40「最強の姉へ〜10万人の前で」
【ライブハウスCYPHER・バックステージ 17時】
大会ルールやプログラムの打ち合わせを終えた私たちは、スタッフに案内されて薄暗い廊下を進んでいた。
コンクリートの壁に反響するのは、すでに二千人が開場を待つ外の広場からの歓声。
まるで地鳴りのように、足元から響いてくる。
「こちらです」
黒いスーツを着た女性スタッフが、重厚な扉の前で立ち止まった。
扉には「YUICA専用ブース」というプレートが掲げられている。
扉が開くと、階段になっていた。
登り終えるとそこは15畳ほどのブースになっていて、ガラス越しにステージが広がって見えた。
入った瞬間に、私は息を呑んだ。
——なにこれ。
舞台袖に設けられたこの部屋は、通常とは明らかに違っていた。
壁一面に設置されたモニター群。
床には無数のセンサーマットが敷かれている。
天井からは高性能カメラが小型何台も吊り下げられていた。
そしてステージが透けて見える特殊な透明パネルは、外側からは見えない仕様になっているらしい。
「これが噂の……モーションキャプチャーブース?」
私が呟くと、スタッフが頷いた。
「はい。マスターズ様のご協力で、YUICA様専用に最新技術を導入しましてます」
別のスタッフ、技術者らしき男性が説明を始める。
「このブースからは、会場の様子がリアルタイムで把握できます」
「現地2000人の観客の反応、空気感、そのすべてをライブで感じ取ることができます」
たしかに透明パネル越しに、客席とステージが見えるのだから、ほぼ舞台に直接立ってるのと変わらない。
技術者が続ける。
「さらに、本日はペイパービューでの配信を行います」
「現在の事前登録者数は...10万3千人です。その反応もブース内のモニタにリアルタイムで表示されます」
——10万人。
分かってはいたものの、改めて聞くと喉が渇く。
「現地の2000人、そして配信を合わせると10万5000人を超える観客と視聴者が、YUICA様の戦いを見守ります」
すでに待機チャットには、様々な声が書き込まれている。
『YUICAマジで来るの?』
『Vtuberがどこまでやれるか見ものだな』
『正直、1回戦負けだろ』
『所詮色物の客寄せパンダっしょ』
期待と、嘲笑と、好奇心が入り混じった声。
私の手が、自然と震えた。
「お姉ちゃん」
ゆいが私の手を握る。
「大丈夫。準備は完璧だから」
そう言って、ゆいは技術スタッフにUSBメモリを渡した。
「これ、お願いします」
「かしこまりました」
スタッフがUSBメモリを機械に接続する。
大型モニターが起動し、データのローディング画面が表示される。
プログレスバーがゆっくりと進んでいく。
10%...30%...50%...
そして——
「え...」
すると舞台上の透過スクリーンに、見慣れたピンク髪のアバターが映し出された
でも、どこか違う。
より精密で、より美しくリアルで、まるで生きているように見える。
「これ……YUICA?」
私が呆然と呟くと、ゆいが嬉しそうに笑った。
「うん。最新のライブ対応3Dアバターを作ってもらった。艦長が協力してくれてたんだよ」
「セイラが……?」
「艦長が優秀なクリエイター会社に繋いでくれてね。鳳凰院セイラと同じ業界最高峰の仕様だよ」
「身長も、体型も、髪の長さも、お姉ちゃんをモデルに再構築してるの。瞬きから震え、細かな動き、感情まで精細に再現できる。MCバトルに絶対プラスになると思って」
ゆいの目が輝いている。
「密かに進めてたんだ。お姉ちゃんを驚かせたくて」
——たしかに、2.5次元バージョンのYUICAより、雰囲気が自分に似ている気がする。
「ゆい……」
「あと艦長にも何かプランがあるみたいだよ。詳しくは聞いてないけどね」
私はステージに立つYUICAを見つめた。
そこに映る姿は、今までのアバターとは明らかに違う。
髪の毛の一本一本まで繊細に動き、表情の変化も滑らかだ。
技術スタッフが操作を続ける。
「鳳凰院セイラが、VTuber初の武道館単独ライブで使ったのと同じシステムです」
「早速キャリブレーションを開始しますので。YUICA様、中央にお立ちください」
私は言われた通り、部屋の中央に立った。
床のセンサーが光り始める。
「両手を広げてください」
指示に従う。
天井のカメラが私を捉え、スキャンしていく。
「次に、その場で一回転してください」
ゆっくりと回る。
全身が3Dスキャンされていく感覚。
「完了しました。では、自由に動いてみてください」
私は恐る恐る手を動かした。
モニターの中のYUICAが、完璧に同期して動く。
次に首を傾げる。
YUICAも同じように首を傾げた。
表情を変えてみる。
笑顔、驚き、怒り——
すべてが、リアルタイムで反映される。
「すごい……」
ゆいが感嘆の声を上げる。
「お姉ちゃん、まるで本当にそこにいるみたい」
技術スタッフが続ける。
「このシステムは、指先の動き、視線の方向、呼吸による体の揺れまで再現します」
「皮肉に聞こえるかもしれませんが、本物より本物に見えるって評判ですよ」
技術者が合図をすると、対戦者側のステージにスタッフの男性がたった。
すると私の正面にある等身大のLEDパネルに男性の姿が、まるで目の前に立っているように映し出された。
「YUICA様はこのブースに居ながら、まるで実際にステージで対面して立っているかのように戦うことができます。もちろん相手方も同じです」
「色々と……本当にありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「まさか、こんな素晴らしいシステムを……」
「いえ」
スタッフが微笑む。
「マスターズの鳳凰院セイラ様からの、特別なご支援です」
「『親友が戦う場所に、最高の環境を用意しろ』と」
——セイラ。
またあの人に、助けられた。
私は心の中で、セイラに感謝した。
「それでは、音響チェックを行います」
私は、大切にケースにしまっていた婆さんのマイクを取り出した。
「婆さん……いよいよだよ」
私が話すと、会場のスピーカーから完璧にYUICAの声として響いた。
そして、3D YUICAの手に、婆のマイクが、全く同じデザインで握られている。
ゆいがサムアップする。
「マイクの形状データも事前に取り込んでもらったの。一緒に戦うからね」
「……うん」
私は半透明パネル越しに、会場を見た。
2000人収容のフロア。
スタッフが客入れのための最後の準備を始めていた。
「開場まで、あと30分です」
「何かあれば、インカムでお呼びください」
スタッフたちが部屋を出ていく。
私はブースの端っこにある休憩ブースに座った。
最後にゆいも出ようとしたが、私が呼び止めた。
「ゆい。今日はここに……一緒にいて」
ゆいが振り返り、優しく微笑んだ。
「うん。分かった」
30分が経過し、開場した客席は徐々に観客で埋まりはじめている。
透明パネルからは、すでに会場の熱気が伝わってくる。
観客も続々と入場している。
私は壁に背を預けて、ゆっくりと座り込んだ。
「技術的には……限界まで。やれることはやったよ」
婆さんとの修行。
KENとのバトル。
プロMCとの連続フリースタイル。
3週間で、私は確実に成長した。
韻の精度、フロウの完成度、即興力。
すべてが、プロと戦えるレベルへ到達している。
——はずだ。
「でも……」
私の手が、また震え始めた。
「本番が迫るにつれて、怖くて、逃げたくて仕方がないんだ」
心臓がバクバクと鳴っている。息が浅くなる。冷や汗が額を伝う。
「この性格だけは……どうにもならないみたいだ」
自嘲気味に笑う。
36年間、ずっとこうだった。
大事な場面になると、いつも逃げ出したくなる。
その時、背中に温かいものを感じた。
ゆいが、後ろから抱きしめてくれていた。
「お姉ちゃんはね」
ゆっくりと、静かに、ゆいがささやく。
「最高なんだよ」
その声は、優しく、そして力強かった。
「だから大丈夫」
「思いっきり戦ってきて」
私の震えが、少しずつ収まっていく。
不思議だった。
ゆいの声を聞いただけで、心が落ち着きを取り戻していく。
「ゆいって...」
私は小さく笑った。
「ほんと昔から変わんないね」
「そうかな?」
「大丈夫だよ、勝てるよ、お姉ちゃんは最高だって」
私は目を閉じて、昔のことを思い出す。
中学校の発表会。高校の受験。就職面接。
いつも、ゆいは隣で言ってくれた。
「ずーっと根拠のない自信で、むかしっから私を褒めてくるよね」
「正直、いままでは『また始まった』って思ってたし」
ゆいの腕に、そっと手を重ねる。
「『そんなわけないでしょ』って聞き流してた」
「お姉ちゃん……」
「でもさ」
私は目を開けた。
半透明パネル越しに見える、埋まり始めた客席。その景色を見つめながら、続ける。
「今は、ちょっと違う」
「ゆいがくれるその"雑な希望"、変な"期待や確信"」
私の声が、少しだけ震える。
「それを……信じてみてもいいかもって思ってる」
——いや、違うな。
本当に言いたいのは、そんなことじゃない。
「ゆいが信じてくれてる、自分になりたいって思うよ」
ゆいの腕に、力が込められる。
「……うん」
そのひと言が、どれだけ嬉しかったか。今まで何度と私を支えてくれてたか。
私は立ち上がった。
ゆいも立ち上がる。
二人で向かい合う。
「よし、戦ってくるよ」
私は、ゆいの目を真っ直ぐ見つめた。
「最強のお姉ちゃんの背中を……そこから見てな」
ゆいの目に、涙が浮かんでいた。
でも、それは悲しみの涙じゃない。誇らしさと、期待に満ちた涙だった。
「うん。信じて見てる」
ゆいが私の手を握る。
「お姉ちゃんなら、できる」
——できる。
その言葉が、私の中に染み込んでいく。
「ありがとう、ゆい」
私たちは抱き合った。
姉妹の、温かい抱擁。それだけで、私の心は満たされた。
【開演30分前】
ゆいが見守るなかで。私は一人、準備を始めた。
婆さんのマイクを手に取る。
黒と銀のマイク。
今日はこのマイクと、婆さんと一緒に戦う。
このマイクが見てきた景色の続きを、私が見せる。
「見ててください、婆さん」
待機モニターの中のYUICAも、マイクを握っている。
完璧な同期。
「よし」
深呼吸。一度、二度、三度。
心拍数が落ち着いてくる。
透明パネルの向こうには、ほぼ満席になった客席。
2000人の観客が、開幕の瞬間を待っている。
そして配信で見ている10万人以上。
その好奇な視線が、私に注がれる。
分かってる。まだ味方はほとどいない。
でも——見てろ。
その時スマホが震えた。
見ると、DMの通知。セイラからだ。
『ぶちかませ』
——たった一言。でもそこに全てが込められている気がした。
「ありがとう……セイラ」
インカムから、スタッフの声が響く。
『各出演者の皆様、スタンバイをお願いします』
——来た。
私はマイクを握りしめた。
『まもなく開演です』
会場の照明が落ちる。
観客の歓声が、一気に高まる。
『YUICA様、準備はよろしいでしょうか』
私はインカムのボタンを押す。
「はい。準備できています」
戦いが始まる。モニターに映る自分——YUICAを見つめる。
ピンク髪のアバター。偽物のスター。
でも今は、これが私の本当の姿だと思える。
スナック韻で出会った人たちの声が、心の奥で響いた。
『逃げんな、YUICA』
『おまえなら、できる』
『本物を見せてこい』
『信じてるぞ』
そして——
130万人のブタどもの声。
『YUICA様、頑張って!』
『絶対勝てる!俺たちがついてる』
『お嬢様、ブヒー!』
私は目を閉じた。
すべての声が、私の中に流れ込んでくる。
そして——
静寂。
やっと心拍が、落ち着いた。
『開演1分前』
インカムの声。
私は目を開けた。
震えも、恐怖も、まったく消えてない。むしろひどくなってる。
——でもこれでいい。この弱さが私だから。
必要なのは——戦う覚悟だけ。
——だよね。婆さん。
会場のアナウンスが響く。
『皆様、お待たせいたしました』
『第23回東京MCバトル選手権、まもなく開演です!』
観客の歓声が、地鳴りのように響く。
その音が、ブースの中まで伝わってくる。
私はマイクを構えた。
モニターの中のYUICAも、同じようにマイクを構える。
『それでは、出場者入場です』
ステージに照明が当たる。
一人、また一人とMCたちが登場する。
歓声、拍手、口笛。
そして——
『そして最後に、特別枠での参加です』
『Vtuber界から初の挑戦者!』
一瞬の間。
『YUICA!』
会場が、一瞬静まり返った。
その静寂の後——
爆発的な歓声と同時に罵声とブーイング。
『待ってました!偽物スター』
『帰れよ!キモいんだよ!』
『思ってたより背が高いな』
『めちゃリアルやん』
『YUICA様ー!』
『Vtuberなんていらねぇんだよ!』
『俺は好きだ!』
『Boooooooooooooo!』
賛否両論、入り混じった声。
最前列に並ぶ悪そうで威圧感のある客たち。
ステージが直に見えるからこそ怖い、今すぐにでもブースから逃げたい。目をそらしたい。
——でも、少なからず応援してくれてる人もいる。
そしてステージの透過スクリーンに、YUICAがホログラムのように映し出される。
私が手を振ると、画面の中のYUICAも手を振る。
完璧な同期。
配信カメラが、私のアバターを様々な角度から捉えている。
10万人以上が、今この瞬間を見ている。
そして私は——
マイクに向かって、静かに言った。
「こんばんは、はじめましての人たち」
会場が、一瞬で沸いた。
わずかな声援の声がブーイングと、嘲笑にかき消される。
現地の2000人も、配信で見ている10万人も。
すべての視線が、私に注がれる。
私はマイクを握りしめ、声を張りアドリブでライムを飛ばす。
「見てろ 聴いてろ 笑ってるやつら
ブタが泣いても止まらねぇ こっちは命懸けだ
指さすおまえの顔 ステージの光が焼くだろ
後悔しな 今夜 “偽物”が世界を変えるから」
『おおおおおお』
『言うじゃん。面白え』
『優勝したら土下座してやるわ』
『ていうか普通に上手くね?』
『必死に覚えた仕込みだろ』
『期待してないけど、なんか好き』
『偽物が吠えてるわ』
婆さんのマイクが見た景色を、今、私も見ている。
——鞠躬尽力、死して後已まん。
私は、MC界に現れた諸葛孔明。
この身を捧げて、後悔を超え、婆さんの夢を継ぐんだ。
私の戦いが、今、始まる。
(つづく)
次回——「トーナメント開幕〜偽物か本物か」




