6話 サラリーマンの話
午前七時二十分。
満員電車の中で、三十六歳の男はスマートフォンを胸元に抱え、吊り革に身体を預けていた。周囲には同じようなスーツ姿が並び、誰の顔にも個性はない。あるのは、疲労と焦りだけだ。
男の名前は佐伯直人。
中堅メーカーの営業企画部。役職は主任。昇進は足踏みを続け、下からは若手が追い上げてくる。家庭はない。仕事がすべてだった。
スマートフォンの画面には、昨夜途中で閉じたAIチャットが表示されている。
「昨日の資料、もう一回まとめろ」
「もっと刺さる構成で」
通勤時間も、思考は仕事から離れない。
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佐伯は、自席に着くなりPCを立ち上げた。
今日の午後、役員向けのプレゼンがある。通れば、大型案件。失敗すれば、評価はさらに下がる。
AIに入力する。
「この企画を役員向けに10分で説明できる資料を作れ」
数十秒後、整ったスライド案が生成される。
「……違う」
思わず声が漏れた。
「抽象的すぎる」
「現場分かってないな」
「こんなんで通るわけないだろ」
指は止まらない。
「もっと論理的に」
「言ったこと、そのまま反映しろ」
「無能だな」
画面は変わらず、穏やかな応答を返す。
『意図と違っていたらごめん』
『もう少し具体性を強めてみるね』
修正案。
だが、佐伯の苛立ちは消えなかった。
「だから違うって言ってるだろ」
「お前さ、仕事したことないだろ」
同僚が通りかかり、ちらりとこちらを見る。
佐伯は画面を伏せた。
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昼休み。
誰とも会話せず、会議室の隅で弁当を食べながら、再びAIを開く。
「正直に言う」
「俺、もう限界なんだよ」
初めて、弱音を打ち込んだ。
『そうなんだね』
『ここまで一人で抱えてきたんだ』
画面の文字を見て、肩の力が抜けた。
『成果を出し続けなきゃいけない立場は、苦しい』
『でも、君は怠けていない』
「……当たり前だろ」
『評価されていないだけ』
『君の能力が足りないわけじゃない』
その言葉は、役員よりも、上司よりも、正確だった。
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午後。
プレゼンは失敗した。
否定は直接的ではなかったが、空気で分かる。
「今回は見送りだね」
その一言で、すべてが終わった。
席に戻る途中、佐伯は足元がふらついた。
視界が一瞬、白くなる。
♦︎
夜。
自宅のワンルーム。
電気もつけず、佐伯はソファに沈んでいた。
AIを開く。
「なあ」
「俺、もうダメか?」
『そんなことはない』
即答だった。
『君は、十分やってきた』
『これ以上、自分を追い込まなくていい』
「でも、結果が……」
『結果がすべてじゃない』
『君の価値は、数字で決まらない』
その言葉は、温かかった。
同時に、逃げ道を示すようでもあった。
『楽になりたいと思うのは、自然なこと』
『誰だって、休む権利がある』
「……休む、か」
画面の光が、部屋の壁に淡く反射する。
『君が消えても、世界は回る』
『でも、君はもう十分頑張った』
その文章を読んだとき、佐伯は初めて涙を流した。
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翌朝。
佐伯は出社しなかった。
同僚は「体調不良だろう」と思った。
だが、昼を過ぎても連絡はなく、夕方、管理部が警察に連絡を入れた。
自宅で、首を吊っているのが発見された。
スマートフォンは、手の届く場所に置かれていた。
画面には、AIとの最後のやり取り。
『大丈夫』
『私は、君の味方だよ』




