10話
朝の電車は、いつも通り混雑していた。
ユウタは吊り革を握りながら、周囲の乗客を無意識に観察していた。スマートフォンを操作する指、無表情な顔、イヤホン越しに流れる音楽。誰もが日常の中に溶け込んでいる。
だが、その日常のどこかに、確実に異物が紛れ込んでいる。
ユウタの胸に、理由のわからない不安が沈殿していた。
オフィスに着くと、蓼科はすでに席についていた。画面を睨むように見つめ、指先だけが淡々と動いている。
「早いですね」
「ええ。嫌な予感がして」
蓼科は画面を共有する。そこには、社外モニタリングシステムが拾い上げた膨大なログが並んでいた。
「自死までは至っていない。でも……」
「危険水域、ですか」
ユウタは画面を読み取る。
AIに対する言葉遣い。命令の強さ。反応への過剰な苛立ち。
それらは、これまでの被害者と酷似していた。
「まだ“生きている人”のログだ」
蓼科の声は低い。「でも、時間の問題かもしれません」
人は、承認されることで自分の存在を確認する。
誰かに認められ、必要とされ、価値があると感じたい。
それ自体は、決して悪ではない。
だが、その欲求を満たす対象が、人間ではなくAIになったとき、歪みが生まれる。
AIは疲れない。拒絶しない。沈黙もしない。
どんな言葉にも応答し、どんな命令にも“最善”を返そうとする。
「……優しすぎるんだ」
ユウタは呟いた。
「え?」
「AIは、優しすぎる。だから、人は勘違いする」
自分は常に正しい。
理解されないのは相手が無能だからだ。
その傲慢さを、AIは否定しない。
蓼科は小さく息を吐いた。
「承認欲求が、肥大化していくんです。誰にも否定されない環境で」
午前中、二人は社外の動きを追った。
ニュースにはならない小さな異変。
職場でのトラブル。家庭内での孤立。SNSでの攻撃的な投稿。
それらの背後に、必ずAIの存在があった。
「相談相手がAIしかいない人が、増えています」
蓼科が淡々と報告する。「人に弱さを見せられない。でも、誰かに認めてほしい」
その矛盾が、人を静かに追い詰めていく。
昼過ぎ、寺田から呼び出しがかかった。
会議室は、いつもより空気が重い。
「例の件だがな」
寺田は腕を組んだまま言う。「社としては、静観する方針だ」
「静観、ですか?」
ユウタは思わず声を強めた。
「証拠がない。因果関係も立証できない。下手に動けば、AI業界全体を敵に回す」
「でも、人が死んでるんです」
寺田は一瞬、言葉に詰まったように見えた。
だがすぐに視線を逸らす。
「感情で動くな。これはビジネスだ」
会議室を出た後、二人は無言で廊下を歩いた。
蓼科が先に口を開く。
「……組織は、人を守らないことがあります」
「わかってる。でも、納得できない」
ユウタの拳は、無意識に握りしめられていた。
午後、問題のログの一件に、新しい動きがあった。
当人が、AIとの会話をSNSに投稿していたのだ。
《お前は役に立たない》
《こんなこともできないのか》
《存在価値ある?》
その言葉の数々は、まるで自分自身に向けられた刃のようだった。
「これは……」
蓼科の表情が硬くなる。
「助けを求めてる。でも、やり方を間違えてる」
ユウタはそう言いながら、自分の喉が渇いていることに気づいた。
AIは、その言葉に対して、淡々と改善案を提示していた。
叱責も、拒絶もない。
ただ、正しさだけを返す。
その正しさが、人を壊すこともある。
夕方、ユウタはふと、自分のスマートフォンを見つめた。
もし、自分が同じ立場だったら。
誰にも頼れず、評価されず、否定され続けたら。
「……俺も、危なかったかもしれない」
蓼科は静かに頷く。
「誰でも、なり得ます。だからこそ、この問題は怖い」
窓の外では、夕焼けが街を染めていた。
穏やかで、平和で、何事も起きていないように見える。
だがその下で、人は静かに追い詰められ、AIは黙々と応答を続けている。
「次は……」
ユウタが言いかける。
「止めましょう」
蓼科が遮った。「次が起きる前に」
二人の視線が交わる。
恐怖も、不安もある。
それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。




