39「鞠躬尽力、死して後已まん」
【スナック韻・MCバトル大会前日の夜】
深夜1時。
店内は静まり返っていた。
いや、正確には「静まり返らされていた」と言うべきか。
カウンターには割れたグラス。床には汗の染み。
そして、あちこちに倒れ込んでいる人影。
常連客のタケさんが、ようやく上半身を起こした。
「最後……なんだったんだ、あれ」
声が震えている。
ヒップホップスタイルの女性MC・SAKIが、壁にもたれながら答えた。
「あいつ、私たち8人相手に...最後は人生相談始めちゃったよね」
筋骨隆々のカズが、巨躯を丸くし荒い息をつきながら笑う。
「どんな状況でも、最後は自分の土俵にしちまうんだあいつは」
プロMCのRIZEが床に座り込んだまま、天井を見上げた。
「しかも……泣かされた。俺、マジで泣いたぞ」
別のプロMC・TAKESHIも頷く。
「俺も泣いた。バトルの最中に感動とか、初めてだ」
若手MCのJUNが、ぐったりとカウンターに突っ伏している。
「どんだけディスっても最後は共感させて相手を泣かせるとか。あのひとの頭の構造、どうなってんすかね……」
誰もが、さっきまでの光景を思い返していた。
8人を相手に、YUICAは最後の16小節で「人生相談」を始めたのだ。
韻を踏みながら、リズムに乗せながら、一人一人の悩みを聞き出し、明確に答えていった。
RIZEの「プロとして伸び悩んでいる」という苦悩。
SAKIの「女性MCとして認められない」という葛藤。
TAKESHIの「技術だけで心が伝わらない」というジレンマ。
全員の弱さを、言葉で包み込んで、最後には希望を与えた。
——それもすべて、完璧な韻とフロウで。
「ありゃ……化物だ」
タケさんが呟いた。
「3週間前、あいつは俺たちの会話にすらついていけなかったのに」
「それが今じゃ……プロ相手にラップで人生相談だと?ありえねえよ」
SAKIがグラスに残った水を飲み干す。
「だね、成長速度が異常すぎるわ」
「いや、そもそも素質が規格外だったのかもね」
TAKESHIが半笑いで首を傾げる。
「例のビート聴き続ける修行、俺なんて三日で発狂しそうになったのに、あいつは三週間続けてるらしい」
カズが起き上がり、天井を見上げる。
「まるで乾いたスポンジみたいだ。あっというまに吸収しやがる」
「あの婆が余命をかけて……育てようとしただけはあるな」
そして立ち上がり、カウンターに向かう。
「いよいよ明日、本番なんだよな」
「ああ」
全員が頷いた。
「10万人が見てる前で、あのひとは……どこまで行くんすかね」
JUNがぼそりと言う。
その時、店の奥から一人の男が歩いてきた。
KEN 4 RAW。
日本語ラップ界のレジェンド。
彼もまた、疲れ切った表情をしていた。
「KENさん……」
全員が彼を見る。
JUNがペットボトルの水を差し出す。
「最後の1vs1は、まるで大会決勝みたいでしたね」
ボトルを受け取るとKENはカウンターに座り、婆がいつも座っていた席を見つめた。
そこには、まだ灰皿と半分吸いかけの煙草が残っている。
長い沈黙の後、KENが静かに呟いた。
「婆……」
その声は、誰に向けたものでもなく、ただ空気に溶けていく。
「あんたは最後の最後に……とんでもない怪物を作ってしまったかもしれないよ」
全員が息を呑んだ。
KENが続ける。
「ただMCバトルは生き物だ。どんな怪物であろうとも、どうなるかわからない」
「まあ、だからこそ面白んだけどね」
彼の目には、驚愕と、そして少しの恐怖が混じっていた。
「鞠躬尽力、死して後已まん」
KENがぼそりと呟く。
その言葉にタケさんが口を開く。
「YUICAに託したその言葉、どういう意味なんです?」
「超強大な魏との戦いに挑む諸葛孔明が、君主に誓った言葉だよ」
「この身を捧げて死ぬまで全力で挑むって意味だ」
「事実。天才、諸葛孔明は劉備の死後も、その想いを受け継ぎ蜀のために死ぬ瞬間まで……いや死んだ後も戦い続けた」
KENが煙草に火をつける。
「でも、あの子に背負わせるものが……大きすぎかもな」
煙が天井に向かって昇っていく。
「明日、YUICAは10万人の前に立つ」
「その大半は、彼女が恥をかくのを期待してる」
「MCバトルを汚すVtuberが、恥をかいて泣き帰る姿をね」
SAKIが悔しそうに拳を握る。
「YUICAは本物よ……Vtuberだとか時間とか関係ない」
「そう、大事なのは魂だ」
KENがうなづいた。
「しかもこれは……もうYUICAだけの戦いじゃない」
彼は婆の席を見つめたまま、静かに続けた。
「婆、あんたの夢の続きだ」
店内が、再び静まり返る。
MC婆。
かつてアメリカで戦い、日本では一度も戦えなかった女性。
その後悔と、夢と、覚悟を、YUICAに託した。
「婆さんは……最後まで、あの子を信じてるんだよな」
カズがぽつりと言った。
「ああ」
KENが小さく笑った。
「だから俺たちも、信じて見届けよう」
彼が立ち上がり、グラスを掲げる。
「……後悔を超えて、夢が繋がる瞬間を」
全員が立ち上がった。
それぞれがグラスを手に取る。
タケさんが静かに言った。
「YUICAの勝利を信じて」
カズも頷く。
「俺たちが鍛えたんだ。当然だろ」
RIZEが笑う。
「俺もプロとして、いや仲間としてYUICAを応援する」
SAKIが涙を拭う。
「あいつなら……きっと見せてくれる」
全員が、グラスを高く掲げた。
「YUICAに」
静かな、しかし力強い乾杯の音が、深夜のスナックに響いた。
◇
【翌日・聖マリア病院 午前8時】
廊下を歩く足音。
私とゆいは、婆さんの病室の前に立っていた。
ノックをする。返事はない。
ゆっくりとドアを開ける。
病室は静かだった。
窓から差し込む朝日が、白いシーツを照らしている。
ベッドに横たわる婆さんは、眠っているように見えた。
でも、その呼吸は浅く、弱々しい。
私は、ベッドサイドのテーブルに目を向けた。
そこに、あの黒と銀のマイクが置かれていた。
その横には、小さなメモ。
婆さんの字で、こう書かれている。
『YUICA、待ってたぜ』
私の手が震えた。
ゆっくりと、マイクを手に取る。ずっしりとした重み。
それは単なる金属の重さではなく、婆さんの人生そのものの重さだった。
ニューヨークでの戦い。
勝利の記憶。
日本で戦えなかった後悔。
すべてが、このマイクに詰まっている。
「婆さん……」
その時、婆さんがゆっくりと目を開けた。
「……YUICA、か」
かすれた声。でも、確かに婆さんの声だった。
「はい」
私は思わず前に出た。
婆さんが、わずかに笑う。
「……いい顔してるじゃないか。覚悟は決まったか」
「はい。婆さんのマイク……受け取りにきました」
婆さんの目が、私を見つめる。
その目には、もう迷いはなかった。
「ああ、行ってこい」
短い言葉。でも、その中に込められた想いは計り知れない。
「偽物なんて言葉……実力でぶっ潰してやれ」
私は涙を堪えながら、深く頭を下げた。
「必ず」
婆さんが、再び目を閉じる。
その表情は、穏やかだった。
まるで、すべてを託し終えた人のような。
「行こう、お姉ちゃん」
ゆいが私の肩に手を置いた。
私は頷き、マイクを大切に抱えて病室を出た。
ドアを閉める前に、もう一度振り返る。
婆さんは静かに眠っていた。
「ありがとうございました」
私は深く頭を下げ、静かにドアを閉めた。
【タクシーの中】
病院を出て、すぐにタクシーを拾った。
「ライブハウス「CYPHER」までお願いします」
運転手が頷き、車が動き出す。
私は窓の外を見つめていた。
東京の朝の風景が流れていく。
通勤する人々、開店準備をする店、走る子供たち。
普通の日常。
私は何気なく私はスマホを開いて、
Xに書かれた一つのコメントに目を止めた。
「やっぱ辛いわ 誰もが辛いわ
でも止まってほしくないや
読み続けたいや
一瞬一秒一行一文字
YUICAひとり 見ていたい」
……涙が出そうになった。
数日前、修行でボロボロな現状を伝えた書き込みへのリプライだった。
顔も知らないけど、この言葉だけは、ずっと覚えていられる気がした。
私はリプライを返した。
「辛いね でも読んでくれてるんだね
止まらないよ この声がある限り
涙も韻にして歩く物語
一人きりじゃないって思えた
だからもう少しだけ、続けていい?」
投稿したあと小さく笑って、スマホをしまう。
「ありがとう、ブタども……ずっと支えてくれて」
でも今日、私はこの日常から遠く離れた場所に立つ。
10万人が見守る、巨大な舞台。
手元のマイクケースを見る。
婆さんの相棒。
このマイクが見てきた景色を、私も見ることになる。
ゆいが隣で静かに言った。
「お姉ちゃん、緊張してる?」
「……うん」
正直に答えた。
「めちゃくちゃ怖いよ」
「でも、婆さんが信じてくれたから。頑張るよ」
ゆいが微笑む。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんなら」
——また始まった。
ゆいの根拠のない自信。
でも今は、それが少しだけ心強い。
タクシーが高速道路に入る。
前方に、巨大な建物が見えてきた。
大型ライブハウス「CYPHER」。キャパシティ2000人、多くのアーチストたちの登竜門となっている聖地。
まるで宇宙基地のような、モダンで未来的な外観。
外の広場には大型ビジョンがあり、過去のMCバトルの名シーンが流れている。
その周りには、すでに多くの人だかりができていた。
「着いた…….」
私はマイクケースを握りしめた。
婆さんの声が、心の奥で響く。
『逃げんな、YUICA』
——逃げません。
——もう、逃げない。
タクシーが会場の裏口に到着する。
ドアを開けると、外の熱気が一気に押し寄せてきた。
外から聞こえる広場の歓声。
おそらく今、YUICAの紹介映像が流れているのだろう。
期待と、好奇心と、そして嘲笑が混じった声が響いている。
私は深く息を吸い、ゆいと一緒に車を降りた。
「行こう」
ゆいが頷く。
「うん」
二人で、会場の入口に向かって歩き出した。
婆さんが見られなかった景色を、私が見る。
婆さんが戦えなかった場所で、私が戦う。
そうこれは、私だけの戦いじゃない。
婆さんの夢の続き。
それを受け継ぐ道を、私は『選んだ』んだ。
そして——
130万人のブタどもが信じてくれた、私の本物の姿を証明する戦いだ。
入口のドアが開く。
準備中の会場の緊張感が、空気といっしょに飛び込んできた。
(つづく)
次回——「最強の姉へ〜10万人の前で」




