した感触はなかった。つまり、そこに電話機はなかった。次第に視線が暗闇をかき分けて、目が慣れていった。そして、確認した。
電話機は、消えていた。
俺はよく見た。状況を。そこには自分の在り処を探して所在なく手を伸ばす電話線だけが不安げに横たわっていた。しかし、電話線が抜けているにも関わらず、俺を呼ぶ電子音は鳴り続けていた。変な話だった。
俺は苛立たしげに舌打ちをして、仕方なく電話機を探し始めた。まずは元々電話機のあった周辺を探してみたが、そこには電話機があるという気配すら感じられなかった。俺はそこで覚悟を決め、家中を捜索し始めた。
とは言っても俺の家はワンルームのアパートで、そもそも探す場所を探さなければならないぐらいシンプルな部屋だった。俺はその殺風景な部屋で電話機が隠れていそうな場所――そもそも電話機が隠れている場所とは一体どんな場所なのか、文字にすれば尚のこと意味がわからないが――をまず頭の中で探し、そして実際に行動に移して探してみた。ベッドの下はもちろん、冷蔵庫の中からバスタブの底まで探してみた。けれど――もちろんと言うべきなのか――電話機は見つからなかった。
俺はバスタブの蓋を開けて覗きながら、そもそも何故俺は今こんなことをしているのか、という気分になってきた。当然の疑問。そんな疑問を抱いている最中も電話機は強迫的に俺を呼び続けている。俺はため息をついた。夜中の三時に何が悲しくて電話機など探さなければならないのか。明日も俺は朝から搭乗者数の限界に挑むラッシュアワーの満員電車に乗り込み、自意識過剰としか思えないほどに高層なビルの一室で、一日においての主な活動時間を会社の、あるいは社会の肉体的、精神的奴隷と化して過ごすのだ。
俺は思った。昔を。まだ、そう遠くはなかった昔を、思い出していた。
就職活動。あの時、俺は確かに勝ったはずだった。厳しい就職難。就職活動は難航を極めた。次々と落とされていく友人たち。俺はそれを脇目に一般的に見てかなり良い就職口に潜り込んだ。そう、俺はあの時、勝ったはずだった。
しかし、現状はこうだ。そこには生きている実感というものがなかった。毎日外で精神を削ぎ落とすだけ削ぎ落とし、家でそんな自分を見つめて失望した。そこには目的がなかった。いや、あるにはある。だがそれは決して高いわけでもない生活高度を維持するという、ただ虚しいだけのものだった。それにこの部屋を見ればわかる。ここには維持されるべきものなど、何もない。
俺は今、殺されるためだけに生きていた。
会社に。社会に。
社会に出るとは骨の髄まで己をしゃぶりつくされることなのだと、実際に社会に出るまで知らなかった。そんなこと、どこでも教えてはくれなかった。三角関数やキイロショウジョウバエの染色体遺伝なんかよりも、よっぽどそっちの方が教えてほしかった。今や俺は頑丈な首輪を取り付けられ、ただ飼い殺しを待つだけの道具でしかなかった。
そんなことを考えている時、俺はふと気付いた。
まだ、電話は鳴り続けていた。しかし、よく聞くとそれはいつも一定の強さで俺に迫ってきた。どこにいても。どんな場所にいても。俺は早く気づくべきだった。とんだ間抜けだ。大体まず電話機を探そうと思えば、どこからその音が聞こえてくるのかということを念頭に置いて探す場所を検討するのが普通だろう。寝起きを理由にして良いのかはわからないが、とにかく俺の頭は十分に回っておらず、その考えまで至ることができなかったようだ。そこに至ってさえいれば、俺はこの問題に早く行き当たっていたはずだ。そう、音は常に同じ音量で俺を呼んでいる。つまり、電話機は常に俺と同じ距離を置いてそこに在るということだ。
それはよく考えれば奇妙な事だ。
控えめに言って、とても奇妙だ。
これは一体どういうことなんだろうか?俺は鳴り続く電子音をBGMにしながら考えてみた。消えた電話機。外された電話線。鳴り止まない着信音。遠ざかることはなく、近寄ることもない、着信音。しかし俺にはわからなかった。やっと冴えてきた頭でもわかるはずがなかった。大体そんな奇妙な出来事にこれまで出会ったことがないのだ。当然だ。
俺は試しに耳を塞いでみた。半ば自棄糞だった。
しかし、それでも音は聞こえてきた。驚いた、というよりは納得がいった。この結果が示す答えはこうだ。
着信音は俺の中から聞こえてくる
だからどこにいても音の大きさが変わることはなかった。どこにいても常に音との距離は同じだった。それは俺の中で音が鳴り響いていたからだ。電話機が何故消えたかは未だにわからないが、これで少しはこの現象に説明がついた。
そうは言っても、と俺は思う。俺は一体「これ」をどう扱えばいいのか?どうすれば俺は「この音」に対して応えてやることができるのか?
当然、わからない。
俺は「その音」に対して、口で「ガチャ」と言ってみた。これもただの自棄糞の、ただの思い付きだ。
だがその瞬間、記録的に一定のリズムを刻み続けてきた電子音はぴた、と鳴り止み、不毛の砂漠を思わせるようなノイズが耳をついた。受話器は、確かに取られたようだった。俺は耳を澄ませた。人工的な砂嵐の向こうに、何かの気配を感じ取ることができた。
――――――――ん
誰かの声が聞こえた。その声は激しい砂嵐に遮られて最初は茫漠としていたが、徐々にくっきりとした輪郭を得ていった。
――――――――ん
―――――ミくん
――ミカミくん
一瞬にして俺は連れ出された。いや、それは正しい表現ではない。俺は引き戻された。
そこには風景があった。そこはもう俺を映し出す暗い独房ではなかった。明るかった。そこには黄色があった。赤や茶色もあった。よく見るとそれは木の葉で、まるで世界を自分たちの色彩で包み込もうとするかのように空から降り注いでいた。
そしてそれはあの頃、俺がしようとしていたことだった。俺たちが、しようとしていたことだった。そう、確かに俺たちはあの頃、世界を手にしていたはずだった。世界を俺と君で埋め尽くそうとしていた。それはとても素晴らしい事のように思えた。いや、実際にそれは素晴らしかった。残酷的なほどに、それは美しかった。
――ミカミくん、お元気ですか?
その声は無邪気に俺に話しかけてきた。無邪気という言葉はこのためにあるのかと、そう信じて疑わないような、そんな声だった。
――だんだん寒くなってきましたね。そちらは今、どんな感じですか?
今の季節は夏だった。クーラーをつけていないと、冷たい水を飲むだけで汗が噴き出すほどに暑い。だが、その声は言っていた「だんだん寒くなってきましたね」と。
――わたしは最近、学校に続く道を歩きながら、下に落ちている落ち葉のことを考えます。
――どうしても、考えてしまうんです。
もちろん、この街には落ち葉などまだ降り積もっていない。落ち葉どころか、木々は空へ幾枝もの腕を伸ばしながら、力強く青々とした葉を繁らせている。
――この落ち葉たちは枝から離れる時、一体どんなことを考えていたのでしょう?
――どんな思いを抱きながら、落ちていったのでしょう?
――まだ落ち葉たちが緑色の葉っぱだった頃、落ち葉たちはたくさん働いていました。
――自分たちを生んでくれた親である、その木のために。
その言葉は淡々と語られていた。それが一層、その声の真っ白な無垢を際立たせていた。
――けれど落ち葉たちは捨てられていくのです。
――他ならぬ、その木のために。
――その時、落ち葉たちは何を思うのでしょう?
――その木を、恨むのでしょうか?
――それとも、感謝するのでしょうか?
――わたしにはわかりません。
――でも、そのどちらであっても、わたしはやっぱり悲しいのです。
たまらなく、切ないのです。と声は言った。想いが溢れて、思いがけずこぼれてしまったというような、ぽつりとした声だった。そして、――だから、と声は続けた。
――だから、わたしはいつも下を見て歩きます。
――彼らの眠りを、少しでも邪魔しないために。
声は語っていた。自分で見つめた世界のことを。その世界に対する自らの想いを。今の俺には見ていられない程、まっさらな目で、その声は見つめていた。けれど声はそこまで語ったあと、少し照れて笑った。
――なんて、ちょっと恥ずかしい事を書いてしまいました。
声ははにかんで笑った。とても親密だった。手を伸ばせばすぐにでもその声に届きそうだった。
――ねえ、ミカミくん。
――ミカミくんは今、どんなことを考えていますか?
――どんなことをして、どんなことを感じていますか?
――背は、伸びましたか?
――わたしなんかもうとっくに追い抜かれてたりして。
その声は一言一言語り終えるごとに繊細になっていった。それは長く地面で――そう、本来自分がいるべき場所だったところよりもずっと空から離れた場所で――じっと耐え続けた落ち葉のような、軽く握ればぱらぱらと砕けてしまうような、そんな繊細さだった。
そして声は、最後にこう言った。
――また、会いたいです。
ああ、会いに行こう。そう思った。
そこに君はもういないかもしれないけれど。
いや、そこまで辿り着くだけの翼を、俺はもう持っていないかもしれないけれど。
その翼は、もう飛び方を忘れてしまっているかもしれないけれど。
俺は、君に会いに行こうと思った。
だけど、ちょっと待ってくれ。俺はそう口に出して言った。
その前に少しだけ休ませてくれ。
俺は膝から床に崩れ落ちた。硬い床に、膝は痛かった。カーテンの隙間を縫って、光が部屋に差し込んでいた。朝が来たようだった。