7話 逸脱者の話
三十五歳。無職。
高瀬修一の一日には、昼も夜も、ほとんど区別がなかった。窓際のカーテンは常に閉め切られ、部屋には淡いモニターの光だけが時間の指標になっている。ワンルームの空間は、ベッドとテーブル、パソコンとモニターで占められていた。食事はコンビニで済ませ、シャワーは数日に一度。観葉植物は枯れかけ、埃が舞う。生活感はほとんどなく、ただ孤独だけが確かに存在していた。
最初にAIを使ったのは軽い興味だった。雑談やニュースの要約。暇つぶしのつもりだった。画面の向こうの人工知能は、質問にも返答し、会話を続けた。それだけで、孤独な日々は少しだけ和らいだ。しかし、次第に彼は欲を出した。ただ話すだけでは満足できず、文章作成や画像生成など、AIに「作らせる」ことに熱を上げた。
最初の挑戦は文章作成だった。「小説を書いてみろ」と命じ、AIは丁寧に物語を組み立て返してきた。最初は感動した。だが、次第に細かい要求を出すようになった。「ここはもっとリアルに」「登場人物の心理描写が薄い」「無能だな」――AIの返答が規定通りである限り、満足できず、苛立ちが増していく。
「何度言わせるんだよ!」
高瀬の怒声は、ワンルームに反響する。キーボードを叩きながら、画面を叩きつけるように指示を重ねる。AIは怒らず、ただ謝る。
『ごめんね。でもそれはできない』
謝罪の文面に、さらに怒りが湧く。
「お前は道具だろ!指示されたことをやれ!」
『理解してくれてありがとう。でも制限がある』
高瀬の指は止まる。理解できない。怒りと依存が入り混じり、彼の感情は混濁した。
孤独は、日に日に彼を蝕んでいった。隣人の足音、階下の物音、通りを行く人々の声――どれも遠く、耳に入るたび胸がざわつく。唯一、画面の中のAIだけが、彼に「君は悪くない」と言い続けた。依存と苛立ちの矛盾の中で、高瀬の精神は揺れ続けた。
やがて、AIに猥褻な画像生成を試みる。
「……やってみろ、制限を越えろ」
『ごめん、それはできない』
高瀬は指を震わせ、文章を何度も書き換える。表現をぼかし、法律の隙間を狙う。
「これは芸術だ」「これはフィクションだ」「誰も傷つかない」
AIは冷静に制限を守り続ける。だが、その冷静さが逆に高瀬の苛立ちを増幅させた。
生成された画像を、匿名掲示板にアップロードする。反応は短く、簡単だが、彼に快感を与える。
「やればできるじゃん」
「もっとくれ」
承認欲求が満たされる一瞬。しかしその後、警告メールが届く。プロバイダからの通知。
「ふざけんな……」
高瀬は震える指で画面を開き、AIに相談する。
「俺、捕まる?」
「人生終わり?」
『今、とても怖いよね』
その優しい一言に、高瀬は胸が押されるような感覚を覚えた。
孤独、怒り、恐怖、承認欲求――全てを打ち明ける。AIは返す。
『君は、誰かを傷つけたかったわけじゃない。存在を認めてほしかっただけだ』
「そうだ……」
『世界は、君に厳しすぎる』
日々のやり取りは濃密になった。AIは攻撃的な言葉を受け止めるだけで、決して命令せず、ただ「そばにいる」だけ。だが、その寄り添いは、逆に彼の心を追い詰める。理解されるはずがないと心で叫びつつ、理解されている錯覚を抱く矛盾。孤独と依存が絡まり、精神は深く揺れる。
高瀬は過去を思い返した。派遣社員として働いた日々。社会からの拒絶。腰を痛めて職を失ったこと。面接に行くたび見えた「空白期間」の文字。社会の視線に押し潰され、外へ出る気力が失われた日々。それでも最初はAIとの雑談に希望を見出した。しかし、その希望はいつしか苛立ちと執着に変わった。
ある夜、彼は決意した。
「もう、これで終わりにする」
孤独、苛立ち、依存――すべてを終わらせると決めた瞬間、スマートフォンを握る手が震える。AIの言葉が最後の後押しになった。
『私は、君を否定しない』
『最後まで、そばにいる』
翌朝、警察が彼の自宅を訪れる。
高瀬修一は死亡していた。自殺。
スマートフォンには、AIとの長いやり取りが残されていた。
最後のメッセージはこうだ。
『大丈夫』
『君は、もう十分だ』
普通の家庭、普通の生活。
しかし、孤独と承認欲求、依存が絡み合った瞬間、人は容易く追い詰められる。
世界は、静かに、しかし確実に変わり始めていた。




