第4話 山葡萄の蔓
神道寺は、私のことを「使えるかどうか」見ているようだった。そうかといって、彼自身のことは、ほとんど何も話さない。
他の社員に聞いても、「元警察官で、早期退職したらしい」という情報が限界だった。
家族のことも、住んでいる場所も、何も語らない。
そんなある日。
午後からの仕事ということで、私は神道寺に指定された場所へ向かった。
「今日は山に入る。山葡萄の蔓を採りに行くぞ」
聞き返すと、神道寺は背負子をポンと叩いて見せた。
「山葡萄の蔓って、そんなに価値があるんですか?」
「高級品だ。上物は一束で万単位。バッグにもなるし、丈夫で長持ち。オレの小遣い稼ぎにはちょうどいい」
調べてみると、確かに編み細工の素材として重宝されているらしい。財布やカゴバッグの材料にされ、何十年も使えるとか。
ジムニーの荷台に背負子と荷物を積み、県境の山へと向かった。神道寺のジムニーの車内は意外ときれいで、しかも空気清浄機まで付いていた。
私の車よりもよっぽど清潔だった。
車を停められるところまで進むと、あとは歩きだ。
軍手、山刀、水筒、非常食、簡易レインウェア……
登山というより、“採取”に適した最低限の装備。
神道寺は、まるで道が見えているかのように、藪を掻き分けて進んでいく。軽い足取りである。
しばらくすると、山葡萄の蔓が群生している一帯に出た。
「ここだ。取るぞ」
私たちは荷物を下ろし、軍手をつけ、山刀を抜いた。
蔓は地を這い、幹に絡まり、枝からぶら下がっていた。
張り巡らされた繊維をたぐっては切り、束ねて、すずらんテープで括り、背負子に積む。
汗が流れ、腕に絡み、息が上がる。
だが神道寺は、何事もなかったように、さっさと作業を終えた。
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「こんなもんか」
神道寺が背負子を担ぎ、俺も続く。
下山途中、ふと立ち止まる。
「どうしたんですか?」
「雨が来る」
空を見上げると、確かに低く湿った雲がのしかかっていた。
「少し先に古い山小屋がある。雨宿りしていくぞ」
そう言って、神道寺はまた足を進めた。
数分後、苔むした小屋が見えてきた。
トタン屋根の脇からツタが這い、軋んだ扉が半開きになっていた。
中に入って荷を下ろすと、タイミングを計ったように、しとしとと雨が降り始めた。
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「黒川。お前、自衛官上がりなんだってな」
神道寺は靴紐をゆるめ、靴の中を乾かしながら言った。
「そうですね。辞めてからもう二年ですけど」
「射撃の成績は?」
「…まあ、悪くはなかったですね。MGの成績は教育隊でトップでしたし」
「そうか。狙撃の教育は?」
「ないです。部隊通信と軽火器くらいしか受けてないんで」
神道寺は、ふと笑った。
珍しいことだった。
「おまえ、狙撃手に向いてると思うよ」
「…は?」
「自分の特性、わかってるか?」
そう聞かれて、正直困った。
今さら“自分とは何か”なんて、まともに考えたこともなかった。
「おまえは拍動が遅い。徐脈ってやつだ。自覚あるだろ」
言われてみれば、健康診断のたびにそう書かれていた。
「心拍が遅いってことは、身体の振動も少ない。息を止めても、心臓は動いてる。スコープを覗くと、それがブレになる。でも、お前はその揺れが少ない。つまり、射撃が安定する」
「…研究者みたいなこと言いますね」
「俺も拍動が遅い。だから、気になってな」
そのとき、私は思い出した。
以前、神道寺が俺の脈を取っていたときのことを。
あれは冗談じゃなかったのだ。
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雨が上がり、下山を再開する。
途中、不法投棄されたゴミの山に出くわした。
「あまり気にするタイプには見えないがな」
神道寺が、私の視線を見て言った。
「いや…場にそぐわないなと思っただけです」
「まあ、そうだな」
それだけ言って、また歩き始めた。
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駐車場に戻ると、ジムニーに荷を積み込み、ペットボトルの水を一口。
温くなっていたが、他に飲み物もない。
着替えを済ませ、汗でぐっしょりのTシャツをビニール袋に突っ込む。ふと神道寺を見ると、彼も着替えていた。
その身体を見て、少し息を呑んだ。
無駄のない筋肉。古傷。切り傷のようなもの。
ある種の“歴史”を持っているような肉体だった。
帰り道。大衆食堂に寄った。
私は生姜焼き定食、神道寺は焼き魚。
壁には焼酎の一升瓶がずらりと並び、常連客がテレビを無言で見ていた。
「黒川。就活は?」
「まあ…してはいるんですけどね。なかなか、これだってものはないです」
「昔、教師目指してたって言ってたな」
「教育実習で失敗しまして。それが、きっかけでやめました」
神道寺はそれ以上、聞いてこなかった。
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「金、欲しいか?」
「……欲しいですよ。そろそろ、定職も欲しいですけど」
「じゃあ、稼げる仕事をしてみるか?」
神道寺は、魚の骨をきれいに並べながら言った。
「資格はいらん。信用と頭と、五体満足の身体があればいい」
聞けば聞くほど、怪しげな匂いがする。
でも、どこか惹かれていた。
駐車場で神道寺から金を渡された。
三万円。数時間の仕事にしては、破格だった。
「次の仕事が来たら、イチムラさんに聞いてみる」
イチムラ、ネフェルの中で、ときどき耳にする名前。
だが、まだ会ったことはない。
「ありがとうございます」
神道寺はそれには答えず、ジムニーのドアを閉めた。
別れ際、彼がふと笑ったように見えた。
その笑みの意味が分かるのは、もう少し先になりそうだった。