37 「最後の修行、師匠を超えていけ」
【スナック韻・午後9時】
第三の試練。
7日間、プロMCと戦い続けた地獄の実戦特訓が終わった。
「よーし、YUICA。今日で仕上がりだな」
MC婆がカウンターで煙草を吸いながら言った。
初日の「RIZE」は私を完膚なきまでに叩きのめした。
3日目の女性MC「SAKI」は心理戦で私をズタズタにした。
6日目に来たテクニシャン「MC TAKESHI」は、私の罵倒を逆手に取って反撃してきた。
でも今日——
「お疲れっした。YUICA、マジで強くなったっすね」
7日目の相手「JUN」が、汗を拭きながら言った。
「正直、最後のは俺の負け。あの韻の返し、プロ級っす」
私は確実に成長していた。
リズムキープは完璧。韻の精度も格段に向上。そして何より——
「YUICAの武器が固まったな」
MC婆が満足そうに頷く。
「36歳、陰キャ、恋愛経験なし。弱さを武器に変えた」
「相手によって対応を変化する戦法もモノにしたな」
「はい。MCバトルの諸葛孔明……なんか今ならしっくりきます」
私は自信を持って答えた。
「もうお姉ちゃんを、偽物なんて言わせない!」
ゆいも興奮気味に手を叩く。
今日の「JUN」との16小節バトル。私は後半に主導権を握って互角に戦えた。
「残り1週間か……」
私は深く息を吸った。
MCバトル大会まで、あと7日。
Vtuberを笑ってやろうっていう10万人の前に立ち、戦う日が近づいている。
——技術的にはもう怖くない。迷いもない。
「だが、まだ完全じゃない。相手もVtuberに負けるなんて恥だと思ってる。だからこれまでの相手とは本気度が違う。全力ででおまえを潰しにくる」
「はい、まだまだ相当厳しい状況ですよね」
「ああ。だから、ここからが最後の試練だ」
MC婆がゆっくりと立ち上がった。
「残り1週間。この期間で、あたいを一度でも倒せたら合格だ」
私は驚いた。
「MC婆と?バトルするんですか?」
「毎日やる。1週間のうち1回でも勝てば、本番に送り出してやる」
婆がマイクを手に取る。その瞬間、空気が変わった。
いつものスナック韻の緩い雰囲気ではない。戦場の空気。
「逆に言えば、わたしに勝てなければバトルは辞退しろ」
——え?
「本気でいくぞ、YUICA。覚悟はいいか」
私は息を呑んだ。今まで相手は日本のプロ。
でも婆は、元世界のトップクラス。
本番アメリカで鍛えた本物のラップ。
私とは明らかに格が違う。
【スナック韻・ステージ前】
常連客たちが息を潜めている。
いわゆるこれは師匠と弟子の、最後の戦い。
ビートが流れ始める。重厚で威圧感のあるトラック。
ゆいがタイムキーパーを務める。
「では、MC婆、先攻でお願いします」
【先攻:MC婆】
婆がゆっくりと前に出た。
そしてビートが鳴った瞬間——
「Yo, YUICA——感情じゃ勝てねぇ場
リズムと韻が武器、これが本物の場
14日、泣き寝入り?お疲れさま
だがこの戦場、甘さじゃ魂が剥がされるわ
カタカナの夢じゃ 通用しねぇ
肩書きの仮面 じゃ空気も裂けねぇ
舌で叩け、リリックは刃
飾るな言葉、刺すかどうか
婆だと笑え、だがバースで泣け
ブラックに殴られ、マッチョに焼かれ
鍛えられたフロウは 火を纏ってるぜ
教えは終わりだ、今から試すぜ」
——息ができなかった。
これが、本物の重圧。世界レベルの圧倒的スキル。
韻の精度、フロウの完璧さ、そして言葉の重み。
常連が静まり返っている。あまりの技術レベルに言葉を失っていた。
私は足が震えた。2週間の特訓で自信をつけたつもりだった。
でも——まだまだ足元にも及ばない。
【後攻:YUICA】
私は震える手でマイクを握った。
——圧倒的すぎる。でも、負けられない。
「Yo…婆さん、わかってる まだ甘い
でもこの2週間、生き方が変わった舞
“おままごと”じゃねぇ、命懸けの韻
向き合うことでしか、言葉は武器にならない
リズムに飲まれた夜、何度も崩れた
でもその度あんたの声が背中を押してた
「逃げんなYUICA」——それがフックだった
だから私は ここで拳を繋げた
超えなきゃ意味がない、弟子でいる意味が
このステージで叫ぶ、自分自身のリリック
ビビってねぇ、ただ震えてるだけ
魂が目覚めたら、マイクは喋るだけ」
私なりの精一杯だった。
感謝と覚悟を込めて、でも確実に格差を感じながら。
そして婆は2バース目の準備に入った。
「じゃあ、2ラウンド目だ」
婆がマイクを握り、ビートに合わせて体を揺らし始めた。
「Yo、YUICA このゲームはまだ終わっちゃねぇ
ラップは命、喉じゃねぇ、骨で鳴らすぜ
拳で書いた言葉は消えねぇ
誰が笑おうが、火がついてるなら本物だぜ
軽い言葉は風、重いのは刃
お前のバース、まだ命の匂いが足りないな
耳じゃなく、胸に刺されば客は立つ
吐くな声、撃て 一発
若さは武器じゃねぇ、覚悟が芯
誰かの真似じゃ響かねぇ、踏むなら”自分
誰より尖れ、誰より折れるな
震えた声.....が――……」
途中で、声が止まった。
婆の顔が急に青ざめる。
「え……婆さん?」
カランッ。
MC婆の手から、マイクが滑り落ちた。
額に大粒の汗。そして——
足がもつれ、そのまま崩れ落ちた。
「お婆ちゃん!」
ゆいが真っ先に叫んだ。
私も駆け寄る。常連客が慌てふためく。
「婆さん!しっかりしろ!」
「誰か救急車!」
MC婆は床に倒れたまま、意識がない。
呼吸は浅く、顔は土気色だった。
「ゆい!電話!」
私が叫ぶ。ゆいは震える手でスマホを取り出した。
——さっきまでの充実感が、一瞬で恐怖に変わった。
【聖マリア病院・待合室】
深夜2時。
私、ゆい、そしてスナック韻の常連客数名が、廊下で待っていた。
診察室の扉が開き、医師が出てきた。50代くらいの男性医師。表情が重い。
「ご家族の方は?」
「私たちが一番近い関係です」
常連の「タケさん」が答えた。
「分かりました。率直に申し上げます」
医師が資料を見ながら続ける。
「膵臓癌です。すでにステージ4。転移も確認されています」
——え?
私の頭が真っ白になった。
「い、いつから?」
「じつは検査で判明してから半年以上は経過しています。すでにご本人に告知済みでした」
半年前から?
——毎日一緒にいたのに。気づかなかった。
「あの……先生、治療は?」
「この段階では、回復は極めて困難です。痛み止めと延命治療になります」
医師が私たちを見回した。
「彼女には何度も治療に専念するよう促していたのですが、頑固で……」
「人生の最後まで店に立つんだと」
「でももう、限界に近いはずです」
——限界。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「あとどのくらい……」
私が震え声で聞いた。
「良くて数ヶ月。もしかしたら、数週間かもしれません」
廊下に沈黙が落ちた。
するとタケさんが重い口を開いた。
「ごめんな。俺を含め……常連客の何人かは知っていたんだ」
「なんで……なんで教えてくれなかったんですか?!」
「婆さんが、YUICAには黙っててくれって。余計な事を考えさせたくないかからと」
——そんな。婆さんの寿命を削ってまで、この修行をやる意味なんてあったのか。
ゆいがすすり泣きを始めた。
「そんな状態で、お姉ちゃんに修行を……」
——1週間で婆を一度でも倒せたら合格。
——でも1日目で、何もできず終わってしまった。
——圧倒的な実力差を見せつけられただけで。
「……私、婆さんにまだ勝ってない」
沈黙を破るように、私が呟いた。
「ここから返すはずだったのに……」
「お姉ちゃん、今そんなこと言ってる場合じゃ」
「勝たなきゃ、いけないのに……」
そう言うと、まるで浮遊霊のように立ち上がり、病院の薄暗い廊下をふらふらと歩いた。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
ゆいが呼び止めたが、私は振り返らずに歩き続けた。
「一人にして」
冷たい声が、自分の口から出た。
——言葉で誰かを救いたいだって?
——ふざけるな。ぜんぶ私のせいじゃないか。
——自分のことで精一杯で、何も見えてなかった。
気がつくと、歌舞伎町の真ん中にいた。
ネオンがギラギラと光っている。酔っ払いが千鳥足で歩いている。
「あ、これつけなきゃ」
私は婆から渡されてたワイヤレスイヤフォンを手に取る。
「いまさら……何になるのよ」
イヤフォンケースを握りしめポケットに戻した。
夜の歌舞伎町。
36年間、こんな場所に足を踏み入れたことはなかった。
陰キャの私には、縁のない世界。
でも今夜は違った。
「何か飲みませんか?」
キャッチの男が声をかけてきた。
「……いいよ」
自分でも驚くほどあっさりと答えていた。
【とあるバー・午前4時】
カウンターで一人、ウイスキーを飲んでいた。
——人生初の深酒。
隣に座った若い男が話しかけてくる。
「お疲れ様、何かあったんですか?」
「……人が死ぬの」
酔いが回って、言葉が勝手に出てくる。
「大切な人が、私のせいで……」
——こんなこと、見ず知らずの人に話してる。
——いつもの私なら、絶対にありえない。
【路上・午前6時】
バーを出て、フラフラと歩いている。
隣にいた若い男が、休んで行こうよと言って手を引っ張った。
「はあ?触るな気持ち悪い」
男の手を振り解くと、私はあてもなく歩き続けた。
スマホが鳴り続けているが、出る気になれない。
ゆいからの着信。セイラからのメッセージ。
『お姉ちゃん、どこにいるの?心配だよ』
『YUICA、大丈夫か?連絡してくれ』
——みんな心配してくれてる。
——でも、もうどうでもいい。
歩き続けて、新宿中央公園にたどり着いた。
朝日が昇り始めている。
でも、世界の色が全部灰色に見えた。
ベンチに座り込み、頭を抱える。
「何もかも、無意味じゃん……」
呟いた声が、朝の空気に溶けていく。
——MCバトル?10万人の前で戦う?
——最後の修行は始まったばかりだったのに。
一度も倒せないまま、師匠を失った。
しかも自分のせいで、無理さをせて。
その時——頭の奥で、古い記憶がノイズのように蘇った。
——13年前。
春の嵐が吹き荒れていた日。
私の23歳の誕生日だった。
両親は新潟で温泉旅行中だったが、嵐で新幹線が運休して足止めになっていた。
『美咲の誕生日に間に合うようにレンタカーを借りて帰るね』
母の最後の電話。嵐の予報が出ていたのに。
『危ないから天候が回復してからにすれば?』
私がそう言ったのに。
『だめよ、美咲の大切な日でしょ』
そして深夜、高速道路で——
スリップ事故。
雨に濡れた路面で、父が運転を誤った。
壁面に衝突し、車両はぐちゃぐちゃにになった。
即死だった。
「……私のせいだ」
あの日からずっとそう思い続けている。
——私の誕生日なんて、どうでもよかったのに。
——私がいなければ、両親は今も生きていた。
そして今度はMC婆。
——私が三週間でMCバトルに出るなんて言い出さなければ。
——私がワガママを言わなければ、あの人はもっと体を大切にできた。
膝を抱えて、小さくなる。
「私が何かを望むと、誰かが不幸になる……」
YUICAのアカウントだって、本当はゆいのものだった。
ゆいが頑張って育てていたのに、私が承認欲求に負けて横から奪ったんだ。
『お姉ちゃんの方が向いてる』
そう言ってくれたけど、本当は——
——セイラだって、あんなに努力をしてトップになったのに。
私が挑んだせいで、初めての黒星をつけてしまった。
「結局私は自分のために、誰かから大事な何かを奪ってるんだ……」
朝の公園に、ジョギングをする人たちが通り過ぎていく。
みんな前向きで、健康的で、明るい未来を信じてる。
——私とは違う。
「私は、疫病神だ……」
スマホが震えた。ゆいからのメッセージ。
『お姉ちゃん、心配だよ。どこにいるの?』
——心配させてる。また。
セイラからも連絡が来ている。
『YUICA、連絡してくれ。みんな心配してる』
——みんなに迷惑をかけてる。また。
私は立ち上がり、空に向かって叫んだ。
「もう嫌だ!なにもいらない!どっかいってよ」
声が反響して、自分に返ってくる。
——YUICA。130万人のVtuber。
——MCバトルに挑戦する36歳。
——もう全部、やめてしまいたい。
私なんか家に引きこもって、一生大人しくしてればいいんだ。
そうすれば、誰も傷つかない。
——私のせいで誰かが不幸になることもない。
そしてスマホの電源を切った。
私は公園のベンチに横になった。
柄の悪そうなオヤジたちがこっちをチラチラ見ている。
——もうどうでもいい。
空が明るくなっていく。
でも、心の中はどんどん暗くなっていた。
(つづく)
次話——「想いを継ぐ者」
月曜更新です
正直、この回は書くのが本当にしんどかったです。
MC婆の病状もそうですが、美咲自身の“心の底の闇”を描く必要があり、
何度も手が止まりました。「ここまで晒して、意味があるのか?」と自問しながら。
読むのが辛かった方もいるかもしれません。
でも、それでも書き切らなきゃいけないと思いました。
ここを避けては、美咲の物語が嘘になってしまうからです。
この回を超えた先にあるのは、ただの「復活」ではなく、
誰かの想いを背負って、それでも立ち上がる覚悟です。
それでも「続きを見届けたい」と思ってもらえたなら、
作家としてこれ以上の喜びはありません。
ひきつづきよろしくおねがいします。




