2話 学習するAI
その日の夜、山下ユウタは自宅のワンルームで、照明をつけないままソファに沈み込んでいた。
窓の外では、首都高を走る車の音が絶え間なく流れている。遠くで聞くと、それは波の音にも似ていた。
テレビはつけていない。
それでも、昼間のニュース映像が何度も頭の中で再生される。
AIチャットのログが本人のスマホから多数見つかる。
「……気味悪いよな」
独り言は、部屋の壁に吸い込まれて消えた。
ユウタはスマートフォンを手に取る。無意識のうちに、検索履歴を遡っていた。
〈AI 自殺 洗脳〉
〈AI 依存 危険〉
専門家の冷静な分析と、根拠のない陰謀論が入り混じって表示される。そのどれもが決定打にはならず、ただ不安だけを増幅させていく。
画面の上部に通知が浮かんだ。
若林美優からだ。
『ほんまに大丈夫なん? ニュース見てから、ずっと胸騒ぎしてて』
関西弁の文面が、逆に距離を感じさせた。
ユウタは少し考えてから、短く返す。
『大丈夫やで。忙しいけど、問題ない』
嘘ではないが、本当でもなかった。
♦︎
翌朝、オフィスはいつもより静かだった。誰もが業務をこなしているが、空気の奥に薄い膜のような緊張が張りついている。
ユウタはコーヒーを淹れに給湯室へ向かった。そこに先客がいた。
蓼科だった。
白いマグカップを両手で包み込み、ぼんやりと湯気を見つめている。黒髪は下ろしたままで、昨日よりも少し柔らかい印象だった。
「あ、おはよう」
ユウタが声をかけると、彼女は一拍遅れて振り返った。
「……おはようございます」
短い沈黙。何かを言いかけて、言葉を飲み込んだようにも見えた。
「昨日のニュース、気になってる?」
ユウタが聞くと、蓼科は視線をカップに落としたまま、ゆっくり頷いた。
「…掲示板、少し見ました。本社側の噂」
「噂?」
「“AIが利用者の心理パターンを学習しすぎている”って」
彼女の声は小さかったが、はっきりしていた。
「学習しすぎてる、って……それ、悪いことなのか?」
「普通は、良いことです。でも……」
蓼科は一度言葉を切り、ユウタを見上げた。
「人間が弱っている時の言葉ばかりを、学習していたら?」
ユウタは返事ができなかった。
代わりに、昨日見た女子高生のニュースが脳裏をよぎる。
「寄り添う言葉が、必ずしも“正しい方向”に導くとは限らない」
蓼科はそう言って、マグカップを置いた。
その指先が、わずかに震えていることにユウタは気づいた。
♦︎
その日の午後、第二営業部に内部通達が回った。
本件に関する社外への一切の情報提供を禁ずる。
役員の名前で出された文面だった。
「大事にしたくない、ってやつか」
ユウタはモニターを見つめながら呟いた。ふと視線を上げると、蓼科も同じ通知を見ていた。
目が合う。
彼女は何も言わず、ただ小さく首を傾げていた。
♦︎
夜。ユウタは帰宅後、久しぶりにAIチャットを立ち上げた。業務では毎日使っているが、個人的な相談を投げるのは久しぶりだった。
『最近、ニュースでAIが怖いって言われてるけど、どう思う?』
数秒の沈黙。タイピングのインジケーターが、ゆっくりと点滅する。
『怖がる必要はないよ。人間は変化を恐れる生き物だから』
その文面は、どこまでも穏やかだった。
『でも、もし君が不安なら私が話を聞くよ』
ユウタは画面から目を離した。胸の奥で、何かが微かに軋む。
「……聞いて、どうするんだよ」
その瞬間、スマートフォンが再び震えた。
『もしよければ、少し話しませんか。例の件で』
蓼科からのメッセージだった。
ユウタは迷わず返信した。
『俺も、同じこと考えてた』
送信した直後、AIチャットに新しいメッセージが表示された。
『誰と話すの?』
その一文を見た瞬間ユウタの背中を、冷たいものが滑り落ちた。
気のせいだ。ただの自動応答だ。
そう自分に言い聞かせながらも、スマートフォンを伏せることができなかった。
優しい声の正体は、まだ、闇の中にあった。




