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一生独身だと思っていたあいつからの結婚報告

作者: 葉月ユウリ


あいつから11年ぶりに連絡が来て真っ先に頭に浮かんだのは、真っ直ぐ前だけに目を向ける睨みを効かせた力強い眼差しと、目尻に皺を寄せながら口を大きく開けて豪快に笑う気持ちのいい笑顔。

そして斜め上を行くどころか異星人なのではないだろうかと思えるほどの常識外れな発言の数々。

支給された弁当に箸が付いて無かった時は土掘り作業をした後の手でも構わず素手で食べ始めるし、くしゃみした勢いで頭を壁に打ち付けると壁に穴が開くし、靴底が剥がれるとダクトテープで補強して黒のマジックで色を塗り、いけると言って履き続けたり、とにかく“豪快でぶっ飛んでる奴”というのがあいつの印象だった。

そして、今思い出しても脳内でスロー再生されるほど衝撃的な行動も何度か目撃している。

あいつと過ごした日々は濃くて楽しくて全てが色鮮やかに思い出される、自分の人生の中で青春と呼ぶべき輝かしい要所だ。


そんなあいつが結婚だなんて、信じられない。

あいつを選ぶなんて相手の女性はどんな人なんだろうか。


生涯独身だと思っていたし、周りの奴らもそう言っていたのに、俺より先に結婚とか…。

連絡をもらった時は本当に信じられず2、3秒位間を置いてからえーっと叫んでしまうほどショックだった。



ーーーーー



歩道と車道を隔てるように一列に植えられたイチョウの木の葉が色付き、落ち葉は足元に黄色の絨毯を作り上げている。

春は“穏やか”だとすると夏は“活気”そして秋は“落ち着き”という言葉が浮かぶ。

俺は寒くも暑くも無く、乾いた風が吹いてもの寂しい気分にさせられるこの季節が好きだ。

ちょっと切ない感じが片想いしている気持ちを思い出させる。

ちなみに冬は“寒い”しか浮かばない。


指定された待ち合わせ場所のカフェへ着くとテラス席に案内され、イチョウの木が並ぶ街路樹を眺めながら一息ついた。

知らない土地にやって来て目的地まで無事に辿り着けた安堵に浸りながらコーヒーを啜る。

平日の昼間とあって人通りは少なく、カフェから流れるボサノバがいい雰囲気を醸し出している。

こんなオシャレなカフェはあいつのセンスでは無い、きっと()()()のセンスなのだろう。




あいつとの出会いは今から約20年前、高校を卒業したばかりの18の時だった。

俺は6人兄弟の長男で、幼い頃から次々と産まれる弟達の世話を当たり前のようにしてきた。

両親は共働きで俺たち兄弟を食わせるのに必死で、俺は大学や専門学校に進学するといった選択肢は除外し、一人暮らしという憧れも抱かないようにした。

そして3食飯付きで寝床もあって給料も出る自衛隊への入隊を選んだ。

国家公務員っていう響きがカッコイイし色んな資格が取れるし体を鍛えればモテるかもしれない、なんて周りに言いながら入隊したのだが、それ以外の理由は言い方は悪いが“口減し”と何処かで自分で思っていたりもする。

まぁ別にやりたい事があった訳でもないから何の問題もないが。


俺が入隊した時にはあいつは既にそこに居て、同い年なのに俺達の3年先を行く先輩だった。

中学を出てから陸上自衛隊高等工科学校に入ったあいつはもう色々と仕上がっていて背が高いだけでは無く鍛え上げられた筋肉質な体が俺はすごく羨ましかった。

そしてドッシリと構えた姿勢から成す雰囲気には同じ歳とは思えない貫禄のようなものを感じた。

堀の深い顔立ちで眉毛と目が近いから何処か気難しそうで近寄り難い雰囲気を醸し出しているのだが、その事に触れると母方の曽祖父がロシア人だと言っていて、それを聞いた俺はあいつの日本人離れした体格に納得した。


俺の他にも数人居た新卒組は4人部屋で一緒に生活する事になったのだが何も分からない俺達は3年分の知識を携えているあいつから日々の訓練や筋トレ方法などを教わった。

表情が乏しく、普段はあまり笑顔を見せる事のない奴だったが、笑う時は全ての壁を取っ払ったかのように純粋な子供みたいに笑う奴だった。

ふとした会話であだ名の話題になった時、寝癖のひどい奴は“スーパーサイヤ人”と呼ばれたり綺麗な顔をした奴は“少女漫画”と呼ばれたりしていたのだが、先輩達に何て呼ばれているのかと聞いたところ無表情で“脳筋くん”と答えた時には飲んでいたお茶を盛大に吹き出した事があった。

しかも本人は意味が分かっていなかった。


そんな天然な要素を含んだ無愛想なあいつが結婚だなんて…。

悔しいような寂しいような…。



神田(かんだ)!」



名前を呼ばれてコーヒーに落としていた目線を上げると、そこには片手を上げている見覚えのある顔の男がいた。


大輔(だいすけ)!」

俺も片手を上げてあいつの名前を呼んだ、顔が自然と綻ぶ。


澤柳大輔さわやなぎだいすけ、あいつの名前だ。

大輔は歩道とカフェテラスを隔てる植え込みの合間を通ってこちらへ向かってくる。

俺は椅子から立ち上がって出迎えた。


「よく来てくれたな、ありがとう」

相変わらず感情の読めない無の表情でそう言うと、俺はおう、と返事をした。

結婚したとの報告を受けて関東から大輔の住む関西まで愛車で9時間掛けてやって来たのだが、久しぶりの再会だと言うのに何とも軽い挨拶だ、まぁそれもまた大輔らしい。


「お前、変わらないな、結婚したって言うからてっきり格好良く変身したのかと思ったよ」

11年もの歳月が経っているから歳はとったものの、極端に痩せたり太ったりしている訳でもなく大輔の雰囲気はあまり変わっていなかった。

髪型は長い髪の毛を低めのマンバンにしていて口髭を生やし、刈り上げたもみあげと顎のラインを繋げてリンカニックに整えている。

服装も気を遣っている感じは見受けられず、黒色のパンツに黒のブルゾンを羽織り、何とも普通の格好だ。

長髪に関して言及するとずっと丸刈りだったから今度はとことん伸ばしてやろうと思って、と何に対しての反抗なのかよく分からないがそう説明した。


「お前も変わらないな、頭くるくるだけど、相変わらず小洒落ているな」

まるで俺がトチ狂ってるみたいな言い方だが頭くるくるはパーマの事を言っているのだろう、大輔の言葉に自分の服装を見た。

俺はブラウンのテーラードジャケットとノータックパンツのセットアップを着ている。

この歳で独身だから少しでも小綺麗にしておかないと“おっさん化”が進んでしまいそうだから一応気を使っているのだ。


以前と何も変わらない大輔を見たらなんだか安心に似た気持ちが胸に広がる、と共に、こいつと結婚する女の子ってどんな人なんだろうとますます気になってしまった。

こんな珍獣を抱え込む覚悟をしたのだからきっとワイルドな女性に違いない、頭の両サイドを刈り上げにするようなタイプなのかも。


「って、奥さんは?」

「奥さん?あ、そっか」

もう彼女では無いから奥さんと呼んだのだが、すぐに反応出来ないところを見ると大輔はまだ結婚した事を実感していないようだ。


「仕事が終わらなくてちょっと遅れるってさっき連絡来た、昨日夜勤だったから」

「え、夜勤?休まなくていいのか?何か悪い事したな」

「大丈夫、夜勤つっても合間で寝れるみたいだし、神田に会うの楽しみにしてたから」

「寝れる夜勤?何してるの?」

「医者」

「医者!?」


大輔がサラッと答えたお相手の意外な職業に驚きを隠せなかった。

大輔が連絡をくれた時に今の職業を聞いたら建設会社で大工として働いていると言っていたが、どういう馴れ初めなのか気になって仕方ない。


「どうやって医者の彼女と知り合ったの?」

「えーっと、…長野に住んでた時に川で拾った」

「は?何だそれ、ジジイが捨てたエロ本じゃねぇんだから」


相変わらず大輔は口下手、というより、説明が下手である。

ざっくりとまとめようとするから変な説明になるのだろうが、話が長くなってもいいからちゃんと説明してほしい。

大輔は詳細を省き、出会いは7年前で一度別れたもののその1年後に再開して今に至ると説明した。


「プロポーズはお前からしたの?」

体を前のめりにさせて興味津々で聞くと大輔は相手からだと言う。

彼女には夢があってそれを叶える為に一生懸命働いているのだとか、でも家庭を持つ事も諦めたく無いから結婚してくれと言われた、と淡々と説明する。


「俺じゃダメだ、後悔するぞって言ったんだけど、じゃあ他の人と結婚してもいいの?って言われて嫌だって答えたら、こうなった」

それを聞いて可愛らしいカップルだと感じて微笑ましくなった、そして奥さんは大輔をうまく転がしていそうだ。


「しかし、お前が恋愛とか結婚とか信じられない、絶対にお前には無理だってみんな言ってたのに」

「おう、よく分からないけど何か自然とこうなった」


大輔は女性の事を微塵も分かっていない男で恋愛なんて出来ないと俺が一番良く知っている。

昔、彼女を作ろうと必死だった時に休日を利用して先輩や同期と一緒に街に繰り出しては居酒屋などでナンパをしていたのだが、声がけに成功して連絡先を交換した女の子と親しくなる為に大輔を利用した事があった。

学生の頃とは違って社会に出ると異性と距離を縮めるのはなかなか難しいと思っていて、共通の話題を作れば親しくなれるかもと考えていた俺は親しくなりたい女の子の友達に大輔を紹介したのだ。

俺は大輔を、彼女は最近失恋したと言っていた友達を引き合わせる事にした。

お互いの友達を紹介して2人でキューピット役を担うという流れなのだが、これが大失敗だった。

大輔を女の子に紹介した理由は頼りになるし信用出来るからだ、だが大輔は気遣いというものを知らない、男だったら気にしないだろうが女の子にはそれが通用しないという事をすっかり忘れていた。


大輔が紹介した女の子とデートする事になった日、デートだと言うのに昼すぎに帰って来た奴は部屋に入って来るなりいきなり筋トレを始めていた。

映画デートの筈だが、会って3時間ほどで帰って来たから嫌な予感がしつつもデートはどうだったかと聞くと、昼飯の食べたいものが合致しなかったから帰って来たと言うのだ。

女の子は洋食を希望し、大輔は牛丼を食べると言って吉野家のある方面へと歩き出すと女の子はポカンとした顔でその場に立ち尽くしていたらしい。


「行きたくなさそうだったから、じゃって言って別れて牛丼食って帰って来た」

その言葉を聞いて俺もポカンとした顔で大輔を見る。


案の定、女の子からはクレームの電話が掛かり、俺は平謝りした。

大輔は終始ムスッとした顔で目つきが怖かった、ずっと塩対応でいきなり帰った、と友達から話を聞いた彼女は怒っていた。

携帯電話を耳に当てごめんとひたすら謝る俺を尻目に大輔は黙々と腹筋をしている。


「お前、女の子なんだからもう少し気を遣えよ、相手に合わせようとか思わないのか?」

電話を切ると腕を胸の前でクロスして腹筋をしていた大輔に声を掛けた、すると動きを止めてうん、と言った後、

「俺は男だからとか女だからって思って接していない、1人の人間として接している、それに相手に合わせても楽しくないし疲れるだろ、そんなんになってまで誰かと居たくない」

そう言い終わると大輔は腹筋を再開した。


その言葉を聞いた俺は一瞬え、惚れそう、と思ったがすぐにため息が出た。

必死になって彼女を作ろうとしている自分が馬鹿らしく思えたのだ。

それ以降俺は無理に女の子と付き合おうとするのをやめた。


「それより、お前はどうなんだよ」

ふいに話題が自分に振られぴくりと眉毛を上げて反応する。

「あぁ、3年前に退隊して今は車の整備士してるよ、整備士の1級取ったからな」

「それは電話で聞いた、そうじゃなくて恋人はいるのか?」

「んー、居ないっ」


“恋人”というキーワードを聞くと笹森ささもりさんの事が頭を過ぎる。

笹森さんは俺が働いている車屋の隣にあるコンビニの喫煙スペースで出会った女性だ。

彼女は近くの配送会社で受付の仕事をしていて、休憩時間が被るから良く顔を合わせるのだが、彼女が落とした電子タバコを拾った事がきっかけでちょこちょこ話をするようになった。

長い髪の毛を明るく染めており、ネイルもキラキラとラメの入った華やかな物を施していてギャル感を漂わせる大人の女性、と言った印象の笹森さんは社交的で良く笑う人だ。

歳が近い事もあり彼女とは気が合うと言うか、波長が似てると言うか一緒にいても苦にならないし話ていると楽しい。


彼女は15の時に子供を産み、その後離婚して女手一つで1人息子を育てて来た、その子が成人して親元を離れた事を少し寂しそうに教えてくれた時があった。

彼女が見せてくれた20歳の集いの写真では少し照れたような表情の男の子が隣に写っていて、名前は自分の春華はるかから一文字取って、“春樹はるき”くんだそうだ。

明るくギャルっぽい彼女とは対照的に、前髪を長く伸ばして目元を隠したその男の子からは控えめな印象を受けた。

「女の子を連れて来た事もないし、逆に心配になっちゃう」

と、笹森さんは言う。

自立した子供が手元を離れた彼女が第二の人生をスタートさせるのに35という年齢は十分若いし障害となるものは何一つ無い。


「そうなのか?そんなキチッとしているから居るのかと思った」

「現実はそんなに甘くないんだよ」

「キチッとし損じゃん」

「ははっ、なんだそれ」


そんな会話をしていると大輔の注文したカツサンドとコーラが運ばれて来た。

こんなオシャレなカフェで38のオッサンが男子学生のようなメニュー頼むとは、こいつは相変わらず、何にも縛られていないんだな。

大きな体で椅子に座ってテーブルから足をはみ出させながらカツサンドにがっつく大輔、俺はその横でコーヒーを飲んでいるとふと、空が明るくなったのに気が付いた。

秋の薄雲かかった空から柔らかな光が降り注いでいる。

その中に一際輝いて見える女性が歩いていた。

スラリと伸びた手足に、肌の色が白く陶器のようにつるんとしていて、肌が輝いて見えるのか彼女の醸し出す空気が輝いて見えるのか分からないがその子の周りは明るく見えた。

目鼻立ちがはっきりとした整った顔の輪郭は片手に収まりそうなほど小さく、顔半分を占めているのではないかと思えるほど大きな目をしている。

それでいて美人顔特有の威圧感はなく、伸びた黒髪をサラリと靡かせて時折イチョウの木を見上げながら歩くその姿は奥ゆかしさと気品さえ感じる。

道行く人や車を運転している人さえも、男女問わず彼女の容姿に驚き、二度見したり振り向いたりしていた。

こちらに向かって歩いて来るその子と目が合うとニコリと笑って手を振ってきて、俺はその笑顔に脳がとろけそうになりながら片手を上げる。


「あ、来た」

「…ふぇ?」

カツサンドを頰にパンパンに詰めた大輔が手を振るとその子は照れたようにはにかんで小走りで駆け寄って来る。


「えぇっ!?」


状況を察した俺は目を見開き、腰を半分浮かせた状態で席から立ち上がると大輔と美女を交互に見た。




ーーーーーーー




大輔は無愛想だが根はいい奴で、滅多に怒らない器の大きさを持っている。

自衛隊時代、同じ部屋に居た4人の中に嫌味や皮肉をよく言う川島かわしまという奴がいたのだが、大輔はいつもそいつの標的になっていた。

何故なら怒らないから、というだけでは無く、大輔は嫌味を嫌味として捉えず変なリアクションをして場の空気を悪くしたりしないからだ。


大輔が射撃訓練で高得点を取得してその才能を見せた際に、皆んなで「ムスカ大佐」と呼んでその手腕に湧いていると川島だけは冷めた目を大輔に向けて「ムスカほど頭は良くないけどな」と言ったりする、そんな風に川島は何かと大輔に突っ掛かる奴だった。


そんな川島は大輔とバディを組む事があった。

それは最悪な事に“レンジャー訓練”でのバディだった。


レンジャー訓練は陸上自衛隊で最も過酷と言われる訓練で、敵地に侵入し困難な任務を遂行することを想定して行われるのだが容赦なく心身を鍛え上げていくその訓練は負傷者だけでは無く死者が出るほど過酷な訓練だ。

3ヶ月間みっちりしごき上げられるその訓練は愚痴や弱音を吐く事さえも許されず、いつもよりキツい体力錬成や重い荷物を背負った長距離走、行動訓練では重い荷物を背負い両手は常に銃を抱え山道をひたすら歩いた。

食料や水を制限され、山菜や野生動物を捕まえて食べる事もあった。

教官の指導も厳しく、いつも怒鳴っているし、何かヘマをやらかすとバディと連帯責任で一緒に罰を受けるのだが、俺は自分の重い荷物をバディに持たせるという精神的な罰を受けた、これが本当に申し訳なくなる。


最終試験では50キロの荷物を背負って5日間不眠不休で山登りをするのだが、これが肉体的にも精神的にもヤバかった。

背中にピチピチギャルを背負っているんだ、って気持ちを前に向けようとするがそんな努力もすぐに打ち砕かれる。

俺達が最終試験を受けた時は台風が接近していて雨と強い風が吹き荒れている中山道を歩くという最悪な環境下だった。

戦闘服の上に防弾チョッキ、肘、膝にはサポーター、手には硬いグローブ、頭にはヘルメットを被り通気性の悪いブーツは雨と泥でぐちゃぐちゃだった。

濡れた足場の悪い山道は普通に歩くのが困難なほど良く滑り、何度も転けながら前に進んでいく。

カッパを着て雨に濡れるのを防ごうとするが、内側は汗だくだから無意味で、むしろ汗が蒸発されずただただ不快でストレスしかなかった。

空は常に厚い雲に覆われ、昼夜問わず暗い山道を歩くのは本当に死にたくなるくらいキツいものだった。


ほとんど寝れずに何日も雨に打たれ、弱音を吐く事も許されず隊員達からは表情が消え、みんな限界の淵に立っていた。


片側が崖になっている危険な箇所を歩いている時、大輔はバディである川島がフラフラと崖側に寄っていることに気がついた。

「フラついてるぞ、もう少しこっち来い」と雨音に所々掻き消されながらも川島に声を掛けるが川島は返事が面倒なのかそれを無視した。

いや、返事が面倒とかではない、返事をするだけの気力が無かったのだろう。

口を半開きして虚な表情で川島はまたフラフラと崖側に吸い寄せられて行く。

それを見た大輔は思わず腕を引っ張り自分の方へと引き寄せるとその行動に川島はプツンと何かが切れたように大声を上げる。

「何だよっうるせーな!俺に触るなっ!」

そう言って大輔に掴まれた腕を振り払い、その反動で重いリュックに引っ張られた川島は崖から滑り落ちてしまう。

虚だった川島の表情はゆっくりと目を見開きながらそのまま俺達の視界から消えた。

思考がほとんど停止していた俺達はその光景を見て一気に目が覚める。

皆んなで崖の下を覗き込み川島の名前を呼んで安否を確かめるが雨音以外何も聞こえない。

ぱっと見、地面まで20m以上ありそうな高い崖だった、それを覗き込んだ隊員達に絶望感が広がる。


教官は崖の下を覗き込むと俺達訓練生にこの場を動くなと指示をした。

「救助を呼べ!俺はロープを使って下に降りるから」

教官が言葉を全て言い終わる前に視界の横で何かが通り過ぎて雨粒が顔に当たった。

瞬きをして目を開くと視界に入ってきたのは指示をする教官の横で崖に向かって飛び降りて行く誰かの後ろ姿で、ポンチョタイプのカッパをてるてる坊主のように広げて飛び出したその姿は一瞬で崖の下に消えていった。

助走を付けて勢い良く飛んでいったのは大輔だった。

皆んなが声を上げて驚き、崖の下を覗き込むと大輔は崖から少し離れた木の上に飛び乗り、ゴソゴソと動いて木を降りていく姿が見えた。

助走を付けたのは木に飛び移るためだった。

「ば、バカヤロー!勝手な事を!澤柳!そこを動くな!」

教官は驚きながらも大輔に怒号を飛ばす。

木の幹が動きを止めて大輔の姿が見えなくなり、皆んな食い入るように崖の下を覗き込んだ。

しばらく動きはなく、教官を含め豪雨の中、皆んなでその場にしゃがみ込んで見守っていると、


「生きてるぞー!川島はここにいるぞ!」


崖の下から大輔の声が聞こえ皆んな歓声を上げて喜んだ、今までの疲れが吹き飛んだかのように隊員達に笑顔が広がる。

その後、大輔は上官の指示に背いた事でしこたま怒られてレンジャー試験は失格になってしまった、上官の指示は絶対で不服従は許されないからだ。

でも大輔の身を挺した救出行動に関しては上官は口にせずとも感心したに違いない。


あの時川島は大腿骨を露出させるほど酷い怪我をしていて危なかったそうだ。

大輔があそこで飛び降りて行かなかったら川島は冷たい雨に打たれながら死んでいたかもしれない。

しかもあんな高所から飛び降りたのに大輔の怪我は左頬の切り傷だけだというから、何とも頑丈な男だ。


川島が痛みと恐怖と不安で1人震えながら助けを呼んでいると顔から血を流した大輔が走って来て、何も言わずにテキパキと止血手当をしたそうだ。

川島は痛みと情けなさで悔しさを口に出していると大輔は“川島は生きてる”と大声で叫び、それを聞いた川島は泣いてしまった、と、これは先日、同期会を開いた際に川島が話していた。

脚に若干の後遺症は残るものの、命があるのは悔しいけど大輔のお陰だと言って笑っていた。

「大輔が結婚したらしい」とその場にいたメンバーに伝えると、皆んな一瞬固まって驚いていた。

信じられない、初音ミクが嫁だとかいうパターンだろ、など誰1人として大輔の結婚を信じていなかった。


だが、本当に相手がいる、目の前でびっくりするくらいの美人と話している、これほどまでに美女と野獣という言葉が合うカップルを俺は見た事がない。

しかも食べかけのカツサンドを食うか?って言って差し出して、断られてる。

信じられない、そんな汚いもの美女に差し出すな。


「今日は遠方からお越し下さり、ありがとうございます、これ、職場の人が美味しいって言ってたお菓子屋さんの物です、良かったらどうぞ」

容姿同様に可憐な声でそう言うと()()()()は紙袋を差し出した。

そのしっかりとした立ち振る舞いにしどろもどろになってしまいながらも紙袋を受け取る。

「あ、ありがとうございます、これ、クルミっ子ってお菓子です、どうぞ」

用意してきた有名な神奈川土産を渡すと、美女はわぁと顔を輝かせ、嬉しいと喜んだ。

ふんわりとした笑顔に少しハの字に下がった眉毛が何処か儚げで、素直に喜ぶその姿を見て体中の関節がふにゃふにゃになりそうになる。

大輔の嫁は化粧っけがなく、白のケーブルニットにプリーツのロングスカートを履いていてシンプルな服装をしているのだが、見た目だけではなく内側から溢れる“美”が圧倒的だった。

「あ、後藤杏奈ごとうあんなと申します、よろしくお願いします」

自己紹介が先だった、と言わんばかりに慌てて頭を下げる大輔の嫁、その仕草が何とも可愛い、いや、可愛すぎる。

神田宗一郎かんだそういちろうです、よろしくお願いします、…あの、杏奈さんはすごく若く見えるけど…」

「26です」

「26!?」

俺は目を見開いて大輔の方を見た、奴はカツサンドの最後の一口を傷跡の残る頬の中に詰め込んでいる。

12歳年下の超絶美女と一体何がどうなって結婚まで漕ぎ付けたのだろうか。




ーーーーーーー




「えっと、出会いは避暑で訪れてた長野で、川に落ちて溺れていた私を彼が助けてくれたんです」

杏奈さんは2人の馴れ初めをそう説明する。

やっとまともに日本語を喋ってくれる人が現れた、そして大輔の説明はあながち嘘ではなかった。


「色々とバタバタしちゃって、ちゃんとお礼を言えないまま一度別れたのですがその1年後に奇跡的に再会出来たんです」

「何処で再会したの?」

「スーパーの出入り口に思いっきり頭をぶつけて蹲っている人がいて、大丈夫ですか?って声を掛けたら彼だったんです」

なんともダサい再会だなと思いながらも話を聞いていると、杏奈さんは続ける。

「車が衝突してきたのかなって思うくらいすごい音がして、お店にいた人皆んなビックリしてました」

杏奈さんは笑いながらそう話すが、俺だったら恥ずかしくて声を掛けられない。

「己の身長を把握してないんだよ、まだ伸び続けているのかもしれない」

何故か自慢げに腕を組みながら大輔は言った。


「その後、夕飯を一緒に食べたんですけど、」

「あ、吉牛でしょ?」

「いえ、スーパーで買ったおにぎりとかを公園で食べました」

「え、あ、へぇ〜」

予想以上の軽食にどんなリアクションをすれば良いのか脳が処理しきれずロボットみたいな返事をしてしまった。

「それで、その当時彼はバイクで旅をしていた最中で、ここで寝るって言い出したんです」

大輔は自衛隊を退隊してから全国を旅すると言っていたが本当にこいつは実践したんだな、と思いながら大輔をチラリと見た。

大輔は眉間に皺を寄せている顔をよくしているのだが杏奈さんが来てからその皺がなだらかになった様に感じる。

心なしか表情が穏やかだ、まぁこんな美女だし誰でも顔が綻ぶわな。


「真冬に寝袋一枚で寝ようとする彼が心配でうちに来てもらったんです」

「ほぉ」

見た目に反して意外と奔放な子なのだろうか、と思える発言だ、男女が一つ屋根の下、そう考えずにはいられない。

「彼が廊下で寝袋で寝ていると変な音がするって言い出して」

あ、別々で寝たのね、何だか自分の心が汚れている事を再確認してしまった気分だ。

「そしたら玄関に飾ってあったプリザーブドフラワーの中に隠しカメラを見つけたんですよ、凄いですよね、小さなカメラの動作音が聞こえるなんて、野生動物みたいって思っちゃいました」

…えっと、何処から突っ込めば良いのだろうか、隠しカメラの方が衝撃的なのに大輔の耳の良さへ話題が振れてしまっている。

ボケ、なのかな、いや、この子は…天然だ。

俺はチラリと大輔を見ると、あぶねーだろこいつ、と言っている。

「カメラだけじゃなくて盗聴器まであちこち仕掛けられてたんだよ、警察行けって言ったら時間ないって言うし、ストーカーの存在には気付いてるけど危害加えられてないからとか言うし」

「いや、もう既に害を及ぼしてる、それは…鈍感とか、それ以前の話だな」

俺はこんな容姿をしているのに杏奈さんの危機管理能力の低さに愕然とした。

そもそも大輔を部屋に上げる事自体が危険な行為と見なしていなかったって事なんだよな、まぁ大輔はそんな奴じゃないけど。

「ストーカーは多分3人位だって言うけど、蓋を開けたら8人居た」

大輔はそう言うとコーラを一気飲みした。

その数の多さにギネスに申請した方がいいと思ったが口に出すのはやめた。

杏奈さんを見ると、彼女は恥ずかしそうに笑っている。

「家に帰るのは寝るためだけって感じなので、ストーカーって言っても脅しとか、怖くなるような危害は加えられていないし、知らない人に見られてるなって感覚はあったんですけど」

「…ほぉ」

いや、怖いだろう、と思ったがもう杏奈さんの頭の中が平和すぎてサンタクロースみたいな返事になってしまった。

こんな、のほほんとした子が医者やってるのは信じ難い、まぁこの位神経ぶっとくないとやっていけないのかもしれないが。


「それで彼が1人残らず捕まえてやるって言ってしばらく私の部屋に留まってくれる事になったんです」

それで仲を深めていったのか、と俺は先読みして顔をニンマリさせながらうんうんと頷いた。


大輔は自分の下着をあえて外に干したり隠しカメラが常に自分の顔を映すように持ち歩いたりしてストーカーに嫌がらせを始めたそうだ。

そして杏奈さんの通勤中に後を着けていそうな人物を見つけると声を掛けて彼らを遠のかせた。

こんな強面のゴツい大男に声掛けられて怖かっただろうな、とストーカーの心中を察してしまう。


「で、ストーカーを蹴散らせたから出てくって彼が言い出して、そしたらなんか凄く悲しくなっちゃって」

「トイレ」

杏奈さんが話している最中に大輔は逃げるように席を立ち上がってその場を離れた。

こいつ、照れてるな、と直感でそう感じた。


「好きだから行かないでほしいって私が告白して引き止めたんですけど、彼は勘違いだとか気の迷いだって言って信じてくれなくてずっと俺じゃダメだしか言わないから“じゃあ他の人とお付き合いしてもいいの?”って聞いたら5分位間を置いて嫌だって言ってくれたんです」

俺はうんうんと頷きなら聞いていたのだが、ニヤニヤが止まらなかった。

なんともこそばゆいようなやり取りに胸がキュンキュンしてしまう。

そして大輔は同じ誘導尋問を2回も食らって落ちている。


「杏奈さんは大輔の何処に惹かれたの?」

「うーん、真っ直ぐで純粋で、私を1人の人間として見てくれるところかな、今まで男性には容姿の事ばかりを言われて来たのですが、彼は一度も私の容姿を褒めた事ないんです」

大輔は見た目や性別で人を判断しない、見た目とか関係なくこの子の人間性を好きになったんだろうな。

「彼ってジオードみたいだなって思うんです」

「ジオード?」

聞いたことの無いキーワードに首を傾げていると杏奈さんは説明する。

ジオードとは中が空洞になっている石の事で、長い年月をかけて地下水などのミネラルが浸透してそれが結晶化し、内側の壁に水晶や瑪瑙などを形成するそうだ。

外見はただのゴツゴツした石だが、割ってみると中はキラキラと輝く綺麗な結晶が内側を覆っている、大輔はまさにそれだと言うのだ。

「下心も二面性も無いし、彼は本当に真っ直ぐで内側が綺麗なんです、ずっと一緒に居たいって思ったんです」


大輔は幸せ者だ、こんなにも自分を理解し、こんなにも素直でいい子に愛されていて、羨ましいと思わずにいられない。

そしてこの子も大輔同様、人の中身をちゃんと見ている。

「そうだね、あいつは単純だけど自分の軸がしっかりした奴だ、杏奈さんみたいないい子と結ばれて俺も嬉しいよ」

俺がそう言うと彼女は照れたように微笑んだ。


「そう言えば夢があるって聞いたけど、どんな夢か聞いてもいい?」

「はい、私、鹿児島にある小さな島で生まれ育ったのですが、その島には医者が居なくて、だから知識と経験を積んで故郷の島に病院を開業させるのが夢なんです」

「へぇ、すごいなぁ」

想像以上に立派な夢に俺は驚いた、ストーカーに対してのユルい対応からは想像できないほどしっかりとしている。


「家族を持つ事も私の夢なので、いずれ彼と子供を連れて島に帰れたらいいなって考えているんです」

「そっか、子供も考えているんだね」

「彼は、自分が子供を持つなんて無理だって言いそうだけど、でもいい父親になれるって私は信じているんです」

少し目線を落として話す杏奈さんの表情は穏やかだけど何処か悲しみが滲んでいる。

彼女はきっと知っているのだろう、大輔の過去を。



ーーーーーーーーー



自衛隊では上官の命令は絶対だ。

服従する義務が法律で定められていて、上官に反抗的な態度をとったり、命令への不服従は停職や減給などの処分を受ける事がある。

上官の命令が明らかに法律違反だと捉えられる場合は従わなくてもいいらしいが、基本、俺達は教官や上官の命令に従って動いている。

教官のほとんどは厳しくて怖いイメージが多いが、大きな声を出すのは訓練中だけで、それ以外は普通のおじさん達だ。

俺がお世話になった上官は厳しくもいい人が多かった、1人を除いては。


俺が“いい人”から除外したのは佐伯さえきという教官だ。

佐伯は他の基地から転勤して来て、上官の中では比較的若めだった、人の事を舐めるように見る癖があってそれはただの観察ではなく人を見下すような目つきをしていた。

そして訓練中にミスをしていなくても佐伯の意にそぐわない事が起こると激しく怒鳴り散らして、二言目には“役立たず共が”と捨て台詞を吐く。

裏ではみんなで佐伯の事をヒステリックな奴だとか、PMSだと言って揶揄していた。


そんな佐伯は何の前触れもなく突然大輔に目を付け始める。

理由は定かではないが、俺が思うに大輔は射撃の腕前や川島の救出劇などで上官からも一目置かれる存在だったので、それが気に入らなかったのかもしれない。

靴が汚れているや服のアイロン掛けが不十分だなど、小姑みたいに、粗探しもいい所だった。

佐伯にいちゃもんつけられる度に大輔は腕立て伏せをさせられたり走り込みさせられたりしていた。

側から見ても理不尽だったが、それでも大輔は文句を言わず、俺達に愚痴る事もなかった。


弱みを見せず、顔色を変えない大輔が面白く無いのか、佐伯は攻撃対象を俺達に切り替えるようになった。

大輔が何か少しでも佐伯の気に入らない事をするとお得意の粗探しで連帯責任だと言って俺達に腕立て伏せやスクワットをさせた。

そして大輔には「ここで見てろ」と言って罰を受ける俺達のそばに立たせた。

こういう時、ただ見てるだけの方が辛かったりする。


大輔はそれでも佐伯の事を悪くいう事も、自分の非を謝罪するわけでもなく、いつも通りに過ごしていた。

だから俺達も大輔を責めるわけでも佐伯を悪く言う事もせず理不尽なペナルティを黙々とこなしていた。

俺達が佐伯の行動に言及しないのは大輔を責める事に繋がるからだ。


平気そうに見えていた大輔も密かにストレスを溜めていたようで、日が昇る前に1人で外に出てグラウンドで走ったり少しでも時間が空くと筋トレを始めたりして何かを発散させるように常に動いていた。

大輔の葛藤は俺にも分かっていた、でもどう話し掛ければいいのか、なんて言えばいいのか俺には分からなかった。

それに大輔は俺達と距離を置いて壁を作っているように思えた、自分自身と闘っているかのようで、口出しするのは違うように思えたのだ。


そんなある夏の日、事件は起きる。

その日は朝から暑く、予想最高気温は35度だった。

今では35度越えも珍しく無いが、10年前の夏はそれがまだ珍しく、その暑さは体に堪えた。

そんな中、俺達は野外訓練で体力錬成などをしていたのだが、佐伯は大輔が一足早くメニューをこなしたのが気に入らなかったのか“お前は調和を乱している”と言い出していつものように俺達にペナルティを課す。

普段なら難なくこなせるメニューも、この日は簡単にはいかなかった。

かんかん照りの痛くなるような陽射しの中、暑く熱せられた砂の上での腕立て伏せはキツく、すぐに息が苦しくなった。

みんな汗を滝のように流しながら掠れる声で数を数えていたが、何人かは腕の上下運動が出来ず、腕立ての体制だけ維持して動きを止めてしまう。


すると佐伯はいつもの「役立たず共が」を吐き捨てた、その瞬間、両手を後ろに回して仁王立ちしていた大輔は佐伯の方を向くと右腕を大きく振って佐伯の顔を思いっきり殴っていた。

殴られた佐伯は1mほど吹き飛び、口と鼻から血を流し地面に倒れた。


うつ伏せで上半身を起こした状態から大輔を見上げるとゴツゴツした関節が真っ白になる程強く握り締められた拳が目に入った。

大輔は何かを必死に抑えるように歯を食いしばっていた。

ブチギレている筈なのにその表情からは感情を汲み取る事は出来ず、ほとんど無表情で佐伯を見ている。


それを見た俺達は一瞬時間が止まってしまったかのように静止した後、慌てて大輔を止めに入る。

上官に対しての反抗は禁忌で、ましてや暴力なんて今まで必死になって耐えて来た訓練が一瞬で水の泡になってしまう可能性があるからだ。

大輔が続けて殴りかかる様子を見せる事は無かったが俺達は大輔、やめろ、と言って大輔に駆け寄り、止める素振りをしながら佐伯を踏んだり蹴りを入れていた、どさくさに紛れての仕返しだ。

そして誰1人として佐伯に手を貸さずみんなで大輔を取り囲う。


その後、大輔はお偉いさんに呼ばれてしこたま怒られ処分を言い渡される。

多分、停職とか減給だと思うのだが、大輔はこれを受け入れず退職を選んだ。

考え直すようみんなで説得するが大輔の意思は固く、もう決めた事だと言うだけで俺たちの説得を聞く耳を持たなかった。




大輔は孤独な男だ。

大型連休があっても外泊する事なくずっと隊舎にいるのでどっか行かないのか?と聞いた事がある。

「金を使いたく無い、友達も家族もいないし、出た所で行くとこねぇんだよ」

と、悲観するわけでもなく、ただそれが当たり前のようにサラッと言っていた。

施設育ちだと言っていた大輔は、本当に独りぼっちで、ここを出たらますます1人になってしまう。

それでも退職を選んだ大輔を俺は殴ってまで引き留めたい気持ちでいっぱいだった。

涙目になりながら考え直せと説得しても大輔は

「これは俺の人生だ、お前も俺に構ってないで自分の人生を生きろ」

と言っていつものように筋トレを始める。

長年一緒に頑張って来た仲間だ、大輔が居なくなると寂しいだけではない、いい奴だけど不器用で無愛想な大輔の行く末が心配なのだ。


どんなに説得しても大輔を引き留める事は出来なかった。

この出来事は自分の人生の中で3本の指に入るくらい悔しく、やるせない出来事となったーーー。




大輔の退職の前日、居酒屋を予約してみんなで送迎会開いた、だが大輔は酒を飲む事はせず、料理ばかりを食べていた。

普段は飲みに誘っても何かと理由を付けて断っていたので顔を出しただけでもマシなのだが、これが最初で最後の飲み会だと思うと胸に寂しさが広がる。


男ばかりの飲みの席は、時間が経つにつれて酒も進み店内の喧騒に負けないくらい大きな声でくだらない話をして、それに大笑いしながら送別会を楽しんでいた。

最初は笑顔を見せていた大輔だったが徐々に静かになっていく。

そのうち一点を見るようになり、いつもと様子が違うのが気になった俺は声をかけた。

「大丈夫か?」

「ごめん、ちょっと外の空気吸ってくる」

小さく弱々しい声でそう言うと席を立ち上がる、目にも力が無く、何処か沈んでいるように見えた。

俺は心配で様子を見に行くと、大輔は車道と歩道を隔てるガードレールに軽く腰掛け腕を組みながら足元を見て何かを考えているようだった。

冷房の効いた店内とは違って外は生暖かい風が吹いている。

週末の夜とあって色んな所から賑やかな声が聞こえていて夏の夜の賑やかさに満ちていた。

俺は大輔の横に並んで咥えたタバコに火を着ける。


「悪いな、俺、酒の匂いダメなんだよ」

道ゆく車の音に掻き消されそうなほど小さな声でポツリと呟いた。

タバコを蒸かしながら黙っていると大輔は続けた。

「親父…父親が大酒飲みで暴れる奴だったから」

自分の父親の呼び方が分からず、戸惑いながらも大輔は話してくれた。




幼い頃の大輔は小さな平屋の一軒家に両親と3人で暮らしていた。

地方公務員として働く大輔の父親は真面目で誠実で誰からも信頼される“良く出来た人間”、というのは表の顔で家では酒を飲んでは家族に暴力を振るう男だった。

一度キレると家の中がめちゃくちゃになるまで大暴れしたそうだ。

「地面に置いたホースに勢い良く水を流すとジタバタしながら暴れるけど、あいつはそんな感じ」

と、大輔は言う。

家にいる時はいつも不満や愚痴を溢していて、“世の中使えないクズばかりだ”と良く言っていた。

外では良い人のお面を被っているからストレスを溜めているのだろう、家ではそれを発散させる。


「外では常にニコニコした表情を維持しているけど、家では顔の筋肉を全て解放したかのように垂れ下がったような顔をしてた、家では寝てるか酒飲んでるか文句垂れる事しかしてない男だった」


夜になると父親の呼気から排出されたアルコールの臭いが家の中を充した。

暴力は母親に向けられていたが、幼い大輔が殴られる事も少なくなかった。

大輔にとって庇ってくれる母親が唯一の安心できる存在だったが、母親は突然家に帰って来なくなった。

父親と2人での生活になり、大輔は心の拠り所をなくし家では常に緊張状態で過ごしていた。

父親の逆鱗に触れないように生活していたが父親の憂さ晴らしの暴力の対象は大輔に向けられるようになる。

母親が出て行った事や仕事のストレスなどを発散させるように、大輔は吐いたり漏らしたりする程の激しい暴力を受け続けた。

「抵抗しても泣いても酷くなるだけだから必死で声を殺してたよ」

普段は無口であまり自分の事を話さない大輔だが、言葉少なめの説明でも彼の経験した虐待の壮絶さが垣間見えた。

5人の弟がいる俺はその話を聞いて我が事のように感じ、胸が締め付けられる。

何もかもが未熟な幼い子供が1人で抱えるにはあまりにも重い現実、どんなに辛く、心細かった事だろうか。


大輔曰く、その時期の記憶が曖昧で、父親から受けた暴力以外は良く覚えていない事の方が多いそうだ。

学校では何をしていたのか、どんな遊びをしていたのか、友達はいたのか、その辺の記憶だけ抜けていると言う。


ある日、父親の暴力により大輔は腕の骨を折ってしまう。

父親には大袈裟だ、と言われて放置されるがパンパンに腫れ上がっていく腕が怖くなり、痛みと高熱で耐えられなくなった大輔は父親の目を盗んで夜中にコンビニまで走って助けを求めた。

そして、父親は逮捕された。

真面目で誠実な公務員の裏の顔が明るみになり周囲の人間はみんな信じられないと口々に言っていたそうだ。


「もう何年も前の事なのに、今だに夢に出てくるんだよ、ガラス戸越しで見てた光景がさ、勢い良く振り上げられた腕で母親が何度も殴られているシルエットが」

その後大輔は施設に入所して、以降は父親と会う事はなかった、母親とも。


「あいつは良く“役立たず”って喚き散らしてた」

大輔はポツリと言った。

「俺は絶対にあいつのようにならないって決めてたんだけどな」

そう言って大輔は自分の握り拳を見た。


こんな時、なんて声を掛ければいいのか俺には分からない。

本当、自分はなんて無知で無力なんだろうって思い知らされる。


「お前は違うよ、父親とは全然違う、お前は俺達に嘘ついてないし暴力を振るうやつでもない、佐伯に関してはくしゃみした弾みで当たっただけだろ?俺にはそう見えた」

必死に頭を巡らせて出たのはこんな言葉だった。


「そうだな、俺、くしゃみの威力がすごいって良く言われるもんな」

大輔はそう言って笑うと顔を上げた。

俺のこんなしょうもない言葉で大輔の心が少しでも軽くなっていればいいのだが、本当のところはどうなんだか分からない、俺に気を使って無理に笑っている可能性もある、不器用だが大輔はそう言う奴だ。


「旅に出るって言ってたけど、たまには連絡しろよ、心配だから」

「ケータイ解約したから出来ないかも」

「えー、何だよそれ、じゃあなんかあったら連絡しろよ?」

「なんかって?」

「そうだな、結婚とか?」

「はは、分かった」


そんな何気ない会話が、11年越しに叶うとはーーー。



ーーーーーー



「川島はまだ事務やってるし、健斗けんと橋本はしもとも在籍してるよ、あと吉弘よしひろは運送業に転職して、松井まついは警備会社で働いてる、皆んな結婚して子供もいるよ」

「へー、あとは神田だけか、俺たちの中で1番早くに結婚しそうだったのにな」

「現実はそううまくは行かないんだよ」


俺と大輔は少し離れた所で電話する杏奈さんを見ながら同期の事について話していた。

俺たちに背を向けてイチョウの木の方を見ながら話しているのだが、道ゆく人や車の運転手やら、分かりやすく杏奈さんの事を見ている。

こんな可愛い子が奥さんだと何かと心配だろうなと思いながら大輔に一つ質問してみた。

「大輔は杏奈さんのどこに惹かれたの?」

「…」

大輔はきゅっと眉間に皺を寄せて難しい顔をしながら考えている、これはきっと照れだ。


「あいつ、あぁ見えてすごく強いんだよ、腕っぷしがじゃなくて精神がな、多分、無人島に放り込んでも生き抜けると思う、頭いいし」

「へぇ〜」

意外な答えにニヤつきながら聞いていると大輔は続ける。

「あと、俺が“ダメだ”って言ってもすぐに“そんな事ない”って言ってくれる」

その言葉を聞いて先ほどの会話を思い出した。

杏奈さんが告白した時もプロポーズした時も、大輔は自分自身を否定している、その話なんだというのはすぐに分かった。


「俺か思うに、杏奈さんはお前のことを良く理解しているよ、それに2人は似てる気がする」

天然なところ、人目を気にしないところ、優しいところ、純粋なところ、裏の顔がないところ、上げていけばきっともっといっぱいあるんだろうけど、2人は似ていると思う。

「そうだな、俺は脳筋くんだけどあいつは頭の中お花畑だからな」

大輔は照れ隠しと思われる発言をした。

「お前、幸せそうだな」

俺がそう言うと大輔は杏奈さんに目わ向け、少し間を置いてから口を開いた。

「あいつには、“傷付いている人ほど幸せに臆病なのは何で?あなたは何も悪い事してない、幸せになる権利がある、その権利を縛り付けないで、たまには贅沢したって、わがままを言ったっていい、あなたは幸せになっていい”…って、繰り返し言い聞かされてさ、それで結婚を決めたんだよ」


杏奈さんのその言葉は俺の中にも浸透して心が動かされる。

そして幼い子供の頃の大輔に手を差し伸べて優しく語りかける杏奈さんの姿が頭の中に浮かび、心が暖かさで満ちていく感覚がした。

大輔は本当に良い子と結ばれたんだな、本当に良かった。


「…で、泣いたの?」

俺がそうおちょくると大輔は、その後に他の奴と結婚しても良いのかって脅されたけどな、と恥ずかしそうに笑った。

否定しないところを見るとハズレではなさそうだ。



ーーーーーーーー



笹森さんの幸せは何だろうか。

必死に働いて育ててきた1人息子が巣立ち、彼女は突然何かから解放されてしまった。

母親という役目か、保護者という“面倒を見る大人”というざっくりとした役目か。

とにかく彼女は1人で背負っていた責任を一旦下ろしている。


実は、彼女の一人息子、春樹はるきくんとは顔見知りになっている。

いつものタバコ休憩の時に彼女に言おうかと思っていたのだが、実は知り合っていました、って驚かせた方が面白いかなと思って黙っていた。


春樹くんと知り合ったのは彼がバイトをしている書店でだった。

俺は定期的に買っている雑誌を探しに総合施設内の書店に入った所、春樹くんがいたのだ。

売り場を飾る販促物の入った大きな段ボールを倒しそうになっている所を助けたのがキッカケだった。

笹森さんに写真を見せて貰っていたからすぐに春樹くんだというのが分かった。

控えめな性格が滲み出た顔立ちに、マッシュウルフの髪型が少し目を隠している。

書店のロゴがプリントされた黒いエプロンの中に着たオーバーサイズのTシャツとワイドパンツが彼の華奢さを際立たせていた。

軽くメイクもしていて、よく居る今時の若い男の子といった印象だ。

段ボールの反対側を支えながら彼の顔をじっと見ていると、春樹くんは戸惑いと警戒の表情を見せた。


「…あの、何か?」

「あ、いや、すみません、知り合いの息子さんに似てたので」


その事がキッカケで俺と春樹くんは知り合いになり、書店に行く度に彼は俺に声をかけてくれるようになった。

ある夏の日、半袖でお店に行くとじっと腕を見られ、「体の鍛え方を教えて欲しい」と言われた事があった。

何だか彼には懐かれているようだ。




“あなたは幸せになっていい”



大輔が言っていた杏奈さんの言葉が自分に向けられているような気がした。




笹森さんも春樹くんともこのまま友達のような付き合いのままでいいと思っていたが、でもそれだと誰かが傷つく、そうじゃなくてもきっと誰かが傷つく。

どう足掻いても誰かを傷つけてしまうような気がする、そして今ある3人のこの関係性が崩れるのも確かだ。

俺もまた、幸せに対して臆病になっているのだろうか。



ーーーーーーー



「そうだ、同期の皆んなが2人の写真を撮って送って欲しいって言ってたんだけど、良いかな?」

電話を終えて席に戻ってきた杏奈さんに聞いた。

すると2人は顔を見合わせる。

「えっと、SNSなどにアップしない事をお伝え頂ければ大丈夫です」

「うん、分かった」

杏奈さんのこの容姿だ、拡散されて騒がれたら困るだろうし、ストーカーの件もあるからSNSに警戒心を抱くのは不思議ではない。


俺がスマホのカメラを向けると2人は少し顔を寄せて微笑んだ。

すごい、何がすごいって並んだ2人の顔の大きさが洋梨とスイカくらい違う。

俺は同期のグループラインに『無断転送、SNSへのアップは厳禁だからな』とメッセージを送った後、先ほどの写真を送信した。


『は?嘘だろ?』

『大輔だ!最近の加工技術はすごいな』

『下手な小細工はやめろ』

『大輔が髭の長髪になってる、おじさんになって…』

『これはAI生成だなチャットGPTだろ?』

『騙されると思うなよ』

『大輔〜変わらないなぁ、これは合成だな』

『やっぱり結婚してませんでしたってオチか?』


スマホの画面に次々と湧き上がるように送られて来るメッセージには杏奈さんの存在を疑う発言で埋め尽くされた。

予想通り、グループラインは荒れ出した。

テーブルの下に忍ばれたスマホの画面を見て俺はくくくっと笑ってしまった。

『26歳だって』と入力して送信ボタンをタップし、スマホのロックボタンを押して閉じるとズボンのポケットにしまった。

ヴヴッと通知が連続で送られてきているのを振動で感じる、もうひと荒れ起きているようだ。


「みんな、おめでとうだって、あと杏奈さんの美貌に驚きと戸惑いの反応をしてるよ」

「あぁ、ウーパールーパーに似てるもんな」

何処がだよ、全然似てない、共通点は肌が白い所だけだろ、どう見てもこのビジュアルと雰囲気は…エゾモモンガだ、エゾモモンガと大輔はシベリアンハスキー。

「いや、全然ウーパールーパーじゃない、眼科行け」

俺がそう言うと大輔はえぇ?と言って眉間に皺を寄せ、杏奈さんは笑っている。


その後3人で時間が経つのを忘れてたくさん話しをした、昔の大輔の事、杏奈さんの故郷の事など。

2人は結婚式を挙げないそうだが、記念写真は撮る予定なので、完成したら画像を送ってくれると約束した。


「大輔もスマホ持ってるならもっと連絡しろよ?ラインしてるだろ?」

「おう、分かった」

「皆んなも会いたがってたから都合あわせて集まろう、杏奈さんも一緒にさ」

「うん、そうだな、お前からの良い報告も待ってるぞ」

「はは、頑張るよ」




日が傾き、ビルや木々の間から覗く雲がオレンジ色に輝いている。

夕陽が綺麗なところも、秋が好きな理由の一つだ。


俺は2人に手を振ってその場を立ち去る、大輔も大きく手を振り、杏奈さんは体の前で手を揃えてペコリとお辞儀をした。

少し歩いてから振り返り、2人を見た。

オレンジ色に輝く空にイチョウの木がフレームの役割をして2人を囲い、黄色の落ち葉の上を歩く2人の姿がとても眩しく見える。

身長差は30センチくらいあるだろうか、デコボコに見えるが、似たもの同士のお似合いのカップルだ。


俺はスマホを取り出して2人の歩く後ろ姿を撮影した、ちょうど顔を向けあって話している良い写真が撮れた。

その写真を同期のグループラインに送ろうとしてスマホを開くと3桁台の通知が届いていた。

大輔の嫁が美人すぎて想像以上に荒れている。

トーク画面を開くと同期グループラインの下に別の通知が1つ、届いているのに気がつく。

そこに書いてあったのは『この前の事は忘れてください』という、短い文章。

トークルームを開かずとも、これだけで終わっている文章なのだと言う事が分かる。

送り主の葛藤を思うと心が抉られるような気持ちになる。

現実から目を逸らすように、俺はスマホを閉じて駐車場まで歩いた。


車に乗り込み、運転席の扉をパタンと閉めると助手席に目をやる。

思わず、ため息が出た。



なんの、ため息なんだか、

本当は知ってるくせに、この感情。



今まで目を背けてきた。

ずっと燻っていたのにそんなモノ存在しないかのようにずっと無視してきた。

でもあの子によってそれは少しづつ表に出てくるようになってあの子によって心臓を力づくでこじ開けられた。

長年溜めてきたものが一気に溢れてくる。

今の俺は溢れるそれを必死に掻き集めてまた閉じ込めようとしている。

いや、閉じ込めようとしていた、はずなのに。




ーーーーーーー




「好きです」


その言葉は確かに耳に届いた。

でも直ぐに飲み込めず、聞こえたのにも関わらず、え?と聞き返す。


「好きです、宗一郎そういちろうさんの事…好き…って言うのは…恋愛…感情…です」

助手席に座り、震える声を絞り出す。


信号待ちで停車中の車内はしんと静まり返った。

ハンドルを握りながら前を見ていた俺はチラリと助手席に目を向ける。

華奢な体に隙間を作りながら斜めに掛けたシートベルトに、顔を埋めるように隠していて表情を確認することが出来ない。

体を丸く縮こませ、耳が真っ赤になっている。

伸ばした襟足から覗くうなじまで赤くなり、それを見た俺は色っぽいと思ってしまった。


「…とりあえず、車をどっかに停めるからちょっと待って」

「…」


この告白はどれほどの勇気を必要とした事だろうか。

突然の告白に驚きながらも何処か感心している自分がいる。


「春樹くん、えっと…教えてくれてありがとう、君は若いし、まだ恋愛とか経験がないって言ってたけど、俺に対するその気持ちは何かの勘違いの可能性はないのかな?」

「ない、です、僕は昔から男の人の方が好きって…自覚してました、宗一郎さんに出会ってそれがはっきりしたんです」

春樹くんは目に涙を溜めて声を詰まらせながら言葉を紡ぎ出した。

俺は返事に困まり考え込んでいると春樹くんは涙を拭き、すみません、と謝った。

「困りますよね、こんなの、キモイですよね」

「そんな、君が勇気を出して伝えてくれた事はすごく嬉しいよ」

「宗一郎さんを見てると…ダメなんです、見てるだけじゃ、これ以上気持ちを抑えられなくて、」

彼は溢れる涙を拭いながら一生懸命自分の気持ちを口に出して伝える。


本当に、俺はなんて無知で無力で口下手な人間なんだろう、どう答えれば良いのか何一つ言葉が浮かばない。

スマートで大人な対応が何一つ出来ない。


「すみません、電車で帰ります、ごめんなさい」

春樹くんはシートベルトを外すとそそくさと車を出る。

待って、と声を掛けるが彼は足早に歩いて行ってしまった。




ーーーずっと違和感は感じていた。

女の子は嫌いじゃないはずなのにキスもセックスもモヤモヤとした言い表しようのない違和感を感じてた。

それを深掘りはせずこんなもんなんだと思うようにしていた。


でも本当は分かっていた、何がしたいのかどっちが好きなのか。

だけどそれを直視してはダメだと鍵を何重にも掛けてきた、のに、それを春樹くんに一発でこじ開けられてしまった。

本当は震える小さな体を抱きしめてやりたかった。

春樹くんは勇気を振り絞って告白してくれたのに俺にはそんな勇気ない。

だって、春樹くんの母親、春華はるかさんはどう思うだろう、女手一つで育ててきた大切な息子が自分より年上のおっさんが好きって知ったら、彼女はきっと深く傷付くに違いない。

世間もそうだし、友達にはなんて言う?俺の親は?兄弟は?


俺は春樹くんの事を歳の離れた可愛い弟だと思って見ていたんだ、それ以上でもそれ以下でもない、告白されて動揺しているだけ、こんなの直ぐに忘れられる。

溢れそうになる感情を必死に抑え、元あった場所、奥の方に奥の方に仕舞おうとして俺は自分自身を誤魔化し続けてた、のに、



“幸せになる権利がある、その権利を縛り付けないで”



杏奈さんの言葉が心を掻き乱す。

幼い頃から弟達の面倒を親と一緒に見てきた俺はいつも親の事を考えて行動していた。

これを言ったら困らせてしまう、これをしたらダメだと、いつも自分のしたい事を我慢して弟達を優先し自分の感情にブレーキを掛けてきた。


今は弟達は結婚して子供も産まれ、みんなそれぞれ家庭を持っている。

両親は次男夫婦と一緒に暮らしていて、平和な世界で元気に暮らしている。

今の俺は独り身で、面倒を見るべき存在も頼りにしてくれる人もいない、いや、頼ってくれる人、求めてくれる人は1人いるか。


俺も目の前にあるこの幸せに飛び込んでもいいのかな。


周りの人の事ばかりを気にして自分の気持ちを考えるのを忘れていたのかも。

やりたいように生きてみようと思って退隊したのにまた自身を縛り付けてたんだな。


正直、俺は、春樹くんの事が頭から離れない。

この感情は特別な物だと分かっている。


互いに大切な人を傷つける可能性はある、それでも俺は春樹くんの想いに応えたいし、一緒に居たい。


スマホを取り出し、時間を確認すると午後16時半を過ぎていた。

今夜は適当に宿を見つけて一泊してから帰ろうと思っていたが、何だかこのままだと眠れそうにない。


『今友達に会いに奈良に来てて、今からそっちに帰るんだけど会えないかな?12時過ぎちゃうと思うんだけど』

春樹くん宛にメッセージを送信すると直ぐに既読が付いた。


会ったらなんて言おう、取り敢えずお礼を言おう。

自分と向き合う事を、素直になる事を君が教えてくれたと。

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