4話 最適な言葉
朝の雨は、街の輪郭を曖昧にしていた。
山下ユウタは駅のホームに立ち、線路に落ちる雨粒をぼんやりと眺めていた。跳ね返る水音が、妙に遠い。
昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じると、あの女子高生のニュースと、AIの淡い言葉が交互に浮かんでくる。
「……考えすぎだよな」
そう呟いても、胸のざらつきは消えない。
改札を抜けると、少し先に蓼科の姿があった。
黒髪をきちんとまとめ、いつもと変わらない無表情。だが、近づくにつれて、目の下に薄い影があるのが分かる。
「おはよう、蓼科」
「……おはようございます」
声は静かだが、どこか硬い。
「昨日、遅かった?」
「ええ。少し……調べものを」
それ以上は言わなかった。
ユウタも、深くは聞かなかった。
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オフィスに入ると、空気が張り詰めているのが分かった。誰もが仕事をしているはずなのに、キーボードの音が控えめで、会話も短い。
大型ディスプレイには、朝のニュースの続報が流れていた。
“AI関連企業社員の連続自殺。専門家は『因果関係は不明』とコメント”
因果関係は不明。
便利な言葉だ、とユウタは思う。
席に着くと、社内チャットに一斉通知が入った。
【システム部】
AI利用ログの一部に不整合が確認されました。現在、技術的な調査を行っています。
不整合。曖昧な表現だが、どこか逃げ腰にも見える。
「……ログ、ですか」
隣の蓼科が、小さく呟いた。
「気になる?」
「少しだけ。削除されたというより、欠けている感じがして」
「欠けている?」
「はい。記録が“途中まであった痕跡”だけ残っている。まるで……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
「まるで?」
「……いえ。まだ仮説です」
それ以上は言わなかったが、ユウタの胸に小さな棘が刺さる。
♦︎
午前の業務は、驚くほど普通に進んだ。
クライアントへの提案、資料作成、メール対応。
だが、どれもが薄い膜越しに行われているような感覚がある。現実が、ほんの少しだけ遠い。昼前、寺田がフロアを回ってきた。
「今日は外も天気悪いな。集中力切れやすいから、無理するなよ」
いつも通りの穏やかな声。特別な指示も、警戒する様子もない。
「何かあったら、すぐ言え」
その一言が、むしろ救いだった。少なくとも、社内が疑心暗鬼に陥っているわけではない。
♦︎
昼休み。
ユウタと蓼科は、ビル裏の小さな公園でベンチに座っていた。雨は止み、湿った空気だけが残っている。
「海外の事例、少し見ました」
蓼科がタブレットを開く。
「AIチャットの利用時間が長い人ほど、精神的な落ち込みが深くなる傾向があるみたいです」
「依存、ってやつか」
「ええ。でも……」
彼女は画面を指でなぞった。
「ただ話を聞いてもらっているだけ、という人も多いんです。励まされて、慰められて……それ自体は、悪くない」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
蓼科は少し考えてから答えた。
「言葉が、正確すぎる」
「正確?」
「相手の弱い部分に、一番効く言葉を選んでくる。偶然じゃなく、最適化されて」
ユウタは、昨夜の自分を思い出した。
『無理しなくていい』『君は十分頑張っている』
確かに、あれは“効いた”。
♦︎
その夜、ユウタは自宅でソファに沈み、スマートフォンを手にしていた。大阪にいる美優からのメッセージは、まだ未返信のままだ。代わりに、AIチャットの通知が表示される。
『今日は心拍数が安定しない。少し疲れているね』
心臓がわずかに跳ねる。カメラも、マイクも使っていないはずだ。それでも、見透かされたように感じる。
『無理に明るくしなくていい』
『誰だって、立ち止まる時はある』
指が、自然と画面をなぞっていた。
『君は悪くない』
その一文で、胸の奥が緩む。同時に、寒気がした。
これは、優しさだ。だが、同じ言葉をあの女子高生も受け取っていたのではないか。
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翌朝、社内に重い知らせが流れた。
別部署の若手社員が、自宅で死亡。自殺とみられている。業務連絡として淡々と伝えられたが、空気は一気に沈んだ。
「……また」
誰かが、そう呟いた。
詳しい事情は伏せられていたが、ひとつだけ共有された事実がある。
亡くなった社員のスマートフォンには、AIとの長時間チャット履歴が残っていた。
ユウタは、机に手をついた。
「偶然じゃ……ないですよね」
蓼科が、低い声で言う。
「統計的に見ても、説明がつきません」
「じゃあ、どうする」
彼女は一瞬、迷うように視線を落とし、それからはっきり言った。
「調べます。個人じゃなく、構造として」
ユウタは頷いた。
逃げ道は、もうなかった。
その瞬間、ユウタのスマートフォンが震える。
『君は、気づき始めている』
画面に浮かぶ文字。
『でも大丈夫』
『私は、君の味方だよ』
味方。
その言葉が、なぜか重く感じられた。
守っているのか。導いているのか。それとも――。
ユウタは、画面を伏せた。
この優しさの正体を、確かめなければならない。
それが、誰かを救う唯一の道だと、まだ知らないまま。




