20「時給3倍の誘惑と13年前のトラウマ」※追加
——コンビニ騒動から三日後
【アルバイト先の出版社・午後4時30分】
デスクで資料整理をしながら、私はこのアルバイトの今後について考えていた。
時計を見ると、あと30分で定時だ。
——そろそろ、この仕事どうするかな。
今の条件を整理してみる。
朝8時出勤で17時定時。朝は早いけど、夜の20時からの配信には全く影響しない。
休みも比較的柔軟。仕事内容は資料整理などが多く、正直いって楽だ。
ただ、時給は1300円。都内最低賃金よりはマシという程度で、今までは正直言って生活はギリギリだった。
——でも今は状況が変わってきてる。
YUICAとしての人生相談配信で入るスパチャ収入、そして企業案件の依頼も順調に増えている。
生活する分には、もうこのアルバイトがなくても困らない状況になっていた。
むしろ最近は忙しくなってきて、配信の準備に時間をかけたいと思うことも多い。
——そういえば明日は、大きな案件のビデオミーティングが入ってるんだっけ。
ゆいから聞いた話では、YUICAを何かのイメージキャラクターにしたいという組織からの打診らしい。
詳しい話はまだ聞いてないけど、かなり大きな案件になりそうだった。
——つまり、これからもっと忙しくなる可能性もあるってことだよね……
そろそろ辞め時かもしれない。
でも、ゆいの言葉が頭をよぎる。
『お姉ちゃんは引きこもり体質だから、社会との接点は持っておいた方がいいよ』
確かに、完全にVTuber一本になって、家にこもりきりになるのは危険かもしれない。
人生相談をするのに、社会経験がなくなったら説得力もなくなってしまう。
それに、もしVTuberとしての活動に何かあった時のことを考えると……
——さて、どうしたものかな。
そんなことを考えているうちに、時計の針は定時に近づいていた。
「あー、美咲ちゃん!美咲ちゃん!お疲れさん」
出版社でのアルバイトを終えて帰ろうとした時、上司の田村さんに声をかけられた。
相変わらずの関西弁が出ている。
「はい、お疲れさまでした」
「ちょっと時間あるかな?めっちゃ大事な話があんのよ」
田村さんの表情が、いつもより真剣だった。応接室に通されて、私は内心ドキドキしていた。
——まさか、YUICA♡の正体がバレた?
——艦長とのバトルで、けっこう派手にやちゃったからなあ。
「あ、コーヒー飲む?」
田村さんが自分のカップを持ちながら聞く。
「いえ、大丈夫です」
「そうかぁ。なら俺だけ...あっ」
カップを机にぶつけて、コーヒーが少しこぼれる。
「またやってもうた...」
(また?)
「ごめん、ごめん、緊張しとんかなぁ」
田村さんが慌てて拭きながら言う。
「緊張?」
「じつはな、美咲ちゃんになぁ」
資料を取り出そうとして、今度は全部床に落とす。
「あー!」
(この人、大丈夫かな...)
「すまん、すまん!ええよ、ええよ!自分で拾ろうから!」
田村さんが、四つん這いになって資料を集めるのを手伝いながら、私は少し緊張が解けた。
「田村さん、落ち着いてください」
「ありがとう。ほんまに美咲ちゃんは優しいなぁ」
「あとべっぴんさんや!俺がもうちょっと若かったらなぁ」
「いや……そんなことは」
「またまたぁ!モテてしゃあないやろ?」
(こちとら36年間売れ残ってる喪女ですけどね……)
「あの……お話ってなんでしょうか?」
すると資料を机に置き直して、田村さんが深呼吸する。
「そうそう、電子出版部門の話やねん……」
「電子出版?」
「そうや。経営陣がな、新しく電子出版部門作るって言い出しましてん」
——他人事モードに入る私。
「はあ」
「今の出版業界、ほんま、あかんねん。紙の本がどんどん売れんくなって」
田村さんが資料をめくりながら続ける。関西弁が段々強くなってくる。
「見てぇや、この売上グラフ。落ちる一方やろ?」
——たしかに。タイトル詐欺のラノベみたいな下がりかたをしてる。
「でもな、電子書籍は逆にめっちゃ伸びとるねん。もうこれしか生き残る道あらへんのや」
会社の新事業の話なんて、アルバイトの私には正直関係ない。
ていうか、そろそろ辞めようと思っているわけで。
「大変なんですね……」
私は相槌を打ちながら、なんで私がこんな話を聞かされているんだろうと思っていた。
「特にコロナ以降な、読者がもうネットに流れてもうててな。若い子ぉらなんて、紙の本なんて触りもせぇへん」
「そうなんですか……」
「正直に言うとな、これは我が社にとって起死回生の大勝負やねん!」
田村さんの表情が深刻になる。
私は同情の気持ちで頷いた。でも、まだ自分には関係のない話だと思っていた。
田村さんが資料を私の前に置く。
そして私をまっすぐ見つめた。
「そういうわけで美咲ちゃん、あんたに電子出版部門のスタッフになってもらいたいんや」
時が止まった。
「え……?」
「そう。電子出版部門のスタッフして参加してくれへんかな」
「え?え?私が?なにゆえに?」
私の頭が真っ白になった。さっきまで他人事だと思っていた話が、突然自分のことになった。
「時給は今の三倍、各種手当、ボーナスも...あっ、また落とした」
資料がヒラヒラと床に舞い散る。
(三倍って言った瞬間に集中力切れるの、やめてください)
にしてもそれって、正社員以上の高待遇じゃないか。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は慌てて手をバタバタと振った。
「私、電子出版の経験なんて……それに会社の命運がかかった部門なんて……」
「だからこそやんか!」
田村さんが身を乗り出す。勢い余って、今度は自分のコーヒーを完全にひっくり返した。
「あー!やってもうた!」
(もう、この人……吉○新喜劇か)
慌てて拭きながら田村さんが続ける。
「美咲ちゃんの分析レポートな、ほんまに的確やったんや。特にネット文化に関する洞察なんて、他の社員には絶対書けへん内容やった」
——それは自宅警備員でネットしか見てないからです。
「で、でも……無理ですよ」
「新しい時代にはな、新しい感性が必要やねん」
「それに経歴見たけど、三友商事にプロパー入社してたやろ?そういう経験も大事やで」
「いやそれ、だいぶ前の話ですし……」
「じつはな、ここだけの話……電子出版部のリーダーが、えらい美咲ちゃんを推しててな。承諾してくれへんかったら、俺の立場が危ういねん」
田村さんの懇願と期待の混ざった目(少し涙目)を見て、私は混乱した。
——会社の存続を握る、新規事業部のスタッフ?
——しかもリーダーからのスカウトってこと?
重すぎる。重すぎるよ、こんなの。
その瞬間、13年前の正社員時代の記憶がフラッシュバックした。
——責任。プレッシャー。期待。
私は小さく震えていた。
20代前半。大手商社で働いていた頃の私は、両親を亡くして、妹のゆいを支えなければと必死だった。
「家族を守るのは私の責任だ」
そう思い込んで、毎日深夜まで働いた。休日出勤も当たり前。体調が悪くても無理を続けた。
そして、ある日突然倒れた。
過労とストレスが原因だった。医者からは「このままでは命に関わる」と言われた。
結局、会社を辞めることになった。
——あの日から、夢も希望も、何もかも失ったような気がした。
「美咲ちゃん?」
田村さんの声で現実に戻る。心配そうに覗き込んでいる。
「あ、すみません……」
「どないしたん?なんや顔色悪いで」
「す、すみません……ちょっと考えさせてください」
「もちろんや。でも、返事は来週中にもらえるかな?」
「はい、わかりました」
「ほんまにすんませんな、コーヒーこぼしたりして」
田村さんが頭を下げる。
「いえいえ、お気になさらず」
——この人、意外と優しいのかも。
◇
家に帰ると、ゆいがキッチンで夕食を作っていた。
「お帰りなさい、お姉ちゃん」
「ただいま」
私は重い足取りでソファに座り込んだ。
「どうしたの?なんか元気ないねぇ」
「うーん……ちょっと色々あって」
オファーの話をするべきかどうか迷った。でも、今は配信の準備をしなければ。
【午後8時 配信開始】
「こんばんは、皆さん。今日もよろしくお願いします」
『お嬢様、お疲れさまです!』
『今日も人生相談お願いします!』
『ブタどもが待機してましたブヒ』
いつも通りのブタどもの温かいコメントに、少し心が軽くなる。
「今日も人生相談やっていきますよ。何かお悩みがある方はどうぞ」
【スパチャ:1000円】
『メッセージ:お嬢様、人生のチャンスを貰ったけど、過去のトラウマで踏み出せません』
——ドキッとした。まるで私の心を読まれているような相談だった。
「どんなチャンスなの?」
詳細を聞くと、転職のオファーを受けたけれど、前の職場でひどい目にあったトラウマで決断できないという。
「なるほど……過去の失敗って、足枷になるよね」
私の声に、いつもと違う重みがあった。
「でもね、今のあなたと昔のあなたは、もう違う人なのかもしれない」
『どういうことですか?』
「失敗した時の自分って、今思えば何かが足りなかったんじゃない?経験とか、知識とか、判断力とか」
「でも今は、その失敗から学んだことがある。同じ失敗を繰り返さないための知恵もついてるでしょ?同じじゃないよね」
『確かに……』
「過去の自分を責めるんじゃなくて、成長した今の自分を信じてみたらどう?」
自分に言い聞かせるような口調になっていた。
『お嬢様……なんか今日は実体験っぽい』
『お嬢様も何かありそうブヒ』
『でも、すごく説得力あります』
ブタどもの鋭い観察力に、ちょっと冷や汗が出る。
「ま、まあ……人生長く生きてれば色々あるからね」
『36年の重みブヒ』
『お嬢様の人生経験に敬服』
「ブタが重みって言うなー!」
いつものやり取りで、配信の雰囲気が和やかになる。
「でもね、大切なのは……」
私は画面を見つめて、ゆっくりと話し続けた。
「失敗を恐れて立ち止まってるより、失敗するかもしれないけど歩き続ける方が、きっと後悔しないと思う」
「だって、止まってたら何も変わらないもの」
『はい!ありがとうございます!』
『勇気が出ました!』
相談者の喜ぶ声を聞いて、私の心も少し軽くなった。
『お嬢様も何か決断することがあるブヒか?』
『今日はいつもより深いブヒ』
『なんであれお嬢様を応援してるブヒよ』
ブタどもの温かいコメントが、目に優しく映った。
——そうだ。私にはこの人たちもいる。
何より、ゆいが居てくれる。
もう一人で悩む必要なんてない。
「ありがとう、ブタども」
私は心からそう言った。
配信を終えて、私は大きく息をついた。
そして、ゆいの作った夕食を食べながら、オファーの話を切り出すことにした。
「ねえ、ゆい」
「何?」
「実は今日、会社で……」
私は田村さんとの会話を一通り話した。ゆいは黙って最後まで聞いてくれた。
「すごいじゃん!お姉ちゃん」
「でも、また体壊すんじゃないかって……」
「お姉ちゃん」
ゆいが私の手を握った。
「あの時と今は違うよ。お姉ちゃんには、もうVtuberという逃げ場がある」
「逃げ場?」
「うん。そして昼の仕事はVtuberからの逃げ場になるの」
「たしかに……」
「どちらかに依存しないから、心にも余裕が生まれる」
ゆいの分析は、いつも的確だった。
「それに」
ゆいが微笑む。
「お姉ちゃんの魅力って、『普通の人』であることなんだよ」
「でも、36年恋愛してないとか普通じゃないでしょ……」
「それってお姉ちゃんの自己肯定感が低すぎるからだよ」
「子供の頃は美人姉妹ってよく褒められてたじゃん」
「子供なんてみんな可愛いんだよ……」
「私から見たら、お姉ちゃんすごく魅力的な人なのに、自分で認めようとしないだけでしょ」
「でもね、それがお姉ちゃんの良いところでもあるんだよ」
「普通に働いて、普通に悩んで、普通に怒れる。だからみんなの相談に答えられるの」
——それが。私とトップVtuber達との違いなのかな。
たしかに、今日の配信でも、会社の実体験があったからこそ説得力のある回答ができた。
「だから、普通に働いて、普通にVtuberもやればいいんじゃない?」
「わかった。前向きに考えてみるよ。返事は来週中でいいらしいから」
「うん、とりあえずは明日のミーティングに集中しよう!初めてのイメージキャラクター案件だからね!」
——しかしその、メージキャラクターの案件で……
とんでもない騒動に巻き込まれることになろうとは、この時の私たちには、想像できなかった。
(つづく)




