7月5日について語る
7月5日――某予言が下された日。
午前8時の通学路。
俺、松下光は土曜授業のために、いつもは寝ているはずの時間にこの道を歩いていた。無論、眠いこと極まりない。
「お、光」
「翔太、おはよう」
道の途中でばったり会ったのはクラスメイトの矢上翔太。
「お前、すげえ眠そうだな……もしかして、今日2時間睡眠なんじゃないか?」
そう。俺が今倒れそうなほど眠いのは、今日がただ土曜日だからではない。某予言が示した時刻である、4時18分まで起きて、真相を確かめようとしたからだ。
「なんで分かったんだよお前」
「そりゃあ、俺も4時過ぎまで起きてたからに決まってるだろ。」
「お前もかよ」
あの時、災害を知らせる緊急速報をリアルタイムで流す配信が開かれていたが、その同接は20万人を超えていた。
ごく身近な人も同じ場所にいたことだって不思議ではないのだ。
深夜4時過ぎという過酷な時刻に20万人も集まれるほど反響を呼んだこの予言。だが実際、今日の午前4時18分には何事も起きなかった。
「Twitter? Xだっけ。それを見ているとさ、予言が当たらなかったことに対して『ざまあ』とか『ほらみろ』と言う風に予言者や信者を煽る呟きが多くされててさ」
あぁ、俺も見たよ。なんだか情けないなって思った。
予言なんて当たるはずがない。科学的根拠もない中で下されただけの、ただの予想に過ぎない。
誰かのtweetにこんな呟きがされていたのを思い出す。
「日本人の醜さが顕になったよな……。なんかベットしてる人もいたし」
翔太が言うこのベットとは文字通り、予言が的中するかしないかでギャンブルをしている人がいたということだ。
「それもあってかね、起きなかったことを咎めたり、仮初の平和が唱えられたり、なんか民度の低さを分からせられた気分になるよな」
誰も皆、空虚な平和を唱えるものである。それは、聞こえがいいからなだけで、中身は全くないからだ。
にしては、俺や翔太も含めてほとんどの日本人は、災害が起こらなかったことを期待外れだと思ったのではないだろうか。
誰かしら心の中では、何か、平凡な日常から脱するような変化を求めているのではないだろうか?
「確かに、光の言う通りだ。俺も、ほぼ明け方まで起きていたからなのかもしれないけれど、何も無かったことを少し残念に思う自分がいるような気がしてさ」
どれだけ予言を誹謗中傷する呟きをしている人でも、実際、深夜4時過ぎまで頑張って起き続けて真相を確かめようとしていたのだ。その心の内には、少しでもワクワク感があったに違いない。
「深夜4時に20万人だぜ。尋常じゃないほど大規模な騒ぎだよな」
そのような事を話していたら、あっという間に学校に着いた。2時間睡眠の代償である眠気は、友と会って話をすることによってほとんど消えていた。
実際、予言された午前4時18分という時刻は、予言者がその夢を見た時刻に過ぎないという。だから、今日、7月5日であるうちはまだ、災害が起きる可能性も十分あるということだ。
災害が起きるのは午後4時18分なのではないかという枝分かれした予想をつぶやいた者もいた。
これからまだ何か大きなことが起こるかもしれない。
油断はできない。
俺と翔太はそんな話をして、残された今日の時間を穏やかに過ごすことに決めた。
話題のトピックについて、書きたいように書きました。
感想などありましたらお待ちしております。