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62「天才作曲家・叢雲の返答」

【田中家・ゆいの部屋】


 ゆいは叢雲に送った企画書と歌詞を眺めていた。


 企画書は、体裁をほぼ無視し、思いのたけを赤裸々に語った手紙に近いものになった。


 もちろん、先日の無礼を詫びた。


 しかし、大半は自分が実現したい夢と覚悟。


 それには絶対に叢雲の協力が必要だという強い熱意。


 そして、とんでもなく短いスケジュール感。


 少なくとも、残りのチケット販売が開始される24日後、八月一日までにMVをリリースしなければ間に合わない。


 そうなると楽曲制作にかけられる時間は最大でも残り3週間。


 仮に話は聞いてもらえたとしても、スケジュールを理由に断られる可能性が高い。


 しかも叢雲は業界トップの作曲家。


 常識的に考えて、この企画が成立する可能性はゼロに等しい。


 ——でも、諦めたくない。


 もしこれがあたしの『運命』なら、どこまでも足掻いてみたい。


 ゆいが目を留めていたのは、YUICAのラップパート部分の歌詞だった。



 見上げた空の隙間に 君の面影

 触れたいけど 怖くて逸らす視線

 心の裏 隠した火種

 一瞬で燃える 理性を焦がす

 何も言えずに 息を呑む夜

 君の鼓動が 胸を叩いてる

 静けさの中で 名前を呼ぶたび

 この身が誰かに 染まっていくたび

 壊したくない でも奪いたい

 矛盾した愛が 止まらない


 「君」と「僕」の境界線

 炎となって 今、越えてく



 美咲のリリックは、隠微な静寂と、それを超えようとする炎の躍動……相反する感情が共存していた。


「壊したくない、でも奪いたい、矛盾した愛が、止まらない。か……」


 ——さすがお姉ちゃんだ。


 あたしにはこんな矛盾した心境を、とても言語化できない。


 ゆいは、今回は叢雲がどんな対応をしてこようとも、二人の関係を、その過去の思い出を壊してでも、彼に挑もうとしていた。


 すべては姉のため、FAKE-3の夢を実現するために。


 だが同時に——


 叢雲との出会いを、あの青春の記憶を大事にしたい。


 そんな気持ちが、彼との過去を振り返るたびに高まっていた。


 どっちが自分の本音なのか、その矛盾した心境に困惑していた。


 ——彼との約束を破り、先に関係を壊したのは自分なのに、また彼を、あたしは。


 ふと、もう一つの言葉に目が止まる。


 特徴的なリフレイン、この歌の個性。



 ねぇ ねぇ ねぇ 君を探してた

 ねぇ ねぇ ねぇ 君を見つけた

 ねぇ ねぇ ねぇ 呼び合うように



 ——互いに求め合い、出会った『運命』。


 それは、運命で引き合う二人の関係性を伝える、ゆいの心に最も刺さったリリック。


「ねえ、ねえ、ねえ——」


 ——叢雲くん……あなたは今、何を想っている。


 そのとき。


 ゆいのスマホが震えた。


 ラインの通知。


 画面を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。


 ——叢雲からだ。


 ズキン、ズキン。


 鼓動が高鳴る。


 指先が震える。


 手が汗で湿っていく。


 ——もう返事が来た?


 ——早すぎる。これは……


 嫌な予感がした。


 即答で断るつもりか。だからこんなに早く返事が来たのかも。


 ゆいは震える手でスマホを握りしめた。


 深呼吸。


 一度。

 二度。

 三度。


 ——どんな辛辣な返事があったとしても、今度こそ食い下がる。


 命をかけて、足掻く。そう決めた。


 もしこれで、彼との『運命』が、永遠に閉じられたとしても。


 ゆいは、画面をタップした。


 メッセージが表示される。


 そこには一言。


『直接、通話で話したい』


 ——え?


 ゆいの思考が停止した。


 ——どういうこと?


 ——完全拒否ではないってこと?


 ——それとも、断る上で気を使ってくれてるのか。


 わからない。


 でも、ここは受けるしかない。


 ゆいは震える指で、ラインの通話ボタンを見つめた。


 ——押せない。


 指が動かない。


 心臓の音がうるさすぎて、何も聞こえなくなりそうだ。


 ——大丈夫。


 ——あたしは覚悟を決めたんだ。


 ゆいは目を閉じて、ボタンを押した。


 プルルル……


 プルルル……


 呼び出し音が鳴る。


 その一秒一秒が、永遠のように長い。


 プルルル……


 プルルル……


 ——出てくれるよね?


 ——ドタキャンとかないよね?


 プルル——


 ガチャ。


 接続された。


 沈黙。


 ゆいの息が止まる。


 そして——


『はい、叢雲です』


 懐かしい声が、スマホから聞こえた。


 少しだけ低くなったけれど、あの頃の優しいトーンは変わっていない。


「こんにちは、ゆい……田中ゆいです」


 ゆいの声が震えている。


『久しぶりだね、田中さん……元気だった?』


 ——田中さん。


 やっぱり、あの頃の距離に戻ってしまったんだ。


「ごめんね、前にあんな失礼なこと言っちゃったのに……またこんなお願いするなんて、図々しい奴だと思ってるよね」


 ゆいの声が、さらに震える。


 涙が溢れそうになる。


 でも、今は泣いちゃダメだ。


『……いや。あの時は僕も……言葉足らずだったよ。ごめん』


 ——え?


 予想外の言葉に、ゆいは息を呑んだ。


 沈黙。


 数秒の、重い沈黙。


『企画書、読んだよ……』


 ゆいの心臓が激しく打つ。


 ——来る。


 ——断りの言葉が来る。


「ありがとう。忙しいのに、急にこんなの送って迷惑だったでしょ」


 ゆいは先回りして謝った。


 少しでも、彼の罪悪感を軽くしたかった。


『……いや。そんなことない。良い企画だと思う』


「え?」


 ゆいの思考が止まった。


 ——良い企画?


 ——今、何て言った?


『魂があるよ。この歌詞にも、企画書にもね』


「……!」


 ゆいの目から、涙が溢れた。


 声が出ない。


 喉が詰まって、何も言えない。


「ありがとう。………あの……ごめん」


 ゆいは溢れそうな感情と涙を必死に堪えた。


 鼻をすする音が、きっと相手に聞こえている。


『これ、お姉さんが書いたんだよね?』


「そう、YUICAは今、姉の美咲がやってて。あたしなんかより、何万倍も才能があって、すごいんだ」


 ゆいの声が、少しだけ落ち着いてくる。


 でも、次の言葉で——


 また心が揺さぶられた。


『僕、謝らなきゃいけないと、ずっと思ってたんだ。君とお姉さんのことを』


「……え?なんで……」


『君のお姉さんが倒れたのを、後で部の顧問から聞いて……それなのに僕は何も知らないで、君に曲のことで催促しちゃって……』


 叢雲の声が、少し震えている。


「……」


『なんてデリカシーのないことをしちゃったんだろうって。ずっと悔んでて。でも君はもう部活に来なくなったから謝る機会がなかった』


「そんなこと……」


 ゆいの涙が止まらない。


『本当にごめん。僕は人として、全然ダメだった。何も手助けもできなかった……ごめん』


「ねえ……やめてよ。叢雲くんは、何も悪くないよ」


 ゆいの声が、大きくなる。


 ——悪いのはあたしの方なのに。


 ——この人は自分を責めてる。


 ——なんでそんなに優しいんだよ。


 ——やめてよ、あたしの覚悟が揺らいでしまう。


 沈黙。


 お互いの呼吸だけが聞こえる。


 そして——


『それで……この企画の件なんだけどさ。良い歌詞だと思うんだけど……』


 ゆいの心臓が止まりそうになる。


 ——来る。


 ——ここで断られる。


『これって、最低でも3週間以内に曲を完成させないとMVの効果が薄れるってことだよね?』


「……そうなの。忙しい叢雲くんにそんな暇はないってわかってるけど、どうしてもやってほしくて——」


 ゆいの声が、また震え始める。


『でも厳しいよね……』


 ——ああ、やっぱり。

 ——断られる。


 ——なにやてんだあたしは、もっと強く押さなきゃ!


 ——弱気になるな。


「この期間での無理強いは、かなり非常識だと思う……」


 ゆいは自分の言葉に絶望した。


 ——何を言ってるんだ、あたしは。


 ——足掻け!


 ——食い下がれ!


 ——あたしは、そのために覚悟を決めたんじゃないのか!


 ——情に訴えろ。


 ——土下座してでも頼みこむんだ!


「あの、ダメなら……断ってくれても恨まないから。元々無茶を言ってるのわかってるから」


 ——何を言ってるんだ、あたしは。


 自己嫌悪が襲ってくる。


 ゆいの目から、また涙が溢れた。


 そして——


『三日待ってもらえるかな?』


 時が止まった。


「……え?」


 ゆいの思考が、完全に停止した。


 ——今、何て言った?

 ——三日?

 ——待つ?


 ——わかった……前回無下にしたから、気を使ってくれてるんだ。


 ——でも、もうこれ以上、彼の情に甘えるのはやめよう。


 ——貴重な時間を、無駄にさせてはいけない。


 ゆいの心は折れかけていた。


 そうさせたのは、叢雲流唯の、想定外の慈愛に満ちた、優しさだった。


 ——なにが狂人だよ。

 ——この人は、めちゃくちゃ優しい。


「いいよ……もう。はっきり断ってくれてかまわないよ」


 ゆいの声が、諦めに染まる。


「覚悟はできてるから」


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


 ゆいの涙が、頬を伝う。


 そして——


『……いや、三日後に仕上げるって言ったんだよ』


 ——え?


「いまなんと……」


 ゆいの心臓が爆発しそうになった。


『そのまんまだよ、三日でやる』


「……いいの?忙しいんじゃないの?」


 ゆいの声が裏返る。


『魂のある音楽に応えるのが、僕の使命だから』


 叢雲の声が、力強くなる。


『いや……『運命』かな』


 ——運命。


 お姉ちゃんと同じ言葉を、彼も使った。


「ほんとに?ほんとうにやってくれるの?」


 ゆいの涙が止まらない。


 でも、今度は嬉し涙だ。


『もちろん。さっそく今夜から取り掛かる……だからMVの準備始めておいて』


「ありがとう……ありがとう……叢雲くん」


 ゆいの声が、感情で震える。


『……その呼び方好きじゃないな』


「え?」


 ゆいが息を呑む。


『前みたいに、流唯(るい)でいいよ……ゆいちゃん』


 ——!


 ゆいの心臓が、激しく打った。


「うん……流唯くん……」


 その言葉が、13年の時を超えて、再び二人を繋いだ。


 

 ◇



 その後、叢雲とゆいは30分ほど話をした。


『実はね……前回、君の依頼を断った後、罪悪感があって』


「……」


『それでYUICAの配信を何度か見てたんだ』


「え?見てくれてたの?」


『うん。君が苦悩してるのもわかってた』


 ゆいの胸が締め付けられる。


『そして……ある日、中身が違う人に入れ替わったよね』


「……気づいてたの?」


『すぐにわかったよ。声のトーンも、言葉の選び方も、全然違ったから』


 叢雲が少し笑う。


『それで、君がどうなったのか気になってたんだ』


「……」


『そしたら、ブタPとしてプロデューサーに回ったって知って……ああ、君らしいなって思った』


「らしい?」


『うん。高校の時も、いつも誰かのために頑張ってたから』


 ゆいの目から、また涙が溢れる。


『サングラスしてても、高校時代の面影があったからすぐわかったよ』


「……恥ずかしい」


『そして今回の歌詞を見て……これが君のお姉さんだって察した』


「どうして?」


『この歌詞の魂が、君が語ってたお姉さんそのものだったから』


 叢雲の声が、優しくなる。


『だからこそ、この件は絶対に実現したいって思ったんだ』


「流唯くん……」


『これは……僕の後悔を前に進めるために、天が与えてくれたものだと思ってる』


『あの時、完成できなかった曲を……今度こそ、君のために完成させたい』


 ゆいの涙が止まらなかった。



【通話終了後】


 

 ゆいはスマホを置いた。


 そして——


 堪えていた感情が、一気に溢れ出した。


「うあああああ……!」


 ゆいは両手で顔を覆って、泣き崩れた。


 嬉し涙。

 安堵の涙。


 13年越しの、感謝の涙。


 ——やっと。


 ——やっと、約束が果たせる。


 ——流唯くん。

 ——ありがとう。


 涙が止まらない。

 身体が震える。


 ベッドに倒れ込んで、枕を抱きしめる。


 ——あの時、できなかったことが、後悔が、止まっていた青春の記憶が。


 ——今、動き出したんだ。


 ゆいは枕に顔を埋めて、声を上げて泣いた。


 どれくらい泣いていただろう。


 10分?

 20分?


 時間の感覚がわからなくなっていた。


 やがて、ゆいは顔を上げた。

 目は真っ赤に腫れている。

 でも、心は晴れやかだった。


「お姉ちゃんに……報告しなきゃ」


 ゆいは立ち上がり、部屋を飛び出した。



【田中家・美咲の部屋】



 私はパソコンで次の配信の準備をしていた。


 その時——

 ドアが勢いよく開いた。


「お姉ちゃん!」


 ゆいが飛び込んできた。

 目が真っ赤に腫れている。


 ——え?泣いてる?


「どうしたの?!何かあったの?!」


 私は慌てて立ち上がる。


「叢雲くんが!」


「叢雲が?」


「やってくれるって!3日で曲を作ってくれるって!」


 ——え?


 私の思考が止まった。


「ほんとに?!」


「うん!!」


 ゆいが私に抱きついてきた。

 そして、私の肩で泣き始める。


「よかった……よかったよ……お姉ちゃん……」


 私もゆいを抱きしめた。


 ——よかったね、ゆい。

 ——本当に、よかったね。


「お姉ちゃんの歌詞……すごかったよ」


「流唯くんが……『魂がある』って言ってくれた」


「そう……」


 私の目からも、涙が溢れる。

 二人で抱き合って、泣いた。


 姉妹で、泣いた。


 どれくらいそうしていただろう。

 やがて、ゆいが顔を上げた。


「お姉ちゃん……ありがとう」


「何が?」


「お姉ちゃんがいてくれたから……あたし、ここまで来れた」


 ゆいが笑顔で言う。


 その笑顔は、涙で濡れていたけれど——


 とても、とても輝いていた。


「それはこっちのセリフだよ。ありがとう……ゆい」


 私は妹の頭を優しく撫でた。


「ね。やっぱり、運命だったでしょ?」


 そう言うとゆいが、また泣き出した。


 私も一緒に、泣いた。


 私たちの13年越しの『運命』が、今、大きく動きだそうとしていた。



【同時刻・都内某所・叢雲のスタジオ】



 叢雲流唯は、自宅のスタジオに座っていた。


 大きなモニターが並ぶ、防音完備の部屋。


 壁一面には、過去に手がけた楽曲のゴールドディスクが飾られている。


 でも、叢雲はそれらを見ることなく——


 古いハードディスクを、手に取った。


「もう13年前……か」


 叢雲はそのハードディスクをPCに接続する。


 フォルダを開く。


 たくさんの音楽ファイルが並んでいる。


 その中の一つ。


 ファイル名:『ゆいちゃんへ_未完成.wav』


 叢雲は、そのファイルをダブルクリックした。


 音楽が流れ始める。


 美しいピアノとギターのメロディ。


 繊細で、でも力強い。


 あの日、部室で流れた曲。

 ゆいが涙を流した、あの曲。


 でも——


 そこに、まだボーカルは入っていない。


 だから、未完成。


 13年前、叢雲はこの曲を完成させることができなかった。


 ゆいからの返事が来なくなって。

 歌にならないまま、この曲は止まってしまった。


「今度こそ……完成させる。絶対に、何があろうとも」


 叢雲の目が、燃えている。


 そして、叢雲は新しいプロジェクトを開いた。


 タイトル:『Destiny・孤独の星』


 美咲の歌詞を、モニターに表示する。


 そして、13年前の未完成の曲を、新しいプロジェクトに読み込んだ。


「情熱的なラップ、力強いボーカル、重く繊細なギター……FAKE-3か……おもしろいね」


 叢雲の指が、キーボードに触れる。


 音が、生まれる。

 13年の時を超えて——


 約束が、動き出した。


 叢雲は、夜通し曲を作り続けた。


 3日後。


 この曲が完成する。


 そして——


 FAKE-3の『運命』が、本当に始まる。



(つづく)



 次回——「神曲・降臨」

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