57「大人の影と最悪の48時間」
【マスターズ本社・25階会議室】
会議室には、重苦しい沈黙が落ちていた。
東京の街並みが一望できる大きなガラス窓から見える都心の摩天楼が、夏の晴れた空に照らされている。
その鮮やかなコントラストが距離感を曖昧にし、巨大な模型を見ているかのような風景を描きだしていた。
でも——この部屋の空気だけは、凍りついていた。
長いテーブルを挟んで、二つの陣営が向かい合っている。
片側には、鳳凰院セイラ、古谷部長、そして青空社長。
対面には——グローバルミュージック戦略室部長の鬼頭麗香と、その部下三名。
鬼頭麗香は40代半ば。黒いスーツに身を包み、髪を後ろできっちりとまとめている。その表情には、一切の感情が見えない。
「それでは、本題に入らせていただきます」
鬼頭が、タブレットを操作する。
会議室のモニターに、資料が表示された。
『風間志音 プロデュース計画書』
セイラの顎が、わずかに強張る。
「弊社は、風間志音様のプロ音楽家としてのデビューを、数年前から準備してまいりました」
鬼頭の声は、淡々としている。
「母親である風間美津子様との交渉も、すでに合意に達しております」
次のページ。契約書の写し。
確かに、母親のサインがある。
「したがって、弊社には優先交渉権があると考えております」
セイラが、口を開く。
「待ってください」
その声は、いつもより低い。
「風間志音は22歳。成人です」
「親族の承諾など、必要ありません」
鬼頭が、眼鏡の奥の目でセイラを見た。
「おっしゃる通りです。法的には」
「しかし——」
次のページ。
「弊社の計画は、志音様が未成年の頃から始まっております」
「当時、親権者である母親の同意を得て、プロデュース計画を立案」
「ユニットの選定、楽曲制作費、マーケティング費用——」
「総額で、すでに3000万円を投資しております」
セイラの目が、わずかに揺れた。
「それは——こちらには関係のないことでしょう」
「もちろん、我々の投資です。ビジネスとしての」
鬼頭が、冷静に続ける。
「志音様が成人された後も、母親を通じて連絡を取り続けておりました。あとはご本人の承諾を待つだけの状態でした」
「しかし、困ったことに今回——」
鬼頭が、セイラを見据える。
「風間志音が突然、あなた方のVtuberユニットとしてデビューしたわけです」
「しかも弊社への相談は、一切ありませんでした」
沈黙。
古谷部長が、口を挟む。
「当社はあなた方の計画は存じていませんでしたし……そもそも、本人の意思であれば——」
「本人の意思——」
鬼頭が、古谷を見る。
「それを古谷さんは直接確認されましたか?」
「契約書は?所属レーベルは?プロダクションはどちらでしょう?」
「まだ……何も」
「ですよね。Vtuberデビューに関して母親は、反対しております」
「本当に志音様ご本人が、自ら望んでVtuberになられたという証拠はありますか?」
「それとも——」
鬼頭の視線が、セイラに向く。
「誰かに、そう誘導されたのでしたら……かなり問題では?」
セイラが、椅子から立ち上がりかける。
——その時、セイラをめまいが襲った。
体が、ふらつく。
「セイラさん!」
古谷が、慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
「……平気です」
セイラが、再び座る。
額に、汗が浮かんでいる。
鬼頭は、それを冷静に見ていた。
「鳳凰院様、体調がすぐれないようですね」
「……問題ありません」
「無理をなさらず。この件は、改めて——」
「いいえ」
セイラが、鬼頭を睨む。
「続けてください」
鬼頭が、小さく息をついた。
「では、続けさせていただきます」
次のページ。
そこには——誰もが知る人物の写真があった。
それは——
風真和志と共に一時代を築いた元Zyx’sのボーカル。
四宮龍。
「この計画の中心人物は、四宮龍様です」
セイラの呼吸が、止まる。
「説明するまでもありませんが、故 風間和志と共にZyx’sのボーカルとして伝説を築いた人物」
「現在は音楽プロデューサーとして、数々のアーティストを世に送り出している音楽業界の重鎮」
「彼は、風間和志様の死後——」
鬼頭が、静かに続ける。
「その遺志を継ぐべく、志音様のデビューを準備してきました」
「これは、単なるビジネスではないのですよ」
「四宮様が、故人と交わした約束なのです」
セイラが、拳を握りしめる。
「それは——」
「四宮様の影響力は、音楽業界にいるあなた方なら十分にご存じですよね?」
鬼頭の声が、さらに冷たくなる。
「彼の意向に反する形でのデビューが、果たして許されるとでも?」
「これはもう個人の問題ではなく……業界としても看過できない事案なのです」
青空社長が、初めて口を開いた。
「鬼頭さん、それは脅しですか?」
「いいえ」
鬼頭が、社長を見る。
「事実です」
次のページ。
そこには、マスターズ所属のアーティスト名が並んでいる。
グローバルミュージックと契約している、メンバーたち。
「弊社としては、今回の件が適切に処理されない場合——」
鬼頭が、淡々と告げる。
「マスターズ様との、すべてのレーベル契約を解除せざるを得ません」
会議室の空気が、凍りついた。
古谷が、青ざめる。
「そんな——」
「これはビジネスです」
鬼頭が、資料を閉じる。
「感情論ではありません」
セイラが、立ち上がった。
体は、ふらついている。
でも——その目は、燃えていた。
「アタシは——シオンを、守ります」
鬼頭が、セイラを見た。
「その回答は四宮龍を……つまり音楽業界全体を敵に回すことになりかねませんが……」
セイラが言葉を切る。
「シオンの意思は関係ないとでも?」
そして鬼頭を睨みつける。
「セイラさん、いったん落ち着きましょう」
古谷部長が話を切る
「……ビジネス、ビジネス、ビジネス」
セイラの声が、震える。
「仕事なら心は要らないとでも?」
「シオンは、自分で選んだんです……」
「Vtuberギタリストになることを」
「アタシたちと、一緒にやることを」
「その気持ちや覚悟を——なんだと思ってるですか」
セイラが、鬼頭を睨む。
「あなたが、そこまでおっしゃるなら——」
鬼頭は——わずかに、表情を変えた。
それは、尊敬とも、憐れみとも取れる微笑みだった。
「……分かりました」
鬼頭が、立ち上がる。
「では、この状況を本人に伝えた上で確認していただけますか」
「——そこまで覚悟した上で、決断するのかを」
「48時間、お待ちします」
「それまでに、志音様ご本人の意思を——」
「——あなた方の『選択』を明確にしていただきたい」
鬼頭が、部下たちに目配せする。
そして席を立つ。
「では——しつれい」
ドアが閉まる。
その瞬間——
セイラの体が、崩れ落ちた。
「セイラさん!」
古谷と社長が、慌てて駆け寄る。
「大丈夫……だよ。古谷くん」
セイラが、床に手をつく。
呼吸が、荒い。
「無理をしすぎです!病院に——」
「行っても意味がないんだ。これはアタシ自身の問題だから」
セイラが、顔を上げる。
「——48時間か」
セイラが、スマートフォンを取り出す。
その手が、震えている。
「シオン、応答して——」
◆
ブーン、ブーン。
シオンの自宅地下スタジオに、スマートフォンが、振動していた。
壁に立てかけられた白と青のレスポールカスタム。
三人で連日練習を続けたスタジオのワークテーブルの上には、楽譜が散らばっている。
画面には、着信表示。
『セイラ』
でも、誰もいない。
その音だけが、空間に響いている。
やがて——着信が切れる。
静寂。
数秒後——また、鳴り始める。
ブーン、ブーン。
スマートフォンは、デスクの上で小刻みに動いている。
まるで——必死に何かを訴えかけているように。
ただ、ギターだけが——、そこに立っていた。
◆
階段を上がった先。一階のリビング。
大きな窓から、午後の光が差し込んでいる。
テーブルを挟んで、二人が座っていた。
風間美津子と、その娘——志音。
母親は、コーヒーカップを両手で包んでいる。
でも、一口も飲んでいない。
シオンは——俯いたまま、何も言わない。
「ねえ、志音」
母親が、静かに口を開いた。
「いい加減、サインをしてちょうだい」
シオンの肩が、わずかに強張る。
「あなたの我儘で、何年も待たせているのよ」
「それなのに、勝手にVtuberとして活動を始めたなんて——呆れたわ」
「……」
「でも、お母さんだって、理解出来なくはないのよ」
母親が、カップを置く。
「風間和志の娘だと注目されるのは、プレッシャーだと思う」
「だからと言って——こんな、Vtuberみたいな仮面で擬装するのは違うと思うの」
母親が、シオンを見る。
「こんなものは音楽じゃない。お父さんも喜ばない」
「すべて準備は出来てるの——」
「あなたが音楽のプロとして正しく生きていくのなら——」
シオンは——何も言わない。
「志音?聞いてる?」
「……聞いてる」
小さな声。
「何度もいうてるやん——」
「うちは、あの人の世話になるのだけは——嫌や」
シオンが、顔を上げた。
母親の表情が、曇る。
「志音……なぜそんなに頑ななの」
「四宮さんは、あなたのお父さんの親友なのよ!」
「風間和志の遺志を継いで、あなたを——」
「遺志?」
シオンの声が、鋭くなった。
「お父さんの遺志って、何?」
「それは——」
母親が、言葉に詰まる。
「お父さんが、本当に望んでたことって——」
シオンが立ち上がる。
「何なん?」
「志音、落ち着いて」
「落ち着かれへん!」
シオンの声が、大きくなった。
「お母さん、覚えてへんの?」
「——あの日!お父さんが死んだ日のことを……」
シオンの目から、涙が溢れた。
「うち……叫んだんや……何度も、何度も」
「助けてって!誰かお父さんを助けてって!」
「演奏を止めてって!」
母親の顔が、蒼白になる。
「志音……」
「でも、誰も——気づかなかった」
シオンの声が、震える。
「誰も、助けに来てくれへんかった」
「観客は盛り上がってた。演出やと思って」
「なんでか分かる?」
シオンが、母親を見据える。
「なんで演出やと思われたか、分かってる?」
「……」
「四宮が、あいつが歌い続けたからや!」
母親が、息を呑む。
「お父さんが……膝ついて倒れても——」
「四宮は、歌うのをやめへんかった」
「だから、みんな演出やと思った」
「うちの声は、歓声にかき消された」
シオンの涙が、止まらない。
「もし——」
「あの時、四宮が歌をやめてたら——」
「お父さんは、助かったかもしれへんのに!」
沈黙。
母親は——震える手で、顔を覆った。
「志音……あなたは、何も分かってない」
「何が!」
シオンが叫ぶ。
「何が分かってへんの!」
母親が、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいる。
「和志さんは……お父さんいつも言ってたの」
「どんなことがあっても、演奏を止めるなって」
「それが、プロだって」
「四宮さんは——」
母親の声が、震える。
「お父さんとの約束を、守っただけなの」
「あの人だって、苦しんだのよ」
「そして今も、ずっと……それを守ってるのよ!」
「そんなの……」
シオンが、首を振る。
「そんなの、おかしい」
「音楽より、お父さんの命の方が——大事なのに」
「だから……」
母親が、立ち上がった。
「だから、あなたは子供なのよ!」
その声は、悲痛だった。
「四宮さんが、どれだけ私たちのことを——」
「どれだけあなたのことを、考えてくれてるか!
あなたは分からないの?!」
「そんなん、うちは知らん!」
シオンも、立ち上がる。
「うちが知ってるのは——四宮が」
「あいつが、お父さんを——」
「『殺した』って事実だけや!」
パンッ。
乾いた音が、リビングに響いた。
シオンの頬が、赤くなる。
母親の手が、震えている。
「……ごめんなさい」
母親が、自分の手を見る。
「ごめんなさい、志音」
「でも——」
母親の目から、涙が溢れる。
「あなたには、まだ分からないのよ」
「大人には……言いたくても言えないことが、あるの」
「言えないこと?」
シオンが、頬を押さえる。
「……そんなんが大人なら——」
「うちは、子供のままでええわ」
「志音……」
シオンが、背を向ける。
「うちは、Vtuberをやめへん」
「FAKE-3として、フェスに出る」
「それが、うちの決めたことや」
「志音!」
母親が、シオンの腕を掴む。
「お願い、四宮さんの話を——」
「離して」
シオンが、腕を振りほどく。
「そんなに四宮の意見が大事なら——」
シオンが、母親を見る。
「お母さんが、うちの代わりに、四宮と『本物の音楽』をやったらええやん」
「志音……そんな言い方——」
「うちは——」
シオンの声が、冷たくなった。
「お母さんたちの——人形やないから」
母親が、言葉を失う。
シオンは——階段に向かって歩き出した。
「待って!志音!」
「もう、話すことない」
階段を下りていく足音。
そして——
地下への扉が、閉まる音。
母親は、リビングに一人残された。
手が、震えている。
叩いてしまった手。
その手を、握りしめる。
「……和志さん。私はどうすればよかったの……」
小さく、呟く。
「私……どうすれば——」
でも、答えは返ってこない。
ただ——
静寂だけが、広がっていた。
◆
地下スタジオ。
シオンは、デスクに座り込んだ。
頬が、まだ痛い。
涙が、止まらない。
そして——
スマートフォンに気づいた。
着信履歴。
『セイラ 不在着信 15件』
シオンは——電話をかけ直そうとした。
でも——
指が、止まる。
今、何を話せばいい?
何を、言えばいい?
シオンは、スマートフォンを置いた。
そして——
ギターを、手に取った。
弦を、そっと撫でる。
音は、出さない。
ただ——
触れているだけで、少しだけ——
心が、落ち着く気がした。
「……ごめん」
小さく、呟く。
「YUICA、セイラ……ごめん」
——このままでは二人を、自分の因縁に巻き込んでしまう。
シオンは——ギターを抱きしめた。
一人で。暗い部屋で。
ただ——
そうしているしかなかった。
(つづく)
──次回「シオンの選択と私の逆襲」
おまたせ——ようやく主人公のターンが始まる




