第5話 家族について
神道寺と山に入ってから、数日が経った。
期待していた高単価の仕事は、まだ舞い込んでこない。私は普段通りネフェルの雑務をこなしていた。まるで舞台袖で出番を待つ代役のような気分だった。
ある日の仕事終わり、スマートフォンの通知を確認すると、珍しく母からのメッセージが入っていた。内容は、祖父が危篤だというものだ。
胸の奥が冷たくなる感覚と同時に、奇妙な躊躇いが生まれた。なぜだろう、すぐに駆けつけるべきなのに、心のどこかで足がすくんでいた。
父は口が達者だが中身がなく、会話は常に独演会。母は信心深いというより、度が過ぎたな宗教家で、もはや次元が違う。
決して悪人ではない。でも、身内だからこそ腹が立つし、長時間一緒にいると心が荒れてくる。
それでも、祖父のこととなれば話は別だった。私は仕事の段取りを済ませて、車を走らせた。
実家までは高速で20分、一般道なら30分。懐かしさと苦味が混じった風景を抜け、到着すると、既に姉と弟がいた。
姉は看護師。仕事柄か、祖父の容態にも冷静に対応していた。
一方、大学生の弟はスマホでゲームに熱中しながらも、どこか現実から目を背けているようだった。
祖父は病院にいた。私たちは三人で祖父のもとへ向かう。
病室のドアを開けると、祖父は目を開けた。
「じいちゃん」
弟がそう呼びかけると、祖父はゆっくり右手を上げ、私たちの手を握った。
しばらく四人で静かな時間を過ごした。
姉はもうすぐ出産を控え、来月から産休に入るらしい。
弟は美大に通っていて、中学校の美術教師を目指しているという。
「じいちゃん、俺、美術の先生になるよ」
弟が自然にそう語った時、私は不思議と「こいつならなれるな」と思った。
弟は元々、不登校気味で通信制高校を卒業した。でも、地元の公立美大に合格し、今では普通に通学している。
何より、地頭が良い。彼には“目的に向かう”強さがある。
…それに比べ、私は。
ボーナスもなく、肩書きも不安定なまま二年が経ち、今はネフェルで“何でも屋”をしている。
誰も責めてはいない。でも、自分の中に沈殿した焦燥感だけは、どうしようもなかった。
私は先に病室を出て、地元の用事をいくつか片づけ、実家に戻った。
その晩、不思議なことが起きた。
天井から「バキッ」と家鳴りがしたのだ。姉は、「ご先祖さまが来たのかもね」と笑ったが、私は笑えなかった。
さらにその夜、理由もないのに身体が震えた。
寒くもない。風邪でもない。ストレスか、あるいは…霊的な何かか。
現実的に考えれば、自律神経の乱れか食中りのせいだろう。けれど、その時の私は、何か“大きな流れ”に背中を押されたように感じていた。
翌日、祖母も祖父の元を訪れた。
認知症の進んだ祖母は、もはや家族の顔もあまり覚えていない。
だが、祖父に触れた時だけは違った。手を握り、額に口づけをするその姿は、誰が見ても「愛」だった。
看護師が「素敵ですね」なんて言っていたが、私にはどこかホラーにしか見えなかった。
その夜、祖父は亡くなった。
最後の瞬間、祖母と私がそばにいた。
死戦期呼吸を繰り返していた祖父の目が、ふいに、私と祖母を見つめ、そして光を失った。
医師が「ご臨終です」と告げると、祖母は泣き崩れた。
遅れてきた親族たちの中に、珍しく涙を流している父の姿があった。
あの父が泣いていたことが、妙に記憶に残った。
⸻
祖父の亡骸は、病院から自宅へと戻された。
葬儀の準備が進む中、私は一人、車に乗って後を追った。
その道中、不意に涙がこぼれた。
「じいちゃん、一緒に帰ろうな」
誰に聞かせるでもなく、車内で独り言のように呟いた。
葬儀の準備は忙しく、慣れない段取りに追われ、正直なところ、悲しみに浸る余裕すらなかった。
けれど、それで良かったのかもしれない。
葬儀当日、喪主を務めた父は、拙いながらも懸命に言葉を選び、式を進めていった。
親族の多くも手伝ってくれた。参列者は想像以上に多く、祖父が地域で慕われていたことが改めてわかった。
式の費用はおおよそ二五〇万円。だが、祖父の保険金と香典でおおむね賄えたようだった。
火葬場で祖父の身体が骨になり、箸で拾い上げたその時、ようやく「ああ、終わったんだ」と実感が湧いた。
一息ついたと思ったのも束の間、数日後、今度は祖母が体調を崩した。
少し歩いただけで息が上がり、すぐに病院に搬送された。
診断結果は、心臓の衰弱。即、入院。
家族が一人また一人と弱っていく。
私は、不意に「時間がない」と思った。
このままでは、ただ労働に追われているうちに、大切な人たちとの時間も、自分の人生も、擦り切れて終わってしまうのではないか。
だが現実は、私に“焦る自由”すら与えてはくれなかった。
非正規の人足である私には、忌引きという制度すら存在しない。
働かなければ、ただでさえ低い月収がさらに減る。
これが正社員なら、有休や忌引きで休んでも給料は保障される。
それどころか、ボーナスも退職金も、社会保障もついてくる。
日々の生活の不安だけでなく、老後の暮らしまで考えるなら、今のままではどうにもならない。
だから、だからこそ、神道寺から新しい仕事の連絡が来た時、私はほとんど条件も聞かずに飛びついたのだ。
指定された時刻にネフェルの事務所へ向かうと、神道寺がすでに立っていた。
「おう、来たか」
「はい。…ところで、今日の仕事って?」
私は指定通りスーツを着てきたが、このスーツも、もはや限界を迎えていた。
フラップ部分が白く擦れていて、それをポケットの中に押し込んで誤魔化していた。
それを見た神道寺が小さく鼻で笑った。
「そんな背広しか持ってないのか? …そりゃ、面接も通らんわな」
「ま、確かに」
自分でも苦笑するしかない。大学入学の時、父に買ってもらったスーツを、かれこれ十年以上使い倒している。
「ま、いい。今日の仕事は警備だ。ちょっと特殊な案件だけどな」
「特殊って……?」
警備対象は、芸能人だった。
いや、正確には、芸能人を“囲う”金持ちたちの、怪しげな乱交パーティーだった。
ラブホテルの一室で行われる秘密の宴。その見張り役というのが、今回の私の仕事だった。
「なんとか罪になる」とか「マスコミ対策」とか、断片的な説明ばかりだったが、妙に精緻な段取りが組まれていて、こちらが想像している以上に“本気”の現場だった。
その日は何事もなく終わり、神道寺から三万円を受け取って、帰路についた。
翌日、神道寺と倉庫整理をしていると、警備の仕事について話が出た。
「昨日は助かった。また人手が足りなくなったら頼むわ」
「はい、俺でよければ、なんでもやります」
この頃には、私は既に半分、腹を括っていた。
正社員じゃなくても、やるべき仕事があるならやる。
もはや、職種や肩書きにこだわっていられる余裕などなかった。
「そうか。じゃあ、近いうちにイチムラさんに会わせる。ちゃんとした格好して来いよ」
「わかりました」
そう言われて、私は少しだけ背筋を伸ばす。
これが何を意味するのか、その時の私はまだ分かっていなかった。
翌日、午前中はアベ社長の事務所で雑務を手伝った。
人材派遣業からの撤退作業で、備品の整理や書類の処分など、実務は地味だが、妙に感慨深いものがあった。
アベ社長は手元の書類を確認しながら、「これで一区切りだな」とぽつりと呟いた。
彼の背中には、少しだけ疲労と諦念が混じっていた。
かつて社宅で鍋を囲んだあの人懐っこい笑顔が、ここ最近はどこか影を帯びているように見える。
「これで、終わりですか」
私がそう声をかけると、アベ社長は微笑を浮かべた。
「そうだな。あとは、自分の生活を立て直さないと」
「引っ越すって言ってましたけど、もう場所は決まったんですか?」
「いや、まだ。けど、あそこにはもう住めないからな」
郵便物を荒らされ、尾行され、名誉も財産も毀損されかけたその家には、確かに戻るべきではないのだろう。
「ところで、ネフェルの仕事、どうだ?」
そう話を振られて、私は少し考えたあと、正直に答えた。
「刺激はありますね。自分が今までやってこなかったことばかりで」
「神道寺にくっついてりゃ、大抵の現場は見られるさ」
社長はそう言って、空になったコーヒー缶を指でコツコツ叩いた。
「神道寺さんと長いんですね」
「まあね。昔いろいろあってね」
“いろいろあって”という言い回しが妙に生々しかった。
どういう意味かを掘り下げるのはやめた。
これまでの経験上、知らない方がいいこともある。
午後、ワークマンで新しいポロシャツとスラックスを買った。
ワゴンの中から比較的無難な色と形を選んで、すぐに裾上げをしてもらった。
これで少しは「社会性のある人間」に見えるだろうか。
夕方、再びネフェルの事務所前。
神道寺が私の姿を見つけて、軽く顎をしゃくった。
「時間通りだな」
「そっちこそ。早いですね」
「俺はいつも早い」
神道寺はそう言って、煙草を取り出しかけて、やめた。
「イチムラさんが中にいる。入って挨拶してこい」
「神道寺さんは?」
「俺は外で待つ。おまえに話があるらしい」
私は頷いて、深呼吸してから事務所のドアをノックした。
返事があったので、「失礼します」と声をかけて中に入る。
そこには、一人の男がソファに座っていた。
茶髪で中性的な顔立ちの、どこか浮世離れした雰囲気の男だった。
「初めまして、市村真です」
「初めまして、黒川航次です」
握手の手は意外に硬く、指先に軽い圧を感じた。
力ではなく、重心の通った触れ方だった。
「神道寺から話は聞いてるよ。いろんな仕事、助かってる」
イチムラの声には、妙なリズムがあった。
表情は柔らかいが、何を考えているのか読みにくい。
一瞬で相手の思考を読み取り、同時に自分の手の内は一切見せないタイプの人間だと察した。
「ところで、黒川君、パスポートはある?」
「いえ、切れてます」
「すぐ取りに行って。費用は出すから」
イチムラはそう言って、財布から現金を取り出し、封筒に入れて私に渡した。
中には申請費用とが入っていた。
「詳しい仕事の話は、神道寺さんから聞いて。僕から話すと、たぶん誤解を生むから」
彼は冗談めかして笑ったが、その言葉の裏に何層もの含みを感じた。
事務所を出ると、神道寺が相変わらず事務所の周囲を巡回していた。
「お疲れ様です」
「話は終わったか」
「はい。パスポート取ってこいって言われました」
神道寺は軽く眉を上げたあと、うなずいた。
「明日、詳しく話す。今日はもう帰って、体を休めろ」
「…了解です」
私はそのまま自分の車に向かい、運転席に座り込んだ。
夜の帷が降りて、街灯がじんわりと光をにじませている。
イチムラの笑みと、神道寺の沈黙が、ずっと頭から離れなかった。
「…何に足を突っ込んじまったんだか」
そう呟いて、車を走らせた。
その先に、どんな仕事が待っているのかも知らずに。
翌朝、少し早めに目が覚めた。
昨日の面談の余韻というか、イチムラの笑みと、神道寺の意味ありげな目が、脳裏にこびりついていた。
どこかで「普通の仕事じゃないな」と理解している自分がいた。
だが、それでも「行く」と答えるつもりだった。
理由は単純で、もう迷っている余裕がなかったからだ。
家族の老いも、自分の将来も、待ってくれはしない。
午前十時、指定されたネフェルの倉庫裏手に向かうと、神道寺はすでにジムニーの横で待っていた。
いつものように、無言で軽く顎をしゃくって私を招く。
「来たか」
「はい。話って、昨日の出張のことですよね?」
神道寺は「そうだ」とだけ答えて、倉庫の裏手、古びたベンチに腰を下ろした。
私も隣に腰を下ろすと、彼はすぐに切り出した。
「今回の仕事は、“護衛”だ」
「護衛……?」
神道寺は頷いた。
「正確には、海外にあるウチのクライアントの施設に行って、現地でトラブルがあった時の“対処”がメインになる。だが一応、肩書きは“トレーナー兼コーディネーター”ということにしてある」
私は一瞬、言葉を飲んだ。
何を意味しているか、すぐには理解できなかったが、「普通の警備」ではないことは分かった。
「トレーナーって…誰を訓練するんですか?」
「現地の人間だ。彼らの体作りや護身術の初歩を見てやることになる。だが、それはあくまで表の役割だ」
「じゃあ裏は?」
神道寺は答えず、ポケットからタバコの箱を取り出し、一本の煙草に火をつけた。
一口吸ってから、まるで映画のセリフのように呟いた。
「施設には、攻撃される理由がある。だから、守らなきゃならない」
私は黙って神道寺の横顔を見つめた。
彼の言葉には嘘がなかった。いや、嘘をつく必要のない人間なのだ。
どこまで信じていいかは別にして。
「場所は、どこなんですか?」
「某国だ。東南アジアのとある場所。詳細は直前まで教えられない」
「…何があるんです?」
「簡単に言えば、薬と金と情報だ」
「……」
「それが交錯してる場所を“中立地帯”として運営してる。ネフェルは、そこに人を送り込んでるんだ。表向きはコンサルティングの名目でな」
神道寺の声は静かだったが、その一言一言が妙に重たかった。もはや笑い話にはならない話だった。
神道寺は煙草をもみ消すと、懐から書類を取り出した。
表紙には、何も書かれていない茶封筒。
中には、フライト情報のような紙と、注意事項が箇条書きされたペラの資料があった。
「言っておくが、法には触れない。少なくともウチのラインではな。ただし、ギリギリだ」
「…」
「不安ならやめてもいい。だが、一度行けば、間違いなく“変わる”ぞ」
その「変わる」がどういう意味なのか、深くは問わなかった。ただ、私は答えた。
「行きます」
神道寺は、わずかに頷いた。
それが、“お前を認めた”というサインだったのかどうかは分からない。
「じゃあ、準備しとけ。数日中に連絡する。パスポートは急げよ」
「了解です」
神道寺は立ち上がると、ジムニーのドアを開けた。
その後ろ姿を見送りながら、私は思った。
これが、自分の新しい生活なのかもしれない、と。