第四話「神の来訪」
突然、家のドアが叩かれた。
扉を開けると、水色の長い髪が風に揺れた。そこにいたのは、かつて自分が仕えていた神だった。
「ひさしぶりじゃの、ランジェ」
「……あ、お、うん」
あまりの驚きに、思考が追いつかない。
なんで――こいつが、ここに。
「ふふん、名無しの神、略してなーちゃん、参上じゃ!」
「いや、そうじゃなくてな……な、なんでここにいるの?」
「なんじゃ、儂がいるのは不満か?」
「そりゃ、違うけど」
文句はない。ただ、驚きが勝った。
「なーちゃん、その……天界に住んでるんじゃなかったの?」
「お主らのいない天界など、地獄と変わらぬ」
「……生活する術とかは?」
「もちろん持っとらん。でも、ランジェなら儂を見捨てぬであろう?仮にも儂はランジェの主神なんじゃからな」
「見捨てるなんて選択肢はないけど……俺の主神ではもうないだろ。ほら、俺、堕天したんだし」
「関係ないのぉ。それにエルはまだ天使のままじゃろ?エルと儂は主従関係のままじゃよ」
玄関先で言葉を交わしていると、後ろから軽い足音が近づいてくる。
パタパタと音を立てて、俺の横を通り過ぎた。
「なーちゃん!」
エルだ。その顔は満面の笑みで、懐かしさに頬を緩ませている。
「ひさしぶりじゃの、エル。元気にしておったか?」
「もちろん!ひさしぶりになーちゃんに会えて、私嬉しい!」
楽しげに話す二人を見て、俺はため息をひとつ。
「……とりあえず中で話せよ。外で立ち話もなんだし」
そう言って二人を招き入れる。
エルとなーちゃんは、すぐに昔話で盛り上がりはじめた。
その様子を横目に、俺は仕方ないなと呟きながら、三人分の夕食を作り始める。
ほどなくして、食卓には温かな匂いが満ちた。
食事中の空気は和やかで、まるで天界にいた頃のような穏やかさだった。
「エル、お風呂入ってこい。湯、沸かしてあるから」
「はーい!」
エルが楽しそうに返事をして風呂場へ向かう。
その背を見送ってから、なーちゃんが真剣な表情に変わった。
「……それで、ここに来た本当の目的は?」
俺の言葉に、なーちゃんは苦笑いを浮かべる。
「さすがにバレておったか。まあ、隠すほどのことでもないのぉ」
湯気の音が遠くで立ち昇る中、なーちゃんの声が低く響いた。
「神を殺して堕天した者を、天使に戻す方法は……儂にも分からん。
だが、ひとつだけ噂がある。堕天した天使のために尽くす“神”が、穢れたこの人の世で人として生きる――
そうすれば、道が開けるかもしれぬ、とな」
「……つまり、なーちゃんはその噂を信じて、人として生きるつもりなのか」
「うむ。信じてみるのも悪くなかろう?」
俺は小さく息を吐いた。
「それで俺のところに寄生するつもりかよ」
呆れたように言いながらも、口元が少しだけ緩む。
なーちゃんは肩をすくめた。
「寄生とは聞こえが悪いのぉ。共存じゃ、共存」
「……まあ、いいけどさ。ただ――」
言葉を区切る。
そして、少しだけ視線を落とした。
「俺は天使に戻るつもりはない」
なーちゃんの表情が曇る。
俺は堕天した天使が天使に戻る方法は知っている。
神を殺したその者が悔い、長い時を人として生き、そして“神が人としてこの世に生きる”こと。
それが条件のひとつだ。
だが、本当に大切なのはその先。
反省の意を示すため、“最も大切なもの”を――自らの手で殺さなければならない。
……そんなこと、できるわけがない。
俺はエルも、なーちゃんも、殺せない。殺したくない。
だからこそ「戻らない」と決めた。
「戻る戻らないを押し付けるつもりはない。ただ、儂がここにいればランジェは自分で選べるであろう?」
「……」
「それに、堕天したランジェを苦しめるのは、そんな人の世で暮らすなんて生ぬるいものじゃない。
“神の呪い”、じゃないか?」
なーちゃんの言葉に、俺は小さく笑って誤魔化した。
「これは、俺への戒めだから」
それ以上、なーちゃんは何も言わなかった。
沈黙の中、風呂場の扉が開く音が響く。
「エルー、髪の毛乾かしたかー?」
その声を残して、俺は部屋を出た。
残されたなーちゃんは、小さく呟く。
「ランジェは優しい。優しすぎる……その呪いは、一人で抱え込むには重すぎる。
少しは、儂らを頼っておくれ」
その声は、誰に聞かせるでもなく、夜の静けさに溶けていった。




