第三話「地に咲く光」
空を見上げる。
空は広く、どこまでも青かった。
「ランにぃー!おっはよー!」
「あぁ、おはよう」
今日も、いつものように一日が始まる。
地に堕ちてから半年。
周囲の記憶を少しだけ弄り、人の社会に紛れ込んで暮らしていた。
ここに来てから、エルを狙う輩はぐっと減った。
天界にいた頃のように神や天使に付きまとわれることもない……代わりに、最近は悪魔がちょくちょく顔を出すようになった。
あれは天の連中とは違って、悪知恵が働く。厄介な奴らだ。
「ねぇってばー、ランにぃ聞いてるー?」
「あぁ、すまん。考え事していた。なんだ?」
「今日ね、噴水広場のところで市場がやってるんだって!あのね、私……見に行きたいなぁって。だめ?」
目を輝かせながらこちらを見上げるエル。断られるなんて、最初から思っていない顔だ。
「別にいいぞ。お小遣いもあげるから」
「……!違う!私はランにぃと見に行きたいのー!」
「俺と?」
「うん!」
「もちろんだよ……てっきり、一緒に来てほしくないのかと思ってた」
「私がランにぃと一緒にいたくないわけないでしょ!だって、私ランにぃのこと大好きだもん!」
エルは恥ずかしげもなく“好き”と言う。そのまっすぐさに、少しだけ頬が熱くなった。
まあ、どうせ一人で行かせるつもりはなかった。後ろからついていく気、満々だったしな。
市場は人で賑わっていた。
屋台がずらりと並び、焼けた肉の香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
ランジェは肉串を二本買い、一本をエルに渡した。
「ほら、落とすなよ」
「うんっ ん~!おいしい!」
エルは子どものように目を輝かせて頬張る。その横顔を見ているだけで、少し救われる気がした。
通りの端では骨董市のような屋台も並んでいた。
古びたオルゴールや、錆びた指輪、色褪せた鏡。
中には、禍々しい気配を纏うものも混じっている。
ランジェは視線をそっと逸らし、指先を小さく動かす。
禍々しい気配を消すように、風が静かに吹き抜けた。
エルは気付いていないのだろう。
彼女の世界には、いつだって“光”しかないのだから、“光”だけで十分なのだから。
賑わいの中、酒場の方から喧嘩の声が聞こえた。怒号と罵声。鈍い音。考えるより先に、体が動いた。
ランジェは二人の間に入り、拳を受け止める。
「やめろ。そんなくだらないことで、殴り合うな」
喧嘩の原因は、酒の取り違え程度の些細なものだった。男たちは気まずそうに頭を下げ、どこかへ去っていく。
「まったく……」
ランジェはため息をつき、エルを振り返る。
――そこに、エルの姿はなかった。
「……エル?」
胸の奥がざわりと軋む。
辺りを見回しても、どこにもいない。
「エル!」
ランジェは走り出した。
人混みを抜け、路地を駆け、声を張り上げる。
胸が焦げるように熱い。
何か、嫌な予感がしてならなかった。
そして、ようやく見つけた。
薄暗い森へと続く道。その手前から、エルがふらふらと戻ってくる。
「エル……っ!」
「誘拐されちゃって、ごめんね」
息を切らしながら、それでも彼女は笑っていた。
「なんとか、逃げ出してきたよ」
ランジェはその小さな体を、思わず強く抱き締めた。心配と安堵がごちゃまぜになって、言葉が出ない。
「もう……二度と、勝手に離れないでくれ」
エルの腕には小さな傷。血が滲んでいる。ランジェはそっと抱き上げ、家へ戻った。
傷を洗い、布を巻く。ふと、鼻をかすめるのは血の匂い――。
だが、それはエルのものではなかった。
(……気のせいだ)
そう自分に言い聞かせて、手当を終える。
静かな夜。
風の音だけが部屋を満たしていた。
その時――
コンコン。
ドアを叩く音が響く。
同時に、懐かしい“神の気配”が流れ込んできた。
「……まさか」
ランジェはゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手をかける。
扉が、静かに――開いた。




