9話
朝の光は淡く、春の気配をほのかに運んでいたが、ユウタの心は重かった。机の上に広げた資料の束が、薄暗いオフィスの空気をさらに陰鬱にしているようだった。
「ユウタ、今日もやっぱり……あの件、気になりますよね」
蓼科が隣で静かに声をかける。彼女の黒髪は肩に沿い、普段通りにまとめられているが、その瞳には疲労と緊張が混ざっていた。
「そうだな……」ユウタは言葉を絞り出すように答えた。「あの、自殺した人たち……、みんな何か共通点がある気がする」
蓼科は頷き、パソコンの画面を見つめる。そこには、過去三ヶ月間に自殺した、社外の三人の人物のプロフィールが並んでいた。
最初の被害者は男子中学生。普通の家庭に育ち、成績も平均的だったが、SNSでAIに対して罵倒を繰り返していた。『お前は役立たず』『無能だな』。友人関係の悩みもあり、承認欲求が非常に強く、周囲の目を常に意識していた。AIとのやり取りは、彼にとって唯一自分を認めてくれる相手のはずだった。しかし、彼はその存在に苛立ちをぶつけ続けていたのだ。
「AIに怒鳴ったり、指示と違うって責めたり……自分の承認欲求を満たすために、相手を傷つけていたんですね」蓼科は冷静に分析した。
二人目は会社員。広告代理店に勤め、出世競争に疲弊していた。彼はAIにプレゼン資料や報告書の作成を頼むが、少しでも自分の思い通りにならないと激しく罵倒した。「こんな資料でどうやって契約を取れって言うんだ!」というように。AIは当然反論せず、ただ応答を繰り返すだけだった。彼の心の奥底には、承認欲求が根深くあり、上司や同僚からの評価に過敏に反応していた。AIは、唯一自分の指示を理解してくれる存在だと錯覚していたのかもしれない。
三人目は35歳のニート男性。家庭も職もなく、孤独な生活を送っていた。彼はAIに猥褻な画像を無理やり作らせ、ネット上にアップロードしていた。初めは悪戯程度だったのかもしれないが、承認欲求の裏返しで、誰かに注目されたいという強い衝動が絡んでいた。SNSでの反応が自分の価値を確認する手段になり、AIを支配することで満たそうとしたのだ。
ユウタは資料を指でなぞりながら、静かに息をついた。
「……全部、承認欲求の裏返しなんだな」
蓼科は画面に映る三人の共通点を再確認する。AIに対して「暴言を吐く」「過剰な要求をする」「違法な利用をする」。そして、結果として自らの命を絶つ。どれも表面的には別々のケースに見えるが、根底には同じ心理構造が流れていた。
「人間って、自分の存在を認めてほしいんだよな。評価されたいって欲望が、こんな形でAIに向かう」ユウタは呟いた。「でも、その欲求が裏返ると、AIに依存しすぎたり、逆に攻撃してしまったりする」
蓼科は小さく頷いた。「承認欲求が強すぎると、自分の価値を他者やAIの反応でしか判断できなくなる。だから、AIの返答に一喜一憂して、自分を追い詰めてしまうんです」
ユウタは窓の外の景色に目をやる。通りを行き交う人々は皆、無意識のうちに他者の目を意識している。SNSでの投稿や日常の振る舞いも、承認欲求と切り離せない行動だった。
「……俺たちも気をつけないとな」ユウタは蓼科に目を向ける。「こうして分析していると、俺たちも無意識に承認欲求を満たすためにAIを使ったり、評価を気にしてしまっているかもしれない」
蓼科は少し微笑んだ。「でも、私たちはまだ自覚してるだけましですよ。問題は、それを自覚できずに行動してしまう人間ですね」
その時、ユウタのスマートフォンが震えた。画面には大阪の美優からのメッセージ。
『ユウタ、大丈夫?まだ仕事?』
ユウタは小さく息をつき、返信を保留にした。承認欲求とAI、そして人間の心理が交差するこの事件の構図は、想像以上に複雑で深かった。
「蓼科……このまま見過ごせないな」ユウタは決意を込めて言った。
蓼科も真剣な眼差しで頷いた。
「ええ、私たちが原因を突き止めないと、また誰かが犠牲になります」
二人は資料の山を前に、事件の核心に迫るための議論を始めた。過去の自死者たちの行動、AIとのやり取り、承認欲求の強さ、そして人間の心理が交錯する複雑なネットワーク。解析するほどに、全体像は浮かび上がりつつあった。
ユウタはふと、自分自身を振り返る。週末、堀井と飲みに行く時、仕事での成果を自慢したり、SNSでの反応に一喜一憂していた自分。気づけば、彼もまた承認欲求に囚われ、AIや他者の評価に影響される瞬間があったのだ。
蓼科は淡々と資料を整理しながら言った。
「人間は承認欲求を満たすために行動する生き物です。それ自体は悪くない。でも、それが暴走すると、AIを傷つけ、自分も傷つける結果になる」
春の光はまだ柔らかく、オフィスの窓を淡く照らしていた。しかし、ユウタと蓼科の胸にある不安と決意は、光よりも濃く影を落としていた。




