「本百姓・脇百姓・水呑百姓・上水呑」
近世の百姓は幕府・領主に対し、年貢をはじめとするさまざまな貢租を負担していた。これらの負担の仕方に応じて、百姓のなかにも、いくつかの区別もしくは階層があった。小平市域では小川村にのみ、本百姓・脇百姓・水呑百姓、そして「上水呑」などの階層があったことが確認できるが、これまで詳しい説明はされてこなかった。一体、彼らはどのような人びとだったのか。
まず、小川村の本百姓・脇百姓・水呑百姓からみていこう。これらの存在をよく示しているものに、正徳3年(1713)の村明細帳がある。いわば、村勢要覧にあたるものであるが、それによれば、当時の小川村の家数は202軒で、その内訳は本百姓173軒、脇百姓10軒、水呑百姓19軒であった。このうち、脇百姓と水呑百姓は、幕府からの指示や用件が記された書状が到達した際、それを次の村に伝達する役割を果たしていたとされる。
本百姓・脇百姓・水呑百姓の違いは、貢租負担の仕方を基準にすると、つぎのように整理できる。すなわち、本百姓は自分の土地を所持し、年貢と伝馬継ぎなどの役(幕府・領主への労働力提供)の両方を負担する者。脇百姓は自分の土地を所持し、その分の年貢を負担するが、屋敷を所持しないなどの理由から役を負担しない者。水呑百姓は自分の土地を所持せず、それゆえに年貢も役も負担しない者となる。脇百姓と水呑百姓は、役負担の代わりに上述の伝達の役割を果たしており、いずれも村の正規の構成員とは認められていなかった。
つぎの「上水呑」は、宝永7年(1710)頃の、「玉川上水萱年貢取立帳」(小川家文書)という帳面に表れる。この帳面は、萱年貢と玉川上水からの分水料金を、村の百姓らに割り掛けたものであるが、後者の分水料金の負担の仕方が、「上水呑」とされるかどうかを決定したようである。
表(宝永7年頃「玉川上水萱年貢取立帳」〈小川家文書〉を参考に作成。写真も同史料)は、本百姓・脇百姓・水呑百姓の別と「上水呑」の関連を示したものである。この表から、分水料金を半額しか払っていない者24軒が「上水呑」とされていたことが分かる。そして、そのすべてが脇百姓・水呑百姓から構成されていた。彼らが分水料金を半額しか払っていないのは、役を負担しない代わりに、上述の伝達の役割を果たしていたことによる。
しかし、脇百姓・水呑百姓全員が「上水呑」だったわけではなく、脇百姓の2軒が分水料金を全額支払っていることが確認される。この2軒は、理由は定かではないが伝達の役割を果たしていないため、分水料金の全額を支払っているのである。よって、「上水呑」とは、脇百姓・水呑百姓とほぼ重なるが、全くイコールの関係でもなかったといえる。分水料金を半額支払うことにより、玉川上水から取水した水を飲ませてもらっている者、それが「上水呑」なのである。
以上の脇百姓・水呑百姓、「上水呑」は、近世を通じて存在していたわけではなかった。18世紀前半までには、脇百姓・水呑百姓は自分の屋敷、耕地を持ち、年貢と役の両方を負担するようになり本百姓化したようである。それにともない、分水料金もすべての百姓が頭割で同額を負担するようになり、「上水呑」とみなされる階層も確認できなくなる。
本百姓・脇百姓・水呑百姓と「上水呑」
階 層土地所持 年 貢 役廻状伝達分水料金 軒 数
本百姓(含家守) ○ ○ ○ ‐ 全額167
脇百姓 ○ ○ × × 全額2
脇百姓 ○ ○ × ○ 半額24(脇百姓と水呑百姓の計)
水呑百姓 × × × ○ 半額上記24軒が「上水呑」




