49「三章序幕〜Vtuberという鏡像〜」
【田中家・リビング 午前8時】
季節は初夏から夏へと移ろい始めていた。
窓から差し込む陽光が、キャビネットの上に置かれたトロフィーを照らしている。
『MC BATTLE TOKYO CHAMPIONSHIP- WINNER YUICA』
——その文字は、まるで別の世界からの手紙のように、現実感を伴わない。
私——田中美咲は、ソファに座ってスマホを眺めていた。
優勝から一ヶ月と数日。
時間は流れたはずなのに、あの夜の感覚だけが、まだ体の中で脈打っている。
画面には、今も止まらない通知の嵐。
『お嬢様、昨日の配信も最高でしたブヒ!』
『フィクスター1億再生突破おめでとうブヒ!』
『ついに240万人到達ブヒ!?』
『ずっと応援してますブヒ!』
指先でスクロールするたび、見知らぬ誰かの言葉が流れていく。
彼らは私を「YUICA」として愛してくれる。
でも——私は今、どちらが本当の自分なのか、わからなくなり始めている。
鏡を見れば田中美咲という36歳の女がいて、画面を見ればYUICAというピンク髪のアバターがいる。
どちらも私で、どちらも虚構で、どちらも真実だ。
——でもその境界が、日々溶けていくように感じる。
正直、MCバトル優勝もいまだ実感が湧かない。
こんな小心者の私が……本当によくあんな場で逃げずに戦えたもんだと不思議に思う。あの夜、婆のマイクを握りしめて立っていたのは、本当に私だったのだろうか。
——それとも。
「お姉ちゃん、朝ごはんできたよ」
ゆいの声で、私は思考の迷宮から現実へと引き戻される。
「あ、ありがとう」
キッチンから、目玉焼きとトーストの良い香り。いつもと変わらない朝。
でも——私の周囲は何かが、確実に変わってきている。
現在の登録者数247万人。日本人Vtuberで4位。
数字は嘘をつかない。でも、この数字が示す「成功」という現実が、どうしても腑に落ちないのだ。
「今日も配信のコメント見てたの?」
ゆいがコーヒーカップを置きながら聞く。
「うん…みんな、すごく喜んでくれてる」
画面を見つめながら、私は小さく笑った。
「お姉ちゃん、最近ちょっといい顔してる」
「え?」
「昔の、暗い顔じゃない。 YUICAに似てきたんじゃない?」
ゆいが微笑む。
——私が?
あんな不敵な……自己肯定感上げ上げな表情してるか?
でも確かに変わったかもしれない。
36年間、ずっと本音を隠して生きてきた。
でも今は——
そうか、YUICAに似てきたか……。
言われてみれば最近、……どっちが本当の私なのかわからなくなる時がある。
「ねえ、ゆい」
トーストを一口食べて、私は切り出した。
「実は……大事な話があるんだ」
「ん?どうしたの?」
ゆいがフォークを止める。私は深呼吸した。
「あのね……セイラと……Vtuberのロックバンドを組むことになった」
ゆいのフォークが、カチャンと皿に当たる。
「ロックバンド!?お姉ちゃんが!?」
目を丸くするゆい。
「うん。私はラッパーとして。セイラがボーカルをやるの。あとは天才ギタリストが参加すればデビューするって」
「すごい!すごいよ!」
ゆいが立ち上がる。
「陰キャのお姉ちゃんが……リア充でイケイケの一軍がやるロックバンド?!成長したねぇ!」
「もしかして……馬鹿にしてる?」
「いや、してないけどさ。感慨深いものがあるわよ……いやぁこの歳でも、ヒトは変われるもんなんだねぇ」
「……おい、いちおう私は姉だぞ」
「はあ?最近まで一人で服も選べない36歳児だったのに?」
——くそぅ……妹のくせに!でも反論できない。
「なんで……そういうこと言わなくていいじゃん」
拗ねる私をスルーして、ゆいはニコニコしながら手を叩く。
「でもおめでとう!フェイクスターの次はロックスター!完璧じゃん!」
ゆいがハイタッチしてくるので、いやいや手を合わせる。
でもその手のひらが、温かい。
「それでね……J-ROCKフェスティバルに出るの」
「え……J-ROCK……まさかあの、日本最大の?」
「そう。2ヶ月後」
「お姉ちゃん!」
ゆいが私の手を握る。
「それ実現したらすごい!本当にすごい!革命だよ!」
私は拳を握りしめる。
「でも36年間、誰からも必要とされなかった人間が……革命とか言っちゃって。なんだかなって感じだよね」
「それは違うよ」
ゆいの声が、静かに響く。
「お姉ちゃんは、ずっと凄い人だった」
「え?」
「ただ、表現する場所がなかっただけ」
ゆいが微笑む。
「つまりお姉ちゃんは36年目にしてVtuberていう、輝ける居場所を見つけたんだよ」
……居場所か。
そうか……YUICAは、私の居場所なんだ。
声が震える。
「うんYUICAになったから。本音で怒れた。本音で笑えた。嘘をつかなくてよくなった。これが……私なんだって今は思える」
ゆいが——静かに、私の言葉を聞いている。
その目が、少し潤んでいる。
「……お姉ちゃん」
ゆいが、コーヒーカップを置いた。深呼吸をする。
そして——
「あのね、お姉ちゃん」
「あたし、ずっと疑問だったんだ」
「何が?」
「Vtuberって何が魅力なんだろうって」
ゆいの表情が、真剣になる。
「あたし、結構顔には自信あるし、わざわざVの仮面を被らなくて良かったと思わない?」
——たしかに。
——私も当時、なんでゆいはVtuberやってんだろうって思ってた。
顔出ししている ゆい の“ブタP”のインスタとXはフォロワーが既に130万人。
もちろん YUICAのプロデューサーというブーストは効いてるだろうけど、ゆい自身のルックスの良さがあってこその数字だと思う。
それに、ゆいはトークもかなりできる。
だったら普通にYouTuberでよかったはずなんだ。
「最初はね、Vtuberを応援する人たちの気持ちが知りたかった……つまり好奇心だったんだよ。もちろん、新しいし将来性もあるって思ったんだけどね」
「でも実際やっていてもそれがよくわからなかった。2年間、全然人気出なかったしね」
ゆいの声が、少し沈む。
「頑張っても頑張っても、登録者数は増えない。毎日配信して、企画考えて、歌も練習して。それでも…登録者2000人止まり」
そうだった。ゆいは、本当に頑張っていた。
「結局、挫折して逃げ出した。その時は単に『向いてなかった』って思ってた。全部ダメだったんだって」
「ゆい……」
「でもね、お姉ちゃんがYUICAを継いで」
ゆいが立ち上がる。窓の外を見つめながら。
「どんどん人気が出て、応援するブタどもが増え続けて、ついに200万人まで行って。やっとわかったんだ」
「何が?」
ゆいが——ゆっくりと振り返る。
「普通のアイドルやYouTuberは…生身でしょ?」
「うん」
「だからファンは、どこかで期待がある。『会えるかも』『握手できるかも』『もしかしたら……』って」
——確かに。実際にその期待感でファンを獲得してるアイドルも多い。
「握手会とか、ファンミーティングとか。そういう直接会える接点がある。いや……あることが前提なんだよ」
「……そうだよね。それが普通だよね」
私は頷く。ゆいの目は、いつになく真剣だ。
「でもVtuberは違う。絶対に会えない。触れられない。だって画面の中の存在だから——」
ゆいが、私を見つめる。
「だからこそ、無償の愛を注げるんだよ」
——無償の、愛。
「見返りを求めない、純粋な応援。『会いたい』とか『付き合いたい』とか、そういう欲求がない。ただ、その人を応援したい」
ゆいが、スマホを手に取る。私のメッセージ画面を見せる。
「見て、これ」
『お嬢様が幸せなら、それでいいブヒ』
『ずっとずっと応援してますブヒ』
『お嬢様の声を聞けるだけで幸せブヒ』
『何があっても見守ってますブヒ』
「この人たち、中の人のお姉ちゃんに会おうとは思ってない。むしろ、会わない方がいいって思ってる」
「どうして?」
「だって……幻想が壊れるから」
ゆいが、優しく笑う。
「幻想ってどんな?」
「たぶん……画面の中のYUICAは、ブタどもにとって、自分の分身。つまり鏡に映る、もうひとりの自分なんじゃないかな」
「でも中身は36歳の根暗で陰気な独女なわけじゃん」
「ちょっと!言い過ぎ!」
思わず声を上げる。ゆいがクスッと笑った。
「でもね、みんなそれでいいんだよ。そんなお姉ちゃんも含めてYUICAで、自分を映す鏡なんだよ」
「そして、リスナーのブタどもは……鏡に映ったYUICAの分身」
「つまり、お姉ちゃんの鏡像なの」
——そうか。何かが腹落ちした。
だから彼らは私を守ろうとするし、私もブタどもを傷つけられると、怒りが湧くんだ。
「あたしがダメだったのは……結局、YUICAを演じてたんだよ」
ゆいが、自分の胸に手を当てる。
「あたしは…お姉ちゃんみたいに本音でぶつかってなかった。どこかで『理想の可愛い子』を演じてた。ちゃんと喋れなくても『まあ可愛いからいいか』って。内心ムカついても『顔が見えないからバレないだろう』って」
——ゆいはそんな風に、考えていたんだ。
「でも、お姉ちゃんが継いだ YUICAは、実際に会うこともできないのに240万人が応援してる」
ゆいが、私の手を握る。
「それってもう、偽物じゃない……むしろ本物の絆だよ。見返りを求めない愛。それがVtuberの本質なんだと思う」
私は——言葉が出なかった。
「それを、お姉ちゃんが教えてくれたんだよ」
目に涙が溢れる。ゆいの方へ歩み寄る。
「ゆい……ありがとう」
声が震える。
「あなたが……YUICAを作ってくれたから。私、やっと自分の居場所を見つけられた」
抱きしめる。
「うん……お姉ちゃんなら出来る。Vtuberたちの革命を起こせる!」
「……またそうやって、根拠もなく褒める」
「いいえ。お姉ちゃんと艦長が組めば、ロックフェスも絶対成功するよ」
ゆいが、私の背中を優しく叩く。
「だって……お姉ちゃんは本物だもん」
ゆいの声が、耳元で聞こえる。
「本物……か」
私は涙ぐんでゆいに抱きつこうとした。
でも——ゆいの表情が、また真剣になった。
「でもさ、お姉ちゃん!プロデューサーとして意見させてもらうけど」
「その計画には、かなり問題があるよ!」
「ん?……問題?」
「そもそも天才ギタリストのVtuberなんて聞いたことない。どうするつもりなの?」
そうなのだ。現実は、そう甘くない。
「それが……セイラが探してくれてるんだけど」
数日前のLINEの会話を思い出す。セイラからの報告。
『YUICA、正直に言う』
『ギタリスト探しが難航してる』
『20人以上に声かけたけど、全員断られた』
「……というわけで、全然見つかんないみたいで」
「お姉ちゃん、今からVtuberになってくれる天才ギタリストを見つけるつもりなら……すごく難しいと思うよ」
ゆいが、真剣な目で言う。
「そうなの?」
「うん。だってギタリストって、ロックバンドの花形なんだよ!基本的に目立ちたがり屋でしょ?」
「言われてみればそうだね……」
ゆいが説明する。
「ソロパートとかで目立てる。自分の顔と名前で勝負したい人たち。技術が高ければ高いほど承認欲求も強い」
「なるほど……」
「それがわざわざVtuberの仮面かぶって裏方になる?日本はもちろん、世界中から旬のアーチストが集まるJ-ROCKフェスという大舞台で勝負するのにだよ」
「目立ちたいのに目立てないって意味不明でしょ」
ゆいが首を横に振る。
「……そうか、利益が相反してるんだ」
「そう!」
ゆいが指を折って数える。
「確実に色物、偽物扱いされる。目立てない。失敗したら笑われる。成功してもVtuberとして。しかも準備期間は2ヶ月しかない」
——確かに、ギタリストになんのメリットもないじゃん!
——ていうかリスクだけで見返りもない。
これは厳しいぞ。本当に厳しい。
どうすんの?!セイラ!やばいぞ!
「しかも、J-ROCKフェスレベルの腕を持ってる人は、もう有名だったり、固定のバンドがあったり。そういう人が、わざわざVtuberのために協力するとは思えないね」
ゆいの言葉が、胸に刺さる。
でも——私は、立ち上がった。
窓の外を見る。
——今度は、一緒にVtuberたちの革命を起こす。
婆の墓前で、セイラと交わしたあの約束。
「でも……諦めたくない」
ゆいはしばらく考えてから、突然パチンと手を叩いた。
「よし!お姉ちゃん!私たちで探そう!」
ゆいが拳を握る。
「こういうのは、同じ畑!音楽関係者に聞くのが一番だよ!」
「え?!でも、私、音楽関係の知り合いなんて……」
するとゆいがニヤリと笑った。
「あたしたちには大勢いるでしょうが!」
そう言ってゆいが、何かを指差す。
私は首を傾げた。「え?誰?」
「お姉ちゃん!」ゆいが呆れたように私の肩を叩く。
「いるじゃん!バンバン!めっちゃいるじゃん!」
「いや、だから誰?」
ゆいが大きく深呼吸して、私の両肩を掴んだ。
「スッッッナック韻!!!」
「……あ」
そうだった。タケさん、カズさん、RIZE、SAKI、TAKESHI、JUN、そしてKEN——スナック韻の常連たちは、みんな音楽業界の人間だった。
私は額に手を当てた。
「なんで今まで気づかなかったんだろう……」
「お姉ちゃん、たまに本当に抜けてるよね」
「うるさい!」
私たちは顔を見合わせて、同時に叫んだ。
「「スナック韻へ行こう!」」
その瞬間、リビングのテーブルの上に置いてあった婆のマイクが、まるで応えるように——いや、本当に偶然だろうが——朝日を反射してキラリと光った。
ゆいが目を丸くする。
「今の……」
「……偶然だよ、絶対」
「でも、まるで婆さんが『早く行け』って言ってるみたいだったね」
私は婆のマイクを手に取った。ひんやりとした金属の感触。でもどこか、温かい。
「婆さん……見ててくれるかな」
「見てるに決まってるじゃん」
ゆいが微笑む。
「だって、婆さんが導いてくれたステージなんだから!」
——そうだった。婆が託した炎には、夢には、まだ続きがある。
◆
その日の夜。
私たちは、新宿三丁目駅で待ち合わせして、あの場所に向かった。
行き先は——もちろん、新宿歌舞伎町の裏路地。あの薄暗い階段を降りた先にある、音楽の聖地。
スナック韻。
私たちの次のステージの幕が、今、上がろうとしていた。
(つづく)
次回——「隠れた天才ギタリストを探せ」




