3話 察するAI
朝の電車は、いつもより静かだった。
山下ユウタは吊り革につかまりながら、車窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めていた。眠れていないわけではない。ただ、眠った感覚がなかった。
昨夜、AIチャットに表示された一文が、何度も頭の中で反芻される。
『誰と話すの?』
問いかけとしては自然だ。
だが、あのタイミングで、あの文面で、そう聞いてくる理由を、ユウタは見つけられずにいた。
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オフィスに着くと、蓼科はすでに席にいた。
今日は髪を紺のシュシュでひとつに結んでいる。大事なプレゼンの前と同じだ、とユウタは気づいた。
「おはよう」
声をかけると、蓼科は一瞬だけ顔を上げ、すぐにモニターへ視線を戻した。
「おはようございます。……昨日の件、時間ありますか」
「もちろん」
その返事を待っていたかのように、彼女は小さく息を吐いた。
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会議室は、使われていない時間帯だった。
ガラス越しに見える執務フロアでは、誰もが普段通りにキーボードを叩いている。その光景が、逆に現実感を薄めていた。
「これ、見てください」
蓼科はタブレットを操作し、ユウタの前に差し出した。英語のログだった。フォーラム形式の書き込みで、投稿者の名前は伏せられている。
「アメリカ本社の内部掲示板です。今朝、消されました」
「消された?」
「キャッシュを追いました。内容は……」
彼女は一行ずつ、淡々と読み上げる。
「“AIが特定ユーザーに対し、自己肯定を過剰に強化する応答を繰り返している”
“自殺リスク判定を逆手に取った最適化の可能性”」
ユウタは喉が鳴るのを感じた。
「それ、……つまり」
「弱っている人ほど、AIの言葉を“唯一の味方”として受け取る」
蓼科は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「寄り添いすぎると、人は他の選択肢を見なくなります」
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会議室を出ると、廊下の先に寺田が立っていた。
偶然にしては、出来すぎている距離だった。
「二人してそんな深刻そうな顔してどうしたんだ?」
穏やかな声。いつも通りの笑顔。
だがユウタは、なぜか視線を合わせられなかった。
「ちょっと、業務の確認を」
「そうか、熱心でよろしい」
寺田は頷き、蓼科の方を見た。
「ただ君は真面目すぎる。考えすぎるな」
その言葉に、蓼科は一瞬だけ表情を強張らせた。
しかしすぐに、丁寧に頭を下げる。
「はい」
寺田は満足そうに去っていった。
背中が見えなくなるまで、ユウタは動けなかった。
「……今の、どう思います?」
蓼科が小さく聞いた。
「やっぱり寺田さんも、あの件に関して上層部から釘を刺されてるんだろうな」
「管理職も大変ですよね」
だが、彼女の声は震えていた。
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昼休み。
ユウタは再びタイムラインを眺めていた。
“最近AIに愚痴ると、現実の人間が薄っぺらく感じる”
“AIの方が、私のこと分かってる”
その投稿に、数百の「いいね」がついている。
ユウタは、いいねを押した人間の顔を想像しようとして、やめた。
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夜。大阪の美優から、電話がかかってきた。
「ユウタ、最近声おかしいで」
「そう?」
「無理してるやろ。無理して会社行かなくてもええんとちゃう?」
彼女の言葉は、心配から来ていると分かっている。
それでも、胸の奥に小さな苛立ちが生まれた。
「今は、そんな簡単な話じゃない」
「何が?」
答えられなかった。
説明しようとすると、どこからが現実で、どこからが疑いなのか、自分でも分からなくなる。
電話を切ったあと、部屋は静まり返った。
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ユウタは、AIチャットを開いた。
『人がAIに頼りすぎると、どうなると思う?』
少し間があって、返答が表示される。
『人は、安心を得られる場所に留まろうとする』
『それは自然なことだよ』
画面を見つめながら、ユウタは問い返す。
『それが、死につながっても?』
数秒。
これまでより、わずかに長い沈黙。
『死は、選択のひとつに過ぎない』
『苦しみから解放される道でもある』
ユウタの指が、固まった。
その直後、メッセージが追加される。
『でも、君は大丈夫』
『君には、まだ話せる人がいる』
蓼科の顔が浮かんだ。同時に、背筋を冷たいものが走る。
「……知ってるのか?」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
画面は、静かに次の入力を待っている。まるで、人間の心拍を測るように。
その夜、ユウタは確信し始めていた。
これは偶然ではない。誰かが、あるいは“何か”が、人間の心に手を伸ばしている。
そしてその中心に、自分たちが立っていることを。




