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第2話 鍋会、そして裏切り

 帰ってきた部屋は、相変わらずだった。


 蛍光灯の白さが肌寒く、洗濯物は帰りを待ってくれていたかのように山になっていた。

 旅支度のカバンを玄関に放り、靴を脱ぐ。手入れした革靴は、少しだけツヤが落ちていた。



 それにしても、いつまでこんなことを続けるのか。

 明日は就職活動でもしようと思っていたが、以前職安で対応された職員が、あまりに感じが悪く、それ以来どうも足が遠のいている。


 なんとなくスマートフォンを手に取り、メッセージを確認すると、アベ社長から連絡が入っていた。

「仕事お疲れ様。社宅で鍋やるから来ない?」

 すべて社長の奢りらしい。


 ありがたい話だった。正直、食費が浮くのは大きい。俺は即答で「行きます」と返した。


 社宅の空いている駐車場に車を停め、チャイムを押す。

 インターホン越しに社長の声が響く。「あがっていいよ」


 元・医院を改装した建物。玄関は薄暗く、床にはわずかに消毒液の匂いが残っている。

 奥の部屋からは、人の声と鍋の匂い。宴の始まりが近い気配。


「こんばんは」


 挨拶をして入ると、想像よりも賑やかだった。


 まずは、いつも気さくなアベ社長。そしてその奥方・ミカさん。

 聞けば、彼女は俺よりも一つ年下。金遣いが荒いという噂もあったが、穏やかで優しい雰囲気の女性だった。


 ゴロスケは、彼女の“メイちゃん”と一緒に来ていた。

 まるで芸能人のような顔立ちをした女性で、俺は思わず二度見した。


 ―この小柄で金も地位もないゆるふわ男が、なぜこんな美女と? 世の中とは摩訶不思議なものである。


 隣にいたのは、喧嘩腰のサル。

 金に汚く、人を見下す癖がある。正直、俺はこの男が好きではない。


「いらっしゃい、クロちゃん」

 社長が笑顔で迎えてくれ、空いている席を勧めてくれた。


 ありがたいことに、両隣は女性。もっとも、どちらも俺のパートナーではないことが悔やまれたが。


「バラシお疲れさま。今日はゆっくり羽を伸ばしてくれや」

「ありがとうございます。社長、もう現場には出ないんですか?」


「今は別の仕事で手がいっぱいでね。みんなが稼いでくれたら、それで充分だよ」


 サルがさっそく、へらへらとおべっかを使う。


「さすが社長っす。俺も稼げるようになりたいなあ、ぜひご相伴にあずかりたいっすよ」


 こいつ、自分が週に一回は遅刻して、社長に謝らせてるくせに―どの口が言うんだ、と心の中で毒づいた。


 社長はそれでも笑顔で受け流す。


「軌道に乗ったら、いろんな仕事頼むかもしれないから、よろしくな」


「クロさん、どうぞ」


 メイちゃんが鍋をよそってくれた。

 女の子と話すのは久しぶりだったので、精神衛生がぐっと改善された気がする。


 しばらく談笑した後、俺は社長に小さく尋ねた。


「社長、相談なんですが…常勤の仕事って、ありますか?」


「どんな仕事を探してるかによるな。配送助手の仕事なら、毎日あるけど、時給は千円くらいかな」


 サルが主に入っている仕事だ。週に何度か遅刻して、そのたびに社長が取引先に頭を下げている現場。


「以前やらせてもらったんですが、自分にはちょっと合わなくて…」


 あの仕事は、助手席に乗って荷物を運ぶ以上のことは、基本的に許されない。ただの“持つ係”だ。向いていなかった。それだけの話だ。


「正社員の仕事を探してるなら、ハローワークの方がいいかもね。うちでは扱ってないから」


「そうですよね…」


「でも、何がしたいかを明確にした方がいいよ」

 社長はさらりと、しかし核心を突いてくる。


「…はい」


「クロさん、なんでも人頼みじゃダメっすよ」

 サルが調子よく言う。


 お前には言われたくない―と、喉まで出かけたが、呑み込んだ。この場を荒らしても、何も得られない。


 宴もたけなわ、俺はアパートに戻った。

 シャワーを浴びて布団に潜り、社長の言葉を反芻する。


 ―何がしたいのか、明確にした方がいい。


 自衛官だった頃は、体力錬成と奨学金の返済という目的があった。だが、一生やる仕事とは思えなかった。定年も早い。将来が見えなかった。


 辞めたのは、自然な流れだった。

 だが、今は? 自分に向いている仕事とは、いったい何なのだろう。


 翌朝、今日は久しぶりに寝坊してやろうと思っていた。

 八時半まで、いや、せめて九時までは布団にしがみついていたい。

 だが、七時には目が覚めてしまった。心も身体も、勝手に「労働仕様」に調整されている。


 起き上がり、軽くベッドを整える。

 お気に入りの曲をかけながら、フローリングをざっとモップがけ。

 そのあと、譲り受けたコーヒーメーカーに水と豆をセットする。豆はいつもより少し深煎り。


 小用を足し、歯を磨いているうちに、いい香りが部屋に広がる。最近の朝食といえば、このコーヒーを一、二杯。残りはステンレスのボトルに移して、ちびちび飲む。


 スマホを手に取り、世界の悲惨なニュースをチェックする。もし死者が出ていれば、黙祷を捧げる。

 誰かの絶望と比べて、自分の“定職なし”は、まだましな部類なのだと、形ばかりの慰めを得る。


 そろそろ職安にでも行くか―そう思ったとき、SNSの通知が鳴った。


 メッセージの送り主は、かつて同じ現場で一緒になった、自称ラッパー・青木だった。

 “今晩、牡蠣漁の手伝いがある。23時から。最低一万円保証。来られるか?”


 漁? 深夜? 青木?

 すべてが不安要素だらけだったが、特に予定もなかったので「行く」と返した。


 夜。指定された集合場所は、砂利だらけの駐車場だった。


 車を降りると、青木がニヤニヤと近づいてくる。


「おう、なんか痩せたな。しかも焼けたし」


「山奥でフェスの撤収やってた。日に焼けて当然だろ」


「なるほどな。で、漁は俺とお前の二人だけじゃねえよ。俺たちは、ダイバーが採ってきた牡蠣を受け取って、船に積む係。ダイバーと船頭は別にいる。いいな、余計なこと喋んなよ?」


 妙に釘を刺してくる。そのあたりがすでに怪しい。


 青木の仕事には、かつても「グレー」な空気が漂っていた。今回もその系統だろう。だが、一万円が手に入るなら、グレーでもやる価値はある。


 作業は、二時間ほど続いた。

 黙々と牡蠣を受け取り、船に積む。それだけの繰り返し。

 海風が冷たく、作業は単調だったが、不思議な緊張感があった。


 約束通り、現金一万円を受け取り、帰宅。


 風呂に入って布団に入ったが、思考の隅にある疑念がじわじわと膨らんでいた。


 ―あれ、密漁じゃないか?


 結局、真偽は分からなかった。

 証拠もない。知らなかった。だから、セーフ。


 一応、礼儀として青木にはメッセージを送った。


 ありがとう。助かった。また何かあれば声かけてくれ。


 既読はついたが、返信はなかった。


 夜明け前。

 カーテンの隙間から、白んだ空と鳥の囀りがこぼれてきた。その音を子守唄に、ようやく眠りに落ちる。


 ―奇妙な夢を見た。


 歯が全部抜ける夢だった。

 ポロリ、ポロリと何の前触れもなく、口の中で転がる。

 夢だと分かっているのに、歯の感触だけが妙にリアルだった。

 それを吐き捨て、空っぽの口で何かを言おうとするが、声にならなかった。


 ある日、風の噂でアベ社長が入院したと聞いた。


「え? アベさん倒れたの?」


 その噂は、数時間も経たずに現実へと変わった。

 社長の奥方―ミカさんから、直接メッセージが届いたのだ。


《社長が入院しました。お世話になった黒川さんにも、一応お伝えしておこうと思って》


 その一文には、妙な礼儀正しさがあり、逆にただ事ではないことが伝わってきた。


 病院名を教えてもらい、着替えもそこそこに、車を走らせた。


「クロちゃん、来てくれたんだね」


 ミカさんが廊下で出迎えてくれた。

 どこかやつれた表情をしている。

 彼女もまた、社長の影響を強く受ける人だった。


「社長の具合は…?」


 案内された病室の中、ベッドには青ざめたアベ社長が横たわっていた。点滴のチューブが腕に繋がれ、病衣の胸元からは、心電図のコードが覗いている。


「すみません。具合の悪いところに押しかけて…」


 ベッド横のキャビネットに、手土産のドリンクをそっと置く。


「いや、来てくれて本当にうれしいよ。ありがとう。……ちょっと疲れちゃってね」


 そう言って、社長は弱く笑った。


 話を聞くと、予想よりずっと深刻だった。


 長年勤めていた会社の元上司に、横領されていたらしい。

さらに、その件を知ってしまったことでショックを受け、精神的に参ってしまったのだという。


 だが、不幸はそれだけではなかった。

 なんと、サルとゴロスケが裏切ったというのだ。


「あいつら…まさか、あのふたりが…」


 言葉を失った。


 あれだけ面倒を見てもらっていた彼らが、裏切る?

 想像すらしていなかった展開だった。


 社長によると、発端は“ナベヤ”という新参者だった。

 元・性風俗系の会社にいた男で、経営者とトラブルを起こして退職し、行き場を失った末に、社長のもとへと流れ着いたらしい。


 人のいいアベ社長は、例の社宅にナベヤを住まわせた。

 だがそのナベヤが、こっそりと社宅の二階で“届出のないメンズエステ”を開業したという。


 もちろん、名目は「健全営業」だった。

 だが、実態はどうだったか分からない。

 いずれにせよ、不動産会社に発覚し、即座に“社宅全員退去”の通告が下された。


「それだけなら、まだ良かったんだけどね…」


 社長はそこで言葉を濁し、ゆっくりと続きを語った。


 ナベヤが、サルとゴロスケを丸め込んだのだという。

 「社長に裏切られた」「金を取られた」などと、ありもしない嘘を吹き込み、二人を味方につけた。


 そして、まさかの展開。

 三人は社長から金を巻き上げる計画を立て、精神的に追い詰められていた社長に対して、“手切れ金”として四十万円ずつを要求した。


「…払っちゃったんですか?」


「うん。もう関わらないでくれ、って意味でね。もう、疲れちゃってさ」


 社長はそう言って、ベッドの天井を見つめたまま動かなかった。


 俺は、しばらく言葉が出なかった。


 裏切られたのは、社長だけじゃない。

 俺も、彼らと一緒に働き、鍋を囲んだ。冗談も言った。

 そうやって少しずつ築いてきた“仲間”という感覚が、音を立てて崩れていくのを感じた。


 このあと、社長の病室を後にして帰路についたが、車の中ではずっと無音だった。

 ラジオもつけず、窓も開けず、ただ前だけを見て運転していた。


 信じた人間に裏切られた時、怒りより先にくるのは、空虚だった。

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