幽閉された令嬢は、辺境で恋を知る
切り取られた塔の窓から青い空が覗く。どこからか遠く鳥の謳う声がして、次いで響く獣の咆哮に背を震わせる。ズン……と地を揺らすのは投擲武器か、それとも倒された魔獣が地に切り伏せられる音だろうか。できればドラゴンの足音とか、そんなものでなければいいのだが。
明り取りのため壁面に対して比較的大きくとられた窓のガラス越しに見える空はどこまでも青い。外から聞こえる不穏な音さえなければ、いたく長閑で平和なのに。そう言えば、ここに来るまでの景色も、王都では見られない緑がいっぱいで、見たこともない花もたくさんで、なんだか随分癒されたような心地がする。外の兵士に頼んだら、あの花を切ってきてくれるだろうか。
いや、それは無理だろう。真っ白でガクのところが少し緑色で、くるりと丸まった花びらの香り高いあの花は、ここに着く一日前に通った道に咲いていた。つまり、あれを取るには一日か半日は馬を走らせねばならないのだ。そんな無駄なこと、忙しい辺境領の兵士たちにさせられはしない。
それに、私は罪人なのだ。そんなワガママなど通るはずがないではないか。
そんなことを考えながら、ソフィアはカップの紅茶を小さく口に含んだ。
ラルグレイス王国は緑豊かで平和な地だ。それでも国内には獰猛な野獣や魔獣が存在し街や農地を荒らすため、彼らを討伐するための騎士団もまた各地に存在する。
特に辺境領と呼ばれるこの地は魔獣が多く生息する赤の森に隣接し、日々襲い来る魔獣から国を守っているが故に、特に武勇に秀で勇猛な騎士団を抱えていることが特徴だ。
現在の辺境伯領主は国王陛下よりも年上の老騎士ではあるのだが、すらりと伸びた背もがっしりとした体つきも、並の武人よりもよほど逞しく、未だ魔獣討伐の最前線で騎士団の指揮を執っているという。壮年の頃魔獣と戦ってついたという傷のせいで隻眼となった風貌もまた、彼の武勇を物語るスパイスとなっていた。
また辺境は国境線を守る地であることもあり、魔獣との戦闘や野盗、或いは国境を越えようとする罪人への対処のため、王命によりある程度の自治が認められていた。なにせ王都から辺境までは通常の旅で三週間、早馬でも五日はかかるのだ。いちいち王都にお伺いを立てていては対応が後手に回ってしまう。そのことを憂慮した数代前の国王が当時の辺境伯とこのような取り決めを交わしたという。
そんな武骨な辺境の地は、平和に慣れ切った王都の人間にとっては野蛮な地でもあった。特に辺境騎士団は他の騎士団とは違い、平民の割合が多い。それは実戦の多い辺境では血筋などより兵士の質が求められるからだ。勇猛で、武勇に秀でていれば貴族でも平民でも変わりなく門戸を開く。それが辺境騎士団で、故に少々がさつで荒っぽい彼らを王都の貴族たちは鼻つまみにしていたし、王都に住まう一部の商家の人間ですら田舎者扱いしていた。
それが分かっているから辺境伯もその騎士団も王都に来ることは稀だった。そもそも、日々魔獣討伐や僅かな農地や産業の整備に忙しい辺境にはやることが山積みで、遥々王都くんだりまで物見遊山しにくる暇などない、というのが本音であったが。
だからソフィアは辺境の人間に会ったことはない。いや、正確には一度だけ、老辺境伯を見たことがある。あれは国王の在位何年だったかの祝の宴であったと記憶している。
昼に行われた茶会の席で、まだ小さいソフィアの頭を老翁は豪快に撫でてくれた。あの時、何か言われた気がするが、もうよくは思い出せない。でも確か、ソフィアさえよかったらいつでも辺境に来るといい、と言ってくれた気がする。もしかして、あの時の言葉を兄は覚えていたのだろうか。いや、まさか。そんな不確かなことを、あの兄がするはずがない。
窓の外では相変わらず、鳥の囀りと魔獣の咆哮が響いている。時折、男たちの雄たけびのような歓声のような唸り声とズン、という地響きも。そのたび、一緒に来た侍女が小さく肩を震わせているが、いい加減慣れてくれないだろうか。ソフィアは温くなった紅茶を一気に喉に流し込んだ。
この辺境にきて、一体幾日が過ぎただろう。国王陛下も王太子殿下も不在のままあんなことが起き、そのまま流れるようにソフィアと辺境伯との婚姻が決まった。そして間髪を容れず辺境へと移送されたソフィアの身柄は、慌てて出迎える辺境領の騎士たちによってこの塔へと運びこまれ、以来そのままソフィアは辺境伯に会うことも、婚姻式を行うこともなく、この塔に幽閉されている。
辺境城の東翼、その端に位置するこの場所は本来であれば城塞の防衛拠点のひとつ、物見塔の役割を果たしていた。その証拠に、ソフィアを乗せた馬車が止まったその場所は、明らかに城内の端、鬱蒼とした林の迫った場所に位置していたし、通された入口からチラリと見えた一階部分は剣や槍や馬具などが雑多におかれた武器庫に、二階は雑多に物が詰め込まれた物置になっていた。
この部屋だって、本来ならば兵士たちの休息場か作戦会議などをする詰所であったものだろう。石壁がむき出しで碌な装飾も施されていないどころか、床ですら木のタイルも大理石のタイルも張られていない武骨な部屋だ。そこに無理にかき集めたらしいラグを敷き、天蓋付きのベッドやら美しいソファやら猫足の文机やらを持ち込んでそれらしく形作っているが、どうにも無理やり感が拭えない。屋上は今もって兵士が物見の詰所として使っているらしく、日に何度か交代のためにバタバタと上がり降りする足音が聞こえてくる。窓の外は林が近いからだろうか。日も夜もなく野鳥の声に交じって、魔獣の咆哮らしい叫び声やそれを迎え撃つ兵士の歓声、それに獣たちが打倒される地響きが絶えず続いており、連れてきた侍女はすっかり参ってしまっている。
そろそろこの侍女を王都に帰した方がいいだろうか。
そう水を向けたら目に涙を浮かべて「お嬢様を置いては戻れません!」と訴えていたけれど、そう無理をしなくてもいいのに。土地に慣れることができなくて疲弊するより、心安らぐ場所に早めに帰った方がいい。
そもそも自分はここから出られないのだ。王都に戻るなど、あり得ないのだから。
ソフィアはフェルンハルト公爵家のひとり娘として生まれた。家族は両親の他に兄が一人。父は国の外交を司り、この国の王太子殿下と同い年の兄は、王太子殿下の側近候補として幼い頃から王太子の傍に侍っていた。
公爵家としては、既に跡取りである兄が王太子の友人兼側近、将来の宰相候補としての地位を確立し王家との縁も揺ぎ無かったし、外務大臣である父と良好な関係にある叔父のもと領地経営もうまく行っていて盤石な地位を築いていた。
ソフィアより八つ上の王太子には才媛と評判の美しき侯爵令嬢が王太子妃として侍っており、優秀な王太子とは美男美女のカップルとして有名で、次代の王家も安泰との噂だった。
だからソフィアにも無理をして王家と縁戚になることなど望まれてはいなかったのだが、残念なことにソフィアと丁度よく釣り合う高位令息が少なく、更に残念なことにソフィアより一つ年下のややボンクラと評される第二王子のラルゴが余っていた。
王家としても貴族間のパワーバランスからソフィアを第二王子に、などということは望んでおらず、もちろんはじめは伯爵位以上の他の貴族から丁度よい縁組を探していた。けれどあまりにも傍若無人で浅慮なラルゴに他の令嬢が軒並み逃げて行き、結局王家はフェルンハルト公爵家に諸々の優遇を約束することを代償にしてソフィアを彼の婚約者として内定したのだ。
だからソフィアとしては王子妃としてそれなりに努めてきたつもりであったけれど、そんな風に生真面目なソフィアをラルゴは気に入らなかったようだ。仲を深めるための茶会で茶葉の産地からその地域の特産品などの話に及べば、「そうやって無駄な知識をひけらかして小賢しい」などと罵られる。けれど茶会では時に客人の出身地や領地でとれる茶葉を使い、特産品を使った菓子やデザートを出してもてなすというのに、その知識がなければバカにされ、困ってしまうだろう。貴族の勤めとして孤児院や救護院を訪問すれば「偽善者め」と蔑まれた。
一方で年頃になるとラルゴは夜会で見初めたとかいう男爵令嬢のターニャに現を抜かし始め、どんなに周囲が諫めても聞く耳を持たなかった。そのうちに「仕方ないからソフィアと結婚はするが妻としては認めない。自分の子供はターニャに産んでもらう」などと二人だけの茶会の席で辺り憚らず言ってきた。
これがまだどこかの夜会やらガーデンパーティでないだけマシかもしれない、とソフィアは思いながら、
「お言葉にはお気をつけくださいませ」
と軽く諫めてみたが、
「そういういい子ぶったところが嫌なのだ」
と苦々しく一蹴された。いかに建前上は二人きりのお茶会と言ったって、側には侍女も侍従も控えている。少し離れているとはいえ、声の届く範囲には護衛騎士もいる。たとえボンクラの第二王子であろうとも、いやボンクラであるからこそ、近くには王家の影だって潜んでいるだろう。もしかしたら侍従や護衛騎士が影でないなど、どうしていえるだろう。
だというのに、こうもあけすけにこんなことを言ってしまうなんて……とソフィアは痛むこめかみを揉みながら、
「承知しました」
とだけ答えておいた。
そういったソフィアの態度の積み重ねが気に食わなかったのだろう。
とある夜会で、それは起こった。
それはある子爵家が開いた夜会だった。大きな商会を持ち、王家にも荷を下ろしていた子爵家は羽振りもよく、その伝手を使って自身と商会の箔づけのため夜会に第二王子の出席をもぎ取った。
というのは建前で、今にして思えばソフィアを嵌めるため、この子爵とラルゴはグルだったのだろう。
その夜会で何かに躓いて転びかけたソフィアは、手にしたワインをターニャにひっかけてしまう。まるで歌劇のような叫び声を上げたターニャに会場の視線は集中し、そこからは何の演劇を見させられているのかと思うようなクサイ芝居でラルゴのソフィア断罪劇が始まった。
曰く、ソフィアは氷のような冷徹で冷たい女である。王妃主催の茶会ではターニャの母の形見である髪飾りをそんなものと蔑み、外してくるよう厳命したり、挨拶をしても無視するありさま。孤児院ではドレスに触れた幼い孤児を振り払うなど極悪非道。こんな女は王子妃として相応しくないばかりか、高位貴族としてもあまりにも目に余る、とかなんとか。
なるほど。見方が変わればこうも言えるのかと、それを聞いたソフィアは感心した。
件の王妃の茶会は「春の茶会」として身に着けるものは「春」をモチーフにしたもの、とドレスコードが決まっていた。王国においては「春」のモチーフであれば春の花や小鳥、色で言うなら黄色や若草色、淡いピンクなどがそれにあたる。その日ターニャが身に着けていたのは真っ赤な花の髪飾りだった。その花は夏を象徴する花で、色もまた夏、もしくは冬をイメージするものだったので、その日の装いに相応しいとは言い難い。
それがたとえ母の形見だろうが、王家からの下賜品だろうが、王妃様のドレスコードの方が格は上で、そこから外れてどうしても身に着けるなら、他の物をドレスコードに合わせなるべく目立たないよう、そしてドレスコードに合う理由もつけて身に纏わねばならない。
にもかかわらず、ターニャはそれをまるで無視した。その日の彼女の装いに「春」は一つも入っていなかったのである。みんなが眉を顰める中、さすがに王妃に注意されるよりはとソフィアはやんわりと注意を促し、着替えを勧め、なんならラルゴ様に相談なさいとアドバイスしのだが、ターニャはまるで聞く耳も持たず「酷い! 私がラルゴ様と仲がいいから嫉妬しているんでしょう! あんまりです!」を繰り返した。この人、ラルゴとあまりにも似た者同士で疲れないのかしら? とその時ソフィアは思ったものである。
挨拶の件も似たり寄ったりだ。ある夜会で公爵家の用意した主催者の商会から仕入れた控えめながら素晴らしい織りのドレスを身につけていれば、すれ違いざま、ターニャにニヤニヤと「地味な装いで、地味なソフィア様にぴったりね」などと当て擦られた。もちろんソフィアに聞こえるように言っているのは分かるが、それに反応を返すのは得策ではない。だから無視した。当たり前だ。それに、あれは挨拶とは言わないだろう。そもそも、ターニャはソフィアより下位の貴族なのだ。こちらから声をかける前に向こうから手前勝手に話しかけられることは不敬であり、もはや挨拶ではないことを分かっているのだろうか。
孤児院での出来事もそうだった。前を見ず走ってきた孤児がソフィアにぶつかった。正確にはソフィアのドレスの下半分に。今の王国での流行りはドレスの下に幾重にもパニエを重ねスカートをふんわりと広げてボリュームを持たせることである。ついでに言えば、スカートが綺麗に広がるように表地の下には柔らかな芯材も入っていて、着ている本人など一番外側の布地に触れることがないほどだ。だから小さな子供がぶつかったくらいでは何ともない。なんならぽよんと跳ね返るのは子供の方で、ぶつかられたソフィアは痛くも痒くもなかった。
けれど、そうやってぶつかった勢いのまま跳ね返って尻餅をつく姿を「振り払った」などと言われてしまっては仕方がない。幾ら「そうではない」と主張したところで、見ていなかった人間にはどちらが正しいかなど判断などつかないのだ。寧ろ「やってない」と喚けば喚くほど立場が悪くなるのは目に見えていた。
だからソフィアはひとまず第二王子の糾弾を受け入れた。
下手に動くのは悪手である。ここは一旦引いて、兄か王太子妃殿下にでも相談すればよい。そう鷹揚な気持ちで頭を垂れていれば、ラルゴから手際よくあることないこと書かれた罪状を突き付けられ、速やかに貴族牢へと収監された。
これは予想外だった。
運の悪いことに、というよりボンクラでありながら変なところは悪知恵の回るラルゴのことだから初めからそれを狙っていたと思って間違いはないのだが、この時国王と王妃は近隣国の在位五十年を祝う式典に出席するためソフィアの父であるフェルンハルト公爵を伴って外遊中、国王代理を任されていた王太子殿下は王都と各地を結ぶ街道の要所である橋が流されるという事件が発生したため、王都から一週間ほどかかる伯爵領まで出張中だった。
こうしてラルゴはまんまと国王代理として、自分とソフィアの婚約を破棄する書類に玉璽を押すとソフィアを修道院へと幽閉しようとしたが、そこはソフィアの理解者である王太子妃やその生家が尽力してくれたのであろう。
「貴様は辺境伯との婚姻させることにしてやった、賢しい貴様など野蛮な辺境がお似合いだ」
などとにやつく顔で恩着せがましく王命の婚姻成立届を掲げてきたのは、ソフィアが貴族牢に入ってからたったの二日後のことだった。
余りにも手際がよい。
ブレーン共々しっかりと炙り出して貰わねばと、ソフィアは戸口を警護する、王国の影でもある護衛騎士としっかりと頷き合った。
そしてその日の内にソフィアは辺境へと送られた。
一言でいえば嵌められた。知らぬ間に、第二王子の派閥に知恵者が入り込んでいたのだろうか。
本音で言えばラルゴとの婚姻が無くなったことは快哉で、あんなボンクラ、ターニャが貰ってくれるなら熨斗をつけて差し上げるところだが。そうは言っても王国とその政の面から見たら、ボンクラと男爵令嬢、それに第二王子派閥を放置するわけにもいくまい。
とはいえ、王都には既に王太子である第一王子と共に自分の兄も戻っているし、王太子妃もついているのだからその辺りは心配ないだろう。
あとは自分の処遇であるが、辺境伯と自分の婚姻はなされてしまった。とはいえ、塔に幽閉されている現状では白い結婚は間違いない。では三年ほどしたら離縁できるだろうか。いや、そもそもここは王国法の届かぬ地。些細な誤解からソフィアの冤罪が晴れず、もしかしたらこのまま一生、ここから出ることは叶わないのだろうか。
ソフィアはもう一度室内をゆっくりと見回す。連れてきた侍女は、連日の疲れからか部屋の隅の小さな椅子で船を漕いでいる。それを確認して、ソフィアは窓辺に近寄ると、背伸びをして窓を小さく開けた。
窓はソフィアの胸の高さから上にある。それを開けるための取っ手を掴むにはソフィアはつま先立ちにならなくてはならなかった。どうにか苦労して開けたそこから、柔らかな風が入り込む。
どこからか花の匂いがする。この辺境の首都に着く直前に見かけた、あの白い花だろうか。
そういえば、あの花を昔王都で見たことがある気がする。あれはいつだろう。確かあの老辺境翁に会った、あの茶会のときではなかったか。あのとき茶会が開かれていた庭にあったあの花の鉢植えにすごくきれいだと目を奪われ、これが欲しいと隣にいた父公爵に強請ったのだ。父は「これは王妃様のものだからダメだよ」と眉を下げた。それにむくれて、
「やだやだ。このお花がいいんだもん」
なんてぶるぶると顔を振っていたら、あの花の鉢を抱えた男の子が、
「だったら今度僕が持ってきてあげる。僕の家の近くに、一年中たくさん咲いてるんだ」
と艶やかな黒髪をサラリと揺らして、にっこり笑ってくれたっけ。
実に子供らしいエピソードではあるものの、今思えばなんて不躾な子供だったろうと恥ずかしくなる。ただ、あの時の令息の笑顔は、なんだかとても眩しかった。
「約束よ?」
という私に指を絡ませ、
「絶対に」
と柔らかくほほ笑む姿は兄ともまた違っていて、なぜだか胸の奥がふわりと温かくなったのだ。
けれども、あの後すぐにソフィアは王子妃に内定し、不本意ながら第二王子や兄、それに王太子殿下以外の他の令息と交流することはなくなったため、あの令息ともそれきりとなった。そしてあの約束も、結局果たされないままだ。
そもそも、あの令息は一体どこの誰だったのか。あの後しばらくは王宮で茶会が開かれるたびあの面影を探してみたが、結局見つけることはできなかった。
あんな一瞬の、幼子を宥めるためのその場しのぎの戯れだ。相手にしたって、覚えているわけはないだろう。ソフィアだってここに来るまですっかり忘れていた。
ふう、と小さく息を落とす。随分と感傷的になってしまったらしい。
これからのことなど、なるようにしかならない。随分と手際よくやられてしまったとはいえ、あのボンクラ王子だ。王太子殿下や国王陛下が戻られたら、ソフィアの名誉はすぐにでも回復するだろう。
けれど一度こんな風になって、またのこのこと社交界に出て行くのは億劫だった。例え白い結婚が貫かれたとして、それでも一度結婚した身としては改めて年の釣り合う相手と結ばれる保証はない。むしろ次だって同じほどの年上か、訳アリか、商家の後妻という可能性もある。
だったら辺境伯には申し訳ないけれど、できたらこのまま白い結婚を継続し、どこか領地の一角を借りて細々と暮らさせては貰えないだろうか。そうやって頼んでみるのもいいかもしれない。
見上げた空に、大きな鳥が高く弧を描いていた。
昼夜を問わぬ魔物の掃討戦も遂に決するときが来たようだ。最近では地響きは減ったものの昼間はトンカンとやたらと木づちの音が響き、ゴロゴロと荷馬車が行きかい賑やかだったけれどそれも一昨日辺りからパタリと止んだ。
寝不足ですっかりと消耗した侍女が青い顔をしながら窓の下を眺め、「終わったのかしら?」と首を傾げている。
ソフィアがこの地に来てから、実はまだふた月しか経っていない。あんまりに暇すぎてもう半年か一年くらい経ったかと思っていたが、何にもしないでいると、意外と時の経つのは遅いらしい。
ソフィアは相変わらず、窓辺に置いたソファに凭れ紅茶を飲んでいた。王都では、未来の王子妃としての教育を受けたり第二王子の執務を手伝ったり、或いは派閥の茶会に出て社交をしたりしていたが、この部屋ではすることがない。
最初は「日がな一日やることがないなんて、なんて最高なのかしら!」と歓喜に震えてみたものの、それが続けば飽きてくる。一週間も経たぬうちすっかり飽き飽きとしたソフィアは暇に任せて刺繍をしてみたり、昔王子妃教育の中で覚えた美容体操をしてみたりとのんびりと過ごしていたけれど、それにしたって飽きてくる。なにせ、ぐるりと歩けば五十歩とかからない狭い部屋がソフィアの世界のすべてなのだ。
今度、本を差し入れてもらえるようにお兄様に頼んでみようかしら?
カップを傾けながら、そもそも手紙は出してもいいのかしら? と首を傾げていたソフィアの耳に、
「ひっ、お、お嬢様、お嬢様!」
窓辺から外を覗きこんでいた侍女の叫び声が飛び込んできた。
「なあに?」
いやあねぇ、とおっとり首を傾げるソフィアに、侍女はあわあわと言葉にならない様子で外とソフィアを見比べ大きく目を見開いている。
「だから、どうしたの?」
と言い終わるより早く、扉の向こうから慌ただしい気配が近づいてくる。それは石の回廊をガンガンと数段飛ばしにしながら駆け上がって来る軍靴の足音。少し遅れて誰かの名前を呼びながら追いかけてくる数名の足音まで響いてくる。
これはソフィアの処遇でも決まったのだろうか。父や兄や王太子夫妻がついていてまさかそんなことが起こるとは思えないけれど、その、まさかだろうか。
ああ、神様。今まで一度も祈ったことはないし、どこにいるかもわからないけれど。お願いします。どうか死ぬのなら、王都ではなくこの辺境の高い空の下で。できたら、本当にできたらでいいのだけれど、あの白い花を一輪手向けてもらえたりすると嬉しいです。
ソフィアは胸の前で小さく手を組み目を閉じる。その間にも扉の外の足音は刻一刻と近づいてくる。ソフィアは息をひとつ吸い込んで目を開けると、ゆっくりと立ち上がり、扉に向かって背を伸ばした。
ノブを回すのももどかしく、蹴破るように鉄枠の嵌まった木製の扉が開かれる。ハアハアと息を弾ませる男の前で、ソフィアは凛として美しく頭を下げた。入ってきた男は少しきまり悪げに小さく咳ばらいをすると、コツコツと踵を鳴らしてソフィアに近づいてくる。駆け上がって来るなんて随分と不作法な使者だけれど、それでも第二王子の使者となれば仕方がない。ソフィアはあくまでも公爵令嬢という矜持だけでキッチリと頭を下げていた。
カーテシーのまま頭を下げた視界の中、ラグに織られた小花を数えるソフィアの前に真っ白な花が差し出される。ついで目の前まで歩み寄った男が音もなくその場に跪いた。
びっくりして視線を上げれば、サラリとした黒髪を短く刈り込んだ男が花束を掲げながら床につくほど低く頭を下げている。いったい何事かとぱちぱちと目を瞬くソフィアに男は白い花束を更にずい、と差し出すと、
「申し訳ございません!」
ゴッ……と石畳の床に鈍い音をさせながら窓を震わす音量で特大の謝罪を告げたのだった。
そのままの姿勢で微動だにしない男を前に、いち早く我に返ったのはソフィアだった。連れの侍女はまだ窓辺で呆けている。こういったところは王子妃教育の賜物かもしれない。頭の片隅でそんなことを思いながら、ソフィアは気を取り直すように息を吸い込む。
「えぇと、何の謝罪でいらっしゃいますでしょうか?」
ソフィアは困惑を表に出さぬよう、背を伸ばしたまま問いかける。男は頭を上げぬままその大きな体を折りたたむようにして礼をとる。
「先ずはソフィア嬢にご説明もないまま、このような不遇を強いてしまいましたこと、伏してお詫び申し上げます」
「それはその、状況が状況でしたし。ラルゴ様にしては手際よくやられていましたから。寧ろこのような面倒な身を受け入れてくださり、わたくしとしては感謝しておりますわ」
小さくほほ笑むソフィアに跪く男は僅かに息をつき、再度首を垂れる。
「ですがフェルンハルト小公爵の命とは言え、ソフィア様にも侍女君にも何も知らせず随分と心細い思いをさせてしまいましたこと、重ねて深くお詫び申し上げたい」
深く俯く黒髪を前に、ソフィアは困惑を浮かべ頬に指を添える。
「何も知らせず、とは?」
「辺境伯の花嫁としてお迎えしたにもかかわらず、ふた月もの間このような部屋にまるで幽閉するかのように閉じ込めたことについて、です」
誠心誠意頭を下げるその姿に、ソフィアはふむ、と胸の内で小さく頷く。
「その、婚姻というのは表向きでほとぼりが冷めるまで蟄居幽閉であったのでは?」
「それでも、このような狭い部屋に軟禁するなどあり得ません」
きっぱりと言い切る男に、ソフィアはなるほどと頷いてみる。あまりに手際よく貴族牢に入れられたり辺境に移送されたりしたものだから、すっかりと騙されていたけれど、確かに王都から遠く離れ、王国法も届かないこの場所で蟄居するのであれば、令嬢一人に充分な大きさの屋敷に住まわせればいいだけで、こんな狭い部屋に閉じ込める必要はない。そんなことに考えが至らぬなど、存外自分も参っていたのかもしれないと思い直す。
「言い訳になりますが、先ずは我が領の状況からお話しさせていただいても?」
もちろん、と頷くソフィアを男はソファに座らせると、その前に跪いたまましっかりと見上げてきた。真摯に輝く琥珀の双眸に、どこか懐かしさが過る。
「話せば長くなりますが……そうですね。辺境では翼竜の巣作りは冬の終わりの風物詩です」
予想を越える切り口に、ソフィアばかりでなく後ろに控えた侍女までもが目をぱちくりと瞬いた。
「ご存じかもしれませんが、翼竜は比較的おとなしい獣です。冬の終わりに巣をかけて卵を産んで子を孵し、巣立ったら親子共々南の地へ飛び去ります。翼竜の子育ては辺境の風物詩ですから、普通は特に問題は起こらないのですが……ソフィア嬢は翼竜がどのくらいの大きさかご存じですか?」
「さあ、鷲くらい、でしょうか?」
ソフィアは頭の中に王子妃教育で習った教科書を広げていくが、生憎翼竜の項目は見つからなかった。
「いいえ。正解は牡牛ほどの大きさです」
「随分と、大きいのですわね」
「はい。まあそんなですから、巣を掛ける場所もある程度人里離れた場所に決まっているのですが、今年はどうも。辺境城の主楼を狙われまして」
「まあ」
「主楼は城の主翼にあります。城主の執務室も個室も客室もすべてそこに。……ところで翼竜というのはおとなしい個体ですが、この巣作りの縄張り争いの時だけはとても獰猛になるのです。つまり――」
「主楼を狙って争われましたの?」
「そうです。それで城の主楼やら主翼の大半の部分が大分痛んではいたのですが、それに加えて三か月前に大地震が起きまして。これに耐えきれず、城の主翼は半壊してしまったのです」
恥ずかし気に眉を寄せる男に、ソフィアは目を丸くする。
「まあ、お気の毒ですわ。けれどこちらは普段地震なんて起きる地域でしたかしら?」
再度頭の中に王国の地理誌の教科書を引っ張り出すソフィアに、男は小さく頭を振った。
「いえ、こちらでは滅多に地震はありません。そこで調べたところによると、五百年に一度の大ムカデが目覚める前兆だと分かりました」
淡々と語られるその単語の恐ろしさに、後ろの侍女がヒッと声を呑む。
「たとえこのまま城を復興しても、大ムカデがいる限り第二、第三の大地震が起きて被害は拡大する。ならば城の修繕は後回しにして先に魔獣を退治することにしたわけです」
「賢明なご判断ですわ」
こっくり頷くソフィアに男も満足気に口角を上げた。
「ですがそこに、王太子妃のマルゴ様からソフィア嬢を預けたい旨の早馬が届きました。以前からソフィア嬢に婚姻の申し込みはしておりましたが、ラルゴ殿の婚約者ということで断りは受けておりましたけれど、あの王子のことですから。万が一の時はと王家や公爵家とは密かに話を付けておりました。しかし折悪しく城は半壊、領主は魔獣討伐で不在の状況ではソフィア嬢を十分にお迎えすることはできないと、一度は猶予をいただこうとしたのです。けれどマルゴ様から、第二王子は国王と王太子不在の間にことを決するはずで、後手に回ってはソフィア嬢を失いかねないとお叱りを受けまして。魔獣討伐など万が一のこともある、もし形だけとはいえ顔も知らぬ夫でも失うことになればソフィアも悲しむだろう。辺境の状況など知らせる必要はないのだから、いっそ蟄居していると思わせて密かに匿ってくれと小公爵様からも説得されました。それも一理あるかと思いつつ、万が一などさせないと、なんとしても絶対に帰還してソフィア嬢にご結婚の挨拶をと奮闘しておりましたが、これがどうしてムカデ相手になかなかに手こずりまして。その一方でソフィア嬢にも侍女君にも何も知らせず、その上城も壊れ安全にお過ごしいただける場所がこのような場所しかなかったために、ふた月もの間ご不便を強いてしまい、誠に申し訳ありません」
再度深々と頭を下げる男に、ソフィアは慌てて姿勢を正す。
「いえ、とんでもないことでございます! そのような大事でありましたのに、わたくしなどを受け入れてくださって、辺境の皆様には感謝しかございませんわ」
ソフィアの言葉に男は琥珀の瞳を緩めると「改めて」と花束を差し出す。
「漸く二日前に魔獣を退治し、城の修繕も完了しました。大工たちが昼夜問わず頑張ってくれたお陰で、これからはちょっと翼竜や大ムカデが暴れたところで壊れることはないそうですよ」
からりと笑う姿に、この二か月窓の外から響いていた音の正体を知りソフィアは胸の中で小さく目を閉じる。チラリと視線を走らせれば、後ろに控えた侍女も己の隈を擦りながらなるほどと小さく息をついていた。そんな胸の内は貴族令嬢のほほ笑みにしまい込み、ソフィアはゆったりと目の前の男に視線を合わせる。男もまた真摯にソフィアを見上げてくる。
「あなたをお守りするためとはいえ、このように不遇を強いたうえ、順番が逆になって申し訳ありません。ですがどうか私に、あなたに婚姻を申し込む許しをお与えくださいませんか?」
そう言って浮かべたとろけるような甘い笑みにソフィアは胸の奥をとくりと鳴らしつつ、困ったように眉を下げる。
「そう……申されましても。わたくし、まだあなたのご紹介を受けておりませんわ」
「失礼。申し遅れました。私はアリスティード・フォン・ハウルレーセン、この辺境の領主を務めております」
「領主、さま……」
「はい。辺境伯、と呼ぶものもおりますね」
「へんきょうはく……」
鸚鵡返しで呆けるソフィアを優し気な光の中にいたずらなほほ笑みを混ぜてじっと見上げる琥珀のは、そういえば昔見た隻眼の老将にどことなく似ている気がする。
「あの、失礼ですが辺境伯さまは隻眼のおじい様ではございませんでしたでしょうか?」
「ええ。それは私の祖父、先代辺境伯ですね。五か月前、祖父が亡くなり私が辺境伯の位を継ぎました。ですから間違いなく、あなたの夫は私です。既に第二王子によって婚姻は結ばれておりますが、改めてあなた様から結婚の許しをいただきたい。どうか私と結婚してくださいますか?」
深々と頭を下げるその男の、ツンツンとした髪の毛から覗く旋毛を眺めながらソフィアはぱちぱちと目を瞬く。話の流れからもしかしてとは思っていたが、まさかこの方が辺境伯だったなんて。いいえ、それよりも、もっと何か重要な言葉を見落としている気がするわ。
ソフィアはぐるりと記憶を漁りながら、何気なく差し出される花に目を留める。
それは、あの花だった。真っ白でガクのところが少し緑色で、花びらの端の方はくるりと丸まった香り高い花。この辺境に入ってから、何度となく見かけたそれ。この塔に入る前日も、群生している野原を見かけた。そして、そう。あの辺境伯の老翁にお会いした王妃様の大茶会でも見かけた、あの花。
『だったら今度僕が持ってきてあげる。僕の家の近くに、一年中たくさん咲いてるんだ』
鉢植えをもってにっこりと笑った、黒髪に琥珀色の瞳の彼は確かにそう言った。僕の家の近くにたくさん咲いている、と。
ああ、そうだ。その言葉にすっかり気をよくしたソフィアは、茶会の間じゅうこの少年の傍にへばりついていた。そうして茶会がお開きになった別れ際、彼は悪戯にほほ笑んでこう言ったのだ。
「いつか、このお花をもって迎えにいくから、その時は僕のお嫁さんになってくれる?」
と。
そんなこと、すっかり忘れていた。直後、隻眼の老翁が「ませた子だ」と笑いながら孫を小突き、その一方でソフィアの頭をガシガシと撫でながら、
「お嬢さんならいつでも歓迎だ」
と笑っていたっけ。幼子にとってはちょっとませたロマンスよりも、煌びやかな王宮に行くために美しく整えた髪がすっかりくしゃくしゃになってしまった苛立ちで、その時のことなどすっぽりと記憶から抜け落ちていた。
ハッとして顔を上げるソフィアにアリスティードはまるで悪戯が成功した子供のようににこりとほほ笑む。その顔は確かにあの時の茶会の少年そのままで。
ああこの方は、一体何年あの約束を覚えていて、どれだけの間わたくしを求めてくださったのだろう。
そう思うとジワジワと叫び出したいような喜びが全身を駆け巡っていく。
昔、母に聞いた。恋に落ちたと、どうしたら分かるのかと。母はおっとりと優雅に微笑むと、
「恋をしたら心が温かくなってふわふわして、まるで踊り出しそうな気持ちになるの。あなたもきっとその時が来たらわかるわ」
と片目を閉じてみせたっけ。あの時はなんだかよく分からなかったけれど、今なら分かる。まさかたったの一瞬でこんなことになるなんて、夢にも思わなかったけれど。
夢見心地のまま立ち上がるソフィアの手を引いて、男もまたゆっくりと立ち上がる。小さくほほ笑む琥珀の中にとろりと呆ける自身が映る。
ああ、こんな顔、礼儀作法の先生に叱られてしまうかしら?
そんな考えが頭の片隅を過ったけれど、もういいじゃないか。ここは王国法も届かぬ辺境なのだ。騎士たちは貴族も平民もなく実力主義だという。だったらわたくしも、多少不作法でも、心のままに振る舞う方がいい。そうでなければ、この踊りだしそうな気持ちなど、どうやって目の前のこの人に伝えられよう。
「私でよければ喜んで」
王子妃教育などかなぐり捨てて、ソフィアは湧き上がる心のまま溢れるような笑みを零し、白い花束ごと愛しい旦那様を抱きしめた。