56「水槽に映る二つの影」
配信を終えて、私たちがシオンの家を出たのは夜の九時を過ぎていた。
松濤の静かな住宅街。街灯の光が、白い壁を淡く照らしている。
私とセイラは、並んで歩いていた。
足音だけが、静寂を刻む。
「……すごかったね」
私が口を開くと、セイラが小さく頷いた。
「ああ。ギターで会話するなんて、誰も思いつかないよよな」
「うん、それもだけど。二人でソロを演奏したのが凄すぎた……」
「私がここに加わって、大丈夫かなって焦っちゃったよ」
セイラが微笑む。
「あいつの場合、気持ちの問題だからな。もともとセンスがあるんだよ」
「でも、あれは……セイラだから出来たんだよ」
私は、セイラの横顔を見る。
「あなたが、シオンの殻を破ったから」
「……別に、アタシは何も」
セイラが視線を逸らす。
「ほんと……完璧仮面は相変わらずだね」
私は、立ち止まった。
セイラも、止まる。
「あなた、わざとシオンを煽ったでしょ」
「……」
「『ブーツと胸パッドみたいに、ギターも盛ってるのか』って。あとクソガキって呼び方もね」
私は、セイラの目を見つめる。
「ぜんぶ、計算してやってたでしょ。シオンが怒って、本音を出しやすくするために」
セイラの目が、わずかに揺れた。
「……バレてたか」
「うん」
私は微笑む。
「シオンは、丁寧に扱われると殻に篭る。でもギターのことで煽られると、感情が表に出る」
「だから、あえて——憎まれ役を演じてたんでしょ?」
「おまえって、ホントに……」
セイラが、小さく笑った。
「なんでアタシのこと、そんなに見えて——」
言葉が、途切れる。
「見えて?」
「……いや、なんでもない」
セイラが歩き出す。でも、その横顔は少しだけ——照れているように見えた。
私は、その背中を追いかける。
「ねえ、セイラ」
「なに?」
「ありがとう。シオンのこと、本気で助けてくれて」
「……礼なんていいよ」
セイラの声が、いつもより小さい。
「アタシは、ただ——」
また、言葉が途切れる。
私は——その沈黙の意味が、なんとなく分かった気がした。
セイラは、シオンに自分を重ねていたのかもしれない。
色んな期待や重荷を背負って、誰にも気持ちを開けず孤独になっていった自分を。
だから——放っておけなかった。
私は、何も言わずに、ただセイラの隣を歩いた。
暖かい風が、吹く。
夏の始まりを予感させる、じっとりと重い空気が流れる。
「でもさ」
セイラが、ふと立ち止まった。
「なんか、ちょっと——」
セイラが、空を見上げる。
「寂しいって思うことはあるよ」
その声には、普段の強気さはなかった。
ただ——素直な、寂しさがあった。
「大丈夫だよ」
私は、セイラの肩に手を置く。
「少なくとも、私はわかってるから——」
「セイラの弱さも、本当の優しさも」
「……アタシは弱くなんかないぞ。勘違いすんな」
「それだよ。ホント分かりやすいね——」
私は、笑顔を作る。
セイラが、私を見た。
その目が——少しだけ、潤んでいる。
「YUICA……」
「ん?」
「おまえってさ——」
その時だった。
セイラの体が、ふらりと揺れた。
「セイラ!?」
私は、咄嗟に彼女の体を支える。
セイラの体が、私に寄りかかってくる。
——熱い。
明らかに、熱がある。
「大丈夫?」
「……ああ、ちょっとフラついただけだ」
セイラが、額に手を当てる。
「解熱剤が、切れたみたいだ」
「解熱剤?」
私は、セイラの顔を覗き込む。
その顔は——確かに、少し赤い。
「熱があるの?いつから?」
「……ここ1ヶ月くらいかな」
「医者が言うには、長年の疲労が蓄積してるんだろうって」
—— 一瞬、婆が倒れた日の記憶がよぎる。
セイラまで、まさかいなくならないよね。
動揺している私を見て、セイラはケラケラと笑う。
「大したことないって。別に病気とかじゃないから」
「ねえ、無理しすぎなんじゃないの?」
私の声が、自然と強くなった。
「MCバトルの時もだけど、見えないところですごく動いてくれてたじゃない」
「シオンのことでも色々動いて——もし体でも壊したら」
「平気だって」
セイラが、私の腕を掴んで立ち上がる。
「この程度、慣れっこだから」
「でも——」
「心配性だな、YUICAは」
そして、燃える様な強い瞳で私を見つめる。
「……婆さんとは違うから。アタシは死んだりしない。無敵の艦長だからな」
そう言うとセイラが、いつもの調子で笑う。
でも——その笑顔が、強い瞳が、どうしようなく私を不安にさせる。
もしかしたら私は、婆を喪失したトラウマを抱えてしまっているのかもしれない。
「ねえセイラ。もっと、私を……頼ってよ」
私は、セイラの手を握った。
「なんでもかんでも一人で抱え込まないで」
「……頼るって、別にだな」
セイラが、困ったように笑う。
「こんなポンコツな私でも、愚痴や不満の話し相手ぐらいにはなれるからさ」
「おいおい……この日本一を相手に、お得意の人生相談でもするつもりか?」
私は、真剣に言った。
「真面目に聞いてよ、私たちは親友でしょ?」
セイラの目が、揺れた。
そして——小さく、頷いた。
「……親友、か」
その声は、とても優しかった。
セイラが、笑う。
でも、その目も——少しだけ、潤んでいた。
私たちは、しばらくそうしていた。
街灯の下で。誰もいない住宅街で。
二人だけの、静かな時間。
やがて——セイラが、歩き出した。
「そろそろ、帰るか。アタシは、あっちの道でタクシー拾うから」
「うん——じゃあ……また」
交差点をセイラとは逆方向に向かおうとした時。
セイラが——私の袖を、小さく掴んだ。
「……ん?」
私が振り返ると、セイラは顔を逸らしていた。
「あの……さ」
小さな声。
「ちょっと……うちに、寄って行かないか?」
その声は——いつものセイラとは違っていた。
強がりも、余裕も、何もない。
ただ——少しだけ、寂しそうな声。
「……うん」
私は、頷いた。
「行く」
◆
セイラの自宅は、高級マンションの最上階にあった。
エレベーターを降りると、廊下には一つのドアしかない。
ワンフロア、ひとつの部屋。
「……すごい。贅沢だねこれ」
私が呟くと、セイラが苦笑する。
「収入に見合った部屋ってだけだよ。お前もそのうちこなるかもな」
玄関を開けると——そこには静寂が、広がっていた。
広いリビング。高い天井。大きな窓。
でも——誰もいない。
「おじゃまします……」
私が靴を脱ぐと、セイラは電気をつけずに、奥へと歩いていく。
「こっち」
私は、その後を追った。
リビングの奥——そこに、温かい光があった。
「これが——アタシの家族だよ」
セイラが、水槽の前に座り込む。
「ただいま……みんな」
100センチの大きな水槽。
その中で、色とりどりのメダカたちが、ゆったりと泳いでいる。
「綺麗……」
私も、隣に座った。
水の音。静かな泡の音。
それだけが、部屋に響いている。
「この子が、銀河」
セイラが、一番大きな銀色のメダカを指差す。
「星羅、月菜、天音、小春——」
一匹ずつ、名前を呼んでいく。
その声は——配信の時とは、まったく違っていた。
優しくて、穏やかで。
そして——少しだけ、寂しそうだった。
「ここが——」
セイラが、水槽に手を当てる。
「アタシの、『ただいま』を言える場所なんだ」
私は——何も言えなかった。
この広い部屋。シンプルで高級な家具。
まるで、モデルハウスを見ているようだった。
そこには、生活感らしきものを感じない。
ここがセイラの——
「ただいま」と言える唯一の場所。この水槽だけが彼女の拠り所なのか。
ぎゅっと胸が、締め付けられた。
「……セイラ」
私は、セイラの手を握る。
「私のことも。話すから」
「もっとあなたのこと——聞かせてよ」
私は——そっと、セイラの頭を撫でた。
「知りたいんだ……あなたの孤独を」
するとセイラの目から、涙が一筋流れた。
「……ずるいな、おまえ」
「え?」
「そんなこと言われたら——」
セイラが、私の肩に頭を預けた。
「頼っちゃうじゃん」
水槽の光だけが、二人を照らしている。
メダカたちが、静かに泳いでいる。
私たちは、しばらく何も言わなかった。
ただ——そこに、いた。
一人じゃない。
二人で。
やがて——セイラが口を開く。
「今日は、もう少し一緒にいてくれる?」
「うん」
私は、頷いた。
彼女が小さく微笑む。
その笑顔は、いつもの強気なものではなく、ただ安心しきったような穏やかさを湛えていた。
私の目から、また涙が溢れた。
「なんで……おまえが泣くんだよ」
セイラが、目を潤わせながら笑う。
「セイラ、変な鼻声になってるよ」
「おまえもな……」
そう言って二人で、小さく笑った。
水槽の前で。
メダカたちに見守られながら。
その夜、私たちは遅くまで、そこにいた。
シオンのこと。
これからのこと。
フェスのこと。
そして——お互いのこと。
色々と、話した。
——その顔は、少しだけ安心しているように見えた。
でも——
その時の私は、まだ知らなかった。
セイラが、どれほど無理をしているのか。
その体に、どれほどの疲労が蓄積しているのか。
そして——
その無理が、やがて大きな代償となって現れることを。
◆
深夜、セイラの家からタクシーで家に帰る途中。
私は、スマートフォンを見ていた。
シオンからのメッセージが届いていた。
『今日は、ありがとうございました』
『YUICAさんとセイラさんのおかげで、うち、少し変われた気がします』
『明日の練習、楽しみにしてます』
私は、微笑んだ。
そして——セイラに転送する。
すぐに、返信が来た。
『見た。良かったな』
『うん。でも、セイラも無理しないでね』
『大丈夫だって。明日、ちゃんと行くから』
『うん。待ってる』
私は、スマートフォンを閉じた。
窓の外には、東京の夜景が流れている。
心配ばかりしていても、前には進めない。
明日——
三人で、初めての練習。
新しい一歩が、始まる。
私は、そう信じることにした。
◆
一方、その頃。
セイラは、一人水槽の前に座っていた。
YUICAを送り出した後の、静寂。
メダカたちだけが、変わらず泳いでいる。
「……少しは、気分が楽になったかな」
セイラが、小さく呟く。ここ数年で初めて誰かに弱音を吐けた。
それだけで——心が、少し軽くなった気がした。
その時。
スマートフォンが、振動した。
画面を見ると——マスターズの古谷部長からだった。
深夜なのに、仕事の連絡?
嫌な予感がしながら、メッセージを開く。
『セイラさん、急ぎの件です』
『Shadow Guitarの件で、グローバルミュージックから圧力がかかってます』
『先方は看過できない事案だと。来週にでもこの件でミーティングを設定したいとのことです』
セイラの表情が、固まった。
グローバルミュージック——
国内外のトップミュージシャンのレーベルを扱う、業界最大手。
マスターズのメンバーも数人、そこと契約している。
セイラといえども、無碍にできない相手だった。
「ちっ……」
セイラが、舌打ちする。
「なんか厄介なことになってるな」
額を押さえる。熱が、また上がってきた気がする。
でも——
今は、それどころじゃない。シオンを、守らなければ。
セイラは、すぐに返信を打った。
『了解。日程調整をお願い』
送信ボタンを押す。
そして——水槽を見つめた。
「ねえ……私たちの夢は、前途多難みたいだよ」
メダカの星羅が、セイラの方へゆっくりと泳いでくる。
まるで、心配しているみたいに。
「大丈夫だよ、星羅ちゃん」
セイラが、水槽に指を当てる。
「アタシは——絶対に負けないからね」
でも、その声は——
いつもより、少しだけ弱々しかった。
深夜の部屋に、水槽の音だけが響いている。
セイラは、一人——
これから起こるであろう嵐を、予感していた。
(つづく)
──次回「大人の影と最悪の48時間」




