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66「崩れゆく幻想──私たちの選択」

【NEO AVATAR PROJECT部署・会議室】


 会議室の空気が、重い。


 私の前には、山之内部長をはじめとするスタッフ全員が座っている。


 窓の外から差し込む午後の光が、テーブルの上に積まれた撮影香盤を照らしていた。


 厚さ5センチはある資料の束。その一枚一枚に、彼らの徹夜の痕跡が刻まれている。


 私は、拳を握りしめていた。爪が掌に食い込んで痛い。でもこの痛みが、今の私には必要だった。痛みがなければ、私はこの言葉を口にする勇気を失ってしまいそうだから。


 カフェテラスで聞いた、あの会話。城ヶ崎常務の冷たい笑い声。山之内部長が個人で資金を出していること。


 失敗すれば部署解散という、取り返しのつかない賭け。


 全部、私のせいだ。


 私が、YUICAとして、みんなを巻き込んだから。


「あの……」


 声が震える。喉の奥が渇いていて、うまく言葉が出てこない。山之内部長の充血した目が、優しく私を見つめている。その優しさが、逆に胸を締め付けた。


「皆さんに……大事なお話が、あります!」


 田村さんが、心配そうに身を乗り出す。


「どないしたん、美咲ちゃん?」


 隣の女性ススタッフも心配する。

 

「顔色悪いけど……大丈夫です?」


 大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない


 でも、もう後には引けない。


「私は——」


 深呼吸。もう一度、深呼吸。


「明日の撮影には……参加できません」


 会議室が、一瞬だけ静まり返った。でもすぐに、山之内部長が優しく微笑む。


「あぁ……そうなのね!」


 山之内部長が、まるで何でもないことのように言う。


「良いのよ、疲れてるならしっかり休んでもらっても。あなたも FAKE-3との交渉で大変だったでしょうから」


「そうやで」


 田村さんも頷く。


「俺らでなんとかなるから大丈夫や。美咲ちゃんは無理せんでええ」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 違う。そうじゃない。

 私が言いたいのは、そういうことじゃない。


「……そうじゃなくて」


 私の声が、震える。


「私は……私が——」


 全員の視線が、私に集中する

 山之内部長の微笑みが、わずかに曇る。

 何かに気づいたような、そんな表情。


 

「私が、YUICAだからです」



 時が、止まった。



 

 いや、止まったように感じただけだ。


 実際には、時計の秒針は確実に進んでいる。

 窓の外では車が走り、空では鳥が飛んでいる。

 

 でもこの会議室の中だけが、まるで真空になったように静まり返っていた。


 田村さんが、唖然として口を開けたまま固まっている。


 若い男性スタッフは目を見開いて、女性スタッフは手を口に当てている。


 山之内部長だけが、じっと私を見つめていた。


 その目に何の感情も浮かんでいない。怒りなのか、失望なのか、それとも驚きなのか。


 何も読み取れない。


「今まで黙っていて……すみませんでした!」


 私はもう一歩前へ出て、深く頭を下げた。


「ずっと言うタイミングが無くて……皆さんに嘘をついてるみたいで申し訳なくて……」


 視界が滲む。

 涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。


「さっき休憩していたら、偶然聞いてしまったんです」


 私の声が、震える。


「山之内部長が……この撮影に、個人で出資してるって」


 会議室の空気が、さらに張り詰める。


「失敗したら……この部署が解散だって」


 私は、顔を上げた。

 涙で滲んだ視界に、山之内部長の姿がぼんやりと映る。


「こんな……嘘をついてる私のために、皆さんを犠牲にしてまで——」


「田中さん!」


 山之内部長の、鋭い声。


 私は、ビクリと体を震わせた。


 やっぱり怒ってる。当然だ。


 私は彼らを騙してきた。嘘をつき続けてきた。それなのに、ギリギリまで言わなかった。


「私たちの努力を——」


 山之内部長の声が、わずかに震える。


「無駄にするつもりなの?」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 ああ、やっぱり。


 私は、みんなの努力を無駄にした。

 何日も、いえ何ヶ月も積み重ねてきた信頼を、鏡像を、一瞬で壊してしまった。


「すみません……本当に、すみません……」


 涙が溢れて、止まらない。床に、ポタポタと涙が落ちる。


「私は……最低です……ずっと皆さんを裏切って……」


「皆さんの努力を無駄に……」


 沈黙。

 

「田中さん」


 落ち着いた山之内部長の声。


 さっきとは違う、優しくて、でもどこか寂しげな響き。


「顔を上げて」


 恐る恐る、顔を上げる。


 山之内部長が立ち上がって、私の肩に手を置いた。


 その手が温かい。


 徹夜続きで冷え切っているはずなのに、不思議なほど温かい。


「無駄になるって言ったのは、そういうことじゃないわ……」


 山之内部長が、私の目を見つめる。

 その目に、薄らと涙が浮かんでいる。


「ずっと気づかないフリをしてきた努力のこと、よ」


 

 ——え?

 


「気づかない……フリ……?」


 言葉の意味が、理解できない。

 私の頭の中で、思考が空回りしている。

 気づかないフリ?どういうこと?

 

 田村さんが、ゆっくりと立ち上がった。

 その顔に、苦笑いが浮かんでいる。


「美咲ちゃん……いや、YUICAお嬢様」


 田村さんが、深々と頭を下げる。


「俺も、最初から気づいてましたわ」


「え……?」


 思考が、追いつかない。最初から?


「その声ですぐ分かったわ。YUICAの配信も切り抜きも、何百回も見てたしな」


 若い男性スタッフも立ち上がる。


「僕も……一週間くらいで気づきました。話し方とか、考え方とか、全部YUICAそのものだったんで」


 女性スタッフも頷く。


「私…… 田中さんがYUICAだって気づいたけど。みんなが黙ってるから、私も黙ってようって」


 山之内部長が、私の手を握る。

 その手は、驚くほど温かかった。


「私はね——」


 山之内部長が、遠い目をする。まるで昔を思い出すような、懐かしげな表情。


「あの日、コンビニで会った時から、知っていたわ」


「コンビニ……?」


 ——あのコンビニ?!


 クレーマーを論破した、あの時から?

 山之内部長が「諸葛孔明の舌戦群儒」とか言っていた、あの日。


「あなたが、あの男性を論破した時、論理の組み立て方、決定打の入れ方、そして最後に敵さえも救う優しさ。全てが、YUICAそのものだった」


 私の中で、何かが崩れ落ちる音がした。


「でも私、あの時『YUICAのファン』って聞かれて、否定しちゃいましたけど……」


「ええ、そりゃそうよね。だって本人だもの」


 山之内部長が、クスリと笑う。その笑顔に、隠しきれない愛情が滲んでいる。


「あなたが必死に隠そうとしてるのが、可愛くてね。だから、あなたが設定を守っている間は、私も守ろうと決めたの」


 山之内部長の目に、涙が光る。


「それが……Vtuberファンの、矜持だと思ったから」


 私の目から、再び涙が溢れた。止められない。

 堰を切ったように、涙が頬を伝って落ちる。


「そんな……そんな……」


 私は何も知らなかった。


 彼らがずっと知っていたこと。知っていながら、黙っていてくれたこと。私が守ろうとしていた嘘を、彼らも一緒に守ってくれていたこと。


 田村さんが、照れくさそうに頭を掻く。


「あの……電子出版部に誘った時のこと、覚えてはります?」


「はい……」


「俺、めちゃくちゃドジ踏みましたやろ。資料バラバラ落としたり、コーヒーこぼしたり」


 そういえば。吉本新喜劇かと思ったくらい、ドジを踏んでいた。


「あれ……全部、動揺してたんですわ」


 田村さんの顔が、みるみる赤くなっていく。


「だって……目の前に、YUICAおるって気づいてしもて。『時給3倍』って言うた瞬間、美咲ちゃんの目がキラッて光ったやろ?あれ、完全にYUICAの顔やったんですわ」


 会議室に、小さな笑いが起こる。私も、泣きながら笑っていた。


「で、動揺して資料落として。さらに身を乗り出した時、美咲ちゃんの話し方がYUICAっぽくなって。『無理ですよ』って言うた時の語尾の上げ方とか、完全に一致で」


 田村さんが、両手で顔を覆う。


「もう必死でしたわ。『バレたらアカン、設定を守らなアカン』って。でも手は震えるし、資料は落とすし……」


 若い男性社員が、笑いながら言う。


「田村さん、あの日帰ってきてから『疲れた』って言って、ずっと机に突っ伏してましたもんね」


「当たり前やろ!推しと1対1で喋ったんやで!しかもバレんように演技せなアカンし!」


 田村さんが叫ぶ。


「『ほんまに美咲ちゃんは優しいなぁ』とか言いながら、心の中では『YUICAお嬢様やー!』って絶叫しとったんやから!」


 会議室が、温かな笑いに包まれる。


 若い男性スタッフが立ち上がる。


「俺なんか、毎朝『おはようございます』って田中さんが挨拶するたび、心臓バクバクでしたよ!『YUICAが挨拶してくれた!?』って心の中で叫びながら、必死で平静を装って……」


 女性スタッフも頷く。


「美咲さんが『YUICAって素敵ですよね』とか言うたび、『それあなたじゃん!』ってツッコミたくて、唇噛んでました」


「正直——」


 山之内部長が、少し疲れたように笑う。


「大変だったのよ。あなたと企画会議するたび、『これYUICA本人に直接聞けばいいのに』って思って。でも、あなたが設定を守ってる以上、私たちも、それを尊重しなければならないでしょう」


 山之内部長が、私の手を握る。


「それに——あのコンビニであなたに『きっとまたお会いできる』って言ったでしょう?」


「はい……」


「あれは二つの意味があったの。一つは、田中美咲として会社で会えるという意味。もう一つは——YUICAとして、いつか必ず会えるという確信」


 私は、もう言葉が出なかった。

 ただ涙が溢れて、止まらなかった。


 安堵。そして、新しい罪悪感。


 彼らは、ずっと知っていた。そして、ずっと黙っていてくれた。


 私が彼らに嘘をついていたのではなく——


 彼らが、私の嘘を守ってくれていたのだ。


「すみません……気づかなくて……」


 私の声が、震える。


「皆さんが、そんなに大変な思いをして……私は……何も知らなくて……」


「いいのよ」


 山之内部長が、私の肩を優しく撫でる。その手の温もりが、胸に染みた。


「だって——それがあなたの選択だったんだもの。私たちは、ただそれを尊重しただけ」



 そして——山之内部長の表情が、変わった。


 

 優しい笑顔から、凛とした、上司の、プロデューサーの顔へ。その切り替わりの速さに、私は息を呑む。


「でもね、田中さん」


 声のトーンが、完全に業務モードになる。

 背筋が伸びて、目つきが鋭くなる。疲労の色はそのままなのに、そこには確固たる意志が宿っている。


「私の前で居る時は——あなたは田中美咲であり、私の優秀なスタッフよ」


「それ以上でも、それ以下でもない」


 山之内部長が、テーブルの上の香盤表をトントンと叩く。その音が、会議室に響く。


「だから明日の香盤は、しっかり頭に入れておいてね」


 山之内部長の目が、真剣になる。いや、真剣というより——楽しそうだ。


 まるで、これから始まる戦いを心待ちにしているような。


「そして、明日はずっとYUICAたちと一緒にいてちょうだい」


「それが——」


「あなたの、田中美咲の業務よ」


 山之内部長が、爽やかに笑う。


 劉備玄徳が、諸葛孔明を赤壁へ送り出した時も、こんな顔をしていたのかもしれない。


 私は、涙を拭った。もう泣いている場合じゃない。山之内部長の目を見て、私も笑顔を作る。


「はい!」


 力強く、頷いた。


 田村さんが、ニヤリと笑う。


「さすがお嬢様や。いや、美咲ちゃんは切り替え早いなぁ」


 若い男性スタッフが拳を突き上げる。


「よっし!明日は絶対成功させましょう!」


 女性スタッフも頷く。


「YUICAも、田中さんも、私たち全員で支えます!」


 会議室が、活気に満ちていく。さっきまでの重苦しい空気が嘘のように、明るく、前向きなエネルギーが満ちていく。


 山之内部長が、香盤表を開く。


「それじゃあ、明日の最終確認をしましょう。まず午前9時、FAKE-3のメンバー到着——」


 私は、香盤表を見つめた。びっしりと書き込まれたスケジュール。LEDの配置図。カメラアングルの指示。音響チェックのタイミング。全てが、完璧に計算されている。


 この人たちは、徹夜でこれを作り上げた。私たちのために。


 そして、私が誰であるかを知りながら、それでも私を「田中美咲」として扱ってくれた。


 もう嘘はない。でも「演じる」ことは続く。

 それが仕事だから。


 そしてそれが、彼らへの敬意だから。


 明日——私は、YUICAとして撮影に臨む。

 そして、田中美咲として、その撮影を支える。


 矛盾しているようで、でも、それが私の生き方なのだ。


「田中さん、聞いてる?」


 山之内部長の声で、我に返る。


「あ、はい!すみません!」


「照明の位置、ここで合ってるわよね?セイラさんからのアドバイス通りでいいのよね?」


「はい、完璧です」


「よし。じゃあ次は音響チェックのタイミングだけど——」


 会議が続く。でも、もう重苦しさはない。


 全員が同じ目標に向かって、一つになっている。


 窓の外では、夕日が沈み始めていた。オレンジ色の光が、会議室を染めている。


 その光の中で、私たちは明日の戦いの準備を進めていた。



【午後8時・帰り道】


 会議が終わって、私は会社を出た。夜の冷たい空気が、火照った頬に心地いい。


 出社前と比べて、肩がものすごく軽い。


 スマホを取り出して、ゆいにメッセージを送る。


『今から帰るね。話したいことがある』


 すぐに返信が来た。


『お疲れさま。ご飯作って待ってるね』


 私は、スマホを握りしめた。


 ゆいにも、話さなければならない。山之内部長たちが知っていたこと。彼らがずっと、私たちの嘘を守ってくれていたこと。


 そして——明日の撮影のこと。


 駅までの道を歩きながら、私は空を見上げた。都会の夜空は星が見えない。でも、その暗い空の向こうに、無数の星があることを私は知っている。


 見えないからといって、存在しないわけじゃない。


 YUICAと田中美咲。二つの顔を持つ私は、どちらも本物だ。


 どちらも、私自身なのだ。


 明日——山之内部長曰く、赤壁の戦いが始まる。


 でも、もう怖くない。


 私には、最高のチームがいる。最高の妹がいる。そして、最高の「ブタども」がいる。


 電車に乗り込んで、窓に映る自分の顔を見た。


 36歳の、独身女性。

 でも、その顔は以前とは違っていた。


 不思議と自信に満ちている。


 そう、私は変わったのだ。YUICAとして生きることで、田中美咲も変わった。


 そう、YUICAと私の境界線が薄れて、同一化している気がする。


 携帯が震える。ゆいからのメッセージ。


『お姉ちゃん、セイラさんから連絡あったよ。明日、楽しみにしてるって』


 私は、微笑んだ。


『うん。私も楽しみ』


 返信を送って、窓の外を見る。街の灯りが流れていく。


 明日——すべてが始まる。


 革命が、始まる。


(つづく)


 次回——「私たちの赤壁決戦──風を呼ぶ者たち」

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