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第1話 日雇い日記

 玄関のドアに貼りつけた小さなLEDライトが、独り暮らしの部屋を無理やり照らしている。

 その眩しさの下、私はくたびれた革靴にクリームを塗り込んでいた。


 指先で縫い目の隙間まで丁寧にこすり上げる。ツヤは、まあまあ戻った。

 だが、これだけじゃダメだ。

 次に靴墨をつま先へとつけ、黒光りするまで手ぬぐいで磨き続ける。

 誰に見せるでもないが、こうして靴を整えると、少しだけ自分を取り戻せる気がする。


 この独房みたいなワンルームに越してきて、もう二年が経った。

 会社が潰れて、人生が軽く詰んでからは、日雇い派遣で食いつないでいる。


 イベント設営、引っ越し、運送、仕分け、フェスの撤収……。

 いろんな現場を渡り歩いたけれど、自衛官をやってた四年間よりも、派遣二年の方がよっぽど長く感じるのはなんでだろうな。


 そんなことを考えていたら、iPhoneが震えた。

 画面には、派遣会社のアベ社長の名が表示されている。


「もしもし、クロちゃん元気?」

 電話を取ると、いつもの軽い声が飛び込んできた。


「元気ですけど…どうされました?」


「〇〇って音楽フェスの撤収なんだけどさ、人足りなくて。取引先が一日二万出すって言ってるんだけど、どう?」


 一日二万。悪くない、いや、むしろ最高だ。

 真夏の屋外作業で何人も脱落したって噂も聞いていたけど、金の魅力には勝てない。


「行きます。で、何日くらいですか?」


「おっ、ノリいいね。七日は入れるって」


 また新しい環境、人間関係、そして筋肉痛が待ってるかと思うと、少しだけ憂鬱になったが…稼げるなら文句は言えない。


「詳細はLINEで送るねー」


 そんな感じで、アベ社長はあっさりと電話を切った。たぶん他にも声をかけてるんだろう。


 通知を見ると、集合場所や時間がすでに送られていた。

『集合時間:明日5:30/場所:〇〇市西区 株式会社フロッグ事務所前』


 どうやら長距離移動になるらしい。

 着替えと歯ブラシをカバンに詰め、革靴を揃えて玄関に置く。少しでも体力を温存するため、俺はそのまま布団に潜り込んだ。


 翌朝、目覚ましよりも早く目が覚めた。

 寝坊する夢まで見たせいか、やたらと胸がざわつく。

 水を一杯だけ飲み、作業靴に足を通す。

 鏡の前に立つと、派遣労働者にしては身なりがきちんとしすぎているような気もするが、まあいい。


 集合場所には、時間の30分前には到着した。

 早く着いてしまうのは昔からの癖で、損することもあったが、今日のような仕事ではむしろ安心材料になる。


 周囲にはまだ人影は少ない。車内でラジオを流しながら待っていると、ちらほらと似たような男たちが集まってくる。

 バンが何台かやってきて、続々とスタッフが乗り込んでいった。その中に、見覚えのある顔がいた。


「久しぶりだね。アベさんとこのサトウくんでしょ?」


 声をかけてきたのは、中年の男。

 忘れもしない、セガワ。現場では一応リーダー格に立つことが多いベテラン派遣だが、態度が横柄すぎてトラブルも絶えない。


「黒川です。サトウじゃなくて」


「あ、そうだっけ? で、サトウくん元気?」


 相変わらずテキトーだなと思いつつも、軽く笑って受け流す。セガワは以前、別の現場でサトウに噛みつかれていた。 あれだけやり合った相手をまだ気にしてるんだから、意外と繊細なのかもしれない。


 派遣スタッフの世界は、名札も肩書きもないから、誰が誰をどう扱うかは、その場の空気と印象で決まる。

 セガワみたいな人間が牛耳ってる現場もあるし、逆に完全放置の無法地帯もある。


 俺たちのバンはどんどん山の奥へと進んでいった。


 途中のコンビニで休憩を挟む。

 飲み物を買って、小銭が五円だけ返ってきた。


 その五円玉を、さりげなく募金箱へ入れる。

 現金での買い物で十円以下の釣りが出たら募金する、というマイルールがある。

 自己満足だけど、たまにこういう習慣が自分を救う。


 目的地に到着し、まずは宿に荷物を入れる。

 周囲は、山と緑と空気がうまいだけの、静かな場所だった。


「相部屋よろしくお願いします」

 俺と同じ部屋になったのは、イマイという男。

 タバコを吸わないってことだったので、社長が気を遣って組ませてくれたのかもしれない。


 話してみると、偶然にもイマイも28歳。同い年だった。


「イマイさん、この仕事長いんですか?」


「半年くらいっすかね」


 半年か。

 俺はもう二年目に入る。派遣で半年は「新人」、一年で「中堅」、二年やってると…何かを諦めた奴、って感じがする。


 部屋に落ち着く間もなく、すぐに作業着に着替え、現場へ向かうことになった。

 派遣会社の社員が全員を集めて、心構え的なことを話す。


 内容は薄かったが、集まった人数の多さには驚かされた。

まるで繁盛しているラーメン屋だ。


「俺、あの社員嫌いなんだよね」


 現場への移動中、イマイがぽつりと呟いた。


「誰のことです?」


「セイダっていうデブの社員。あいつ、全然動かないから」


 確かに、セイダは見るからに肥満体で、現場に出てくる気配もない。

「あの人が一番稼いでるんですよね」と返すと、イマイは乾いた笑いを浮かべた。


 現場に到着すると、すでに数人の職人が作業を始めていた。

 こちらは、いわば“補助要員”である。命令される側。返事して、物を運び、黙って帰る。

 それが俺たちの仕事だ。


「じゃあ、あの会社の下に何人か入ってもらおうか」

 派遣の社員が、名もなき労働者たちを振り分けていく。俺もその中の一つ、カロルという会社のもとに放り込まれた。


 カロルの職人たちは、だいたい全員がイカつかった。

 腕に龍の刺青があったり、鼻にピアスが刺さってたり、髭が鳥の巣みたいに繁っていたり。

 もう少し愛想良い人達にしてほしかったが、そういう注文は通らない世界らしい。


 一方、派遣スタッフはというと―大学生風のひょろっとした男たちが、猫背でスマホをいじっている。

 果たしてこの子鹿たちに、鉄骨を運ぶ力があるのか。


 しばらく作業が始まると、案の定、汗が噴き出した。

 Tシャツの替えを五枚持ってきたのは正解だった。

 タオルは二本。少し足りなかった。次は三本にしよう。


 鉄骨を運びながら、ふと、自衛官だった頃のことを思い出した。あのときは、もっと重いものを背負って、もっと意味のある汗を流していた気がする。

 少なくとも「この荷物、何に使うんですか?」と聞いたときに、「それは職人じゃないと分からない」とは言われなかった。


 この国では、職業に貴賎はないと建前では言うが、実際には“役割の不透明さ”が人を貶める。

 自分が何をしているのか分からないまま、誰かの指示だけで身体を酷使していると、だんだん人間ではなく、道具に近づいていく。


「黒川さんて、何歳ですか?」


 休憩に入ると、大学生らしきスタッフが話しかけてきた。

年齢の話題は、現場では定番だ。たぶん、みんな「まだここにいるべきじゃない」と思ってるからだ。


「二十八」


「あー、コヤさんと同じだ」


 すると、遠くから視線を送ってきた男がいた。たぶん、コヤさん。見るからに場慣れしている。


「仕事、長いの?」


「二年くらいです」


「…長いな。抜け出せなくなる前に、なんとかしような」


 他人事みたいに言うなよ、と思いながらも、どこかでそれを自分にも言っていた。


 その日、大学生が物を運んでる最中に、突然手を放した。

 あと少しで俺の足が潰れるところだった。


 文句を言うと、ベテランの一人がこう言った。

「学生なんだから分かんねえんだよ。サポートしてやんな」


 それから十分後、そのベテランが大学生とペアになり、パネルを落とされた。

 怒声が山に響き渡った。火を噴くとは、こういうことを言うのだろう。

 私はその様子を見ながら、黙ってポカリを飲んでいた。


 作業が終わると、すぐに宿へ戻った。


 思った以上にまともな宿だった。温泉があり、飯もうまい。この待遇で一日二万もらえるなら、何も文句はない。


 部屋も当たりだった。

 喫煙者に挟まれず、癖のないイマイとの二人部屋。これ以上を望むのは罰が当たる。


「いやー、いいですね。温泉入れて、飯もうまくて。こんな生活で一日二万、最高ですね」


 そう言うと、イマイは少し間を置いて、ぎこちない笑顔を返してきた。


「そうっすね。でも、これは今だけですから」


「……まあ、確かに」


「これが終わったら、また一日八千円の現場に逆戻りですよ。そう考えると、ちょっと気が重いっすね」


 そういう現実を見ないようにしていたが、イマイに言われてしまうと、逃げ場がない。


「就活とか、してるんですか?」


「一応…来週、ホームセンターの試験を受けます」


 希望はあるらしい。少しだけ、救われた気がした。


「黒川さんは?」


「俺は…アベ社長にでも相談してみようかなって」


 自分のセンスと頭は、あまり信用していない。だから、知り合いの頭を借りる。それが今の俺のやり方だ。


「明日も早いんで、もう寝ますか」


 イマイが布団に潜りながら言った。時計は、まだ夜の九時半。普段なら寝るには早すぎるが、身体がすでに悲鳴を上げていた。


 廊下の向こうでは、修学旅行のような笑い声が響いている。私たちはそれを聞きながら、静かに目を閉じた。


 朝は、ありえないほど飯がうまかった。


 白米は炊きたて、味噌汁には具がたっぷり、焼き魚の皮はパリパリで、中はふわふわ。たかが派遣の朝食に、ここまで贅沢をしていいものか―そんな感想が頭をよぎるほどだ。


「いやー…これ、毎日出たらやばいですね」


 イマイに話しかけると、彼は味噌汁をすすりながら微笑んだ。


「毎日この生活だったら、人生もっとマシだったかもしれないっすね」


 なるほどと思う。だが、うまい飯を食ったからといって、現場のきつさが軽くなるわけでもない。


 作業が始まると、私は昨日のグループとは分けられ、新しい現場に飛ばされることになった。

 スタッフの数も多いから、日替わりでチーム編成が変わる。運が良ければ働きやすい仲間に当たり、運が悪ければ―まあ、地獄だ。


 今回の相方は、二十代前半くらいの、丸メガネをかけた小太りの青年。

初対面だったが、なぜか自信に満ちた表情で話しかけてきた。


「よろしくお願いします! こういう現場、慣れてるんで」


 ずいぶん頼もしい自己紹介だ。見た目とのギャップも込みで、逆に不安になる。


「そうですか。じゃあ…こっち、自分初めてなんで、指示出してもらってもいいですか?」


「任せてください!」


…と答えた彼だが、その後の展開は、まあ予想通りだった。

実際に指示を出していたのは、すべて私。彼はそれに「はい!」と従うだけ。


作業は、重たい鉄骨の運搬。

一歩間違えれば、足の指がまとめていかれる代物だ。慎重さと呼吸が何より大事になる。


だが、彼はやたらと話しかけてきた。


「黒川さんって、昔なにやってたんですか?」

「趣味ってあります?」

「派遣って、どのくらいやってるんですか?」


 この状況で、その話題いるか? と思いつつも、適当に答えていた。


 不思議なことに、指示を出して働かせてるのはこっちなのに、彼のほうが「仕事してる感」をまとっている。言葉の力って、意外と強い。


「ありがとうございました!」

 作業が終わると、深々と頭を下げてきた。


 丁寧なのはいいことだ。

 とはいえ、仕事の大半を進めたのはこっちである。だが、妙な癖や暴走もなかったぶん、当たりの部類なのかもしれない。


 三日目の朝。

 汗だくで目が覚めた。シャツを着替え、靴下を替え、顔を洗っても、まだ身体の芯が湿っている気がする。

 それでも、うまい朝飯がすべてを帳消しにしてくれる。焼き海苔のパリッとした音に、少しだけ生き返った。


 午前の作業に割り振られた現場に向かうと、何人か、以前どこかで見た顔があった。その中に、ひときわ異質な空気をまとった若者がいる。


「スギタくん、久しぶり。元気だったか?」


 私の声に、彼はやや驚いたように顔を上げた。


「まあまあ、でしたね」


 その言い方も、声のトーンも、やはりスギタだ。

 どこか別の世界から来たような、感情の輪郭が曖昧な話し方。


 彼のあだ名は“ワイルド”。

 理由は、数字がまるで数えられず、ルールや順番を本能的に無視するかららしい。

 高校には進学せず、「ウイニングイレブンを極める」と宣言して、家にこもっていた過去を持つ。

 周囲は彼のことを冗談半分でそう呼ぶが、スギタ本人はそれを気にしていないのか、それとも気づいていないのか、とにかく一切表に出さない。


 休憩中、彼の姿がふらりと現場の外れに消えた。


「散歩?」


 声をかけると、スギタは首だけこちらに向けた。


「いや…じっとしてると、いろいろ考えちゃって、不安になるんです」


 ああ、と思う。

 それは私も同じだ。だが、私はそれを「癖」とか「性格」と呼び、なるべく棚の奥にしまっている。


 正直、スギタのような状態になっていたら、私はとっくに心が折れていたかもしれない。ここで働いている自分を、まだ「仮の姿」だと思い込めるうちは、きっとまだましなのだ。


 午後も汗を流し、鉄骨を担ぎ、テントを畳み、鉄板を運んだ。どれも重く、単調で、意味のわからない作業だが、終わったあとだけは奇妙な爽快感がある。

 それは達成感ではなく、ただの「終わった」という解放だった。


「じゃ、また会いましょう」


 スギタはそう言って、消えるように帰っていった。


 彼の背中を見ながら、ふと、自分の中の“ワイルド”を考える。

 私の中にも、何か数えられないものがある。数えてはいけないもの、と言った方が近いかもしれない。


 例えば、それは“今日までに諦めたことの数”だとか。

 あるいは、“本当はやりたかったこと”だとか。


 私たちは、似て非なる世界に生きている。けれどその距離は、思ったより遠くないのかもしれない。


 四日目の朝も、しっかり汗をかいて目が覚めた。

 どうやらこの土地では、目覚ましよりも肉体の悲鳴のほうが早く鳴るらしい。


 宿の朝飯は相変わらずうまく、焼き魚の焦げ目がプロの技を感じさせた。きっとこの飯がまずかったら、私たちの仕事の質も一段と落ちていたと思う。


 現場に着くと、妙に馴れ馴れしい声で呼びかけてくる男がいた。


「社長のとこで会ったよね?」


 見ると、やや肥満気味の男が、こちらを値踏みするような目で立っていた。


「ああ…ヤマダさんですよね。黒川です。お世話になってます」


「思い出した! 元自衛官の人だ。まだ定職ついてなかったんだ?」


笑いながら言うその言葉に、悪意はない―たぶん。だが、余計なお世話であることに変わりはない。


「ヤマダさんも、俺と同じ無職じゃないですか」


 軽く切り返すと、ヤマダはますます上機嫌になって笑った。


「いやいや、俺は自営業だよ。一緒にされたら困るなー」


 そう言って、腹を揺らしながら笑っていた。

 たぶん“自営業”という言葉の裏には、深い意味も資格も実体もない。

 だけど、肩書きってのは、時として人間の骨を支える矯正具になる。

 私だって、無職より“フリーランス”のほうが多少マシに聞こえると思っている。


 ヤマダは元整備士だったらしい。

 今はアベ社長の信頼を得て、社用車の管理なんかも任されているらしいが、何をどこまで信用していいのか分からない。胡散臭さと図太さが服を着て歩いてるような男だった。


 現場は昨日と同じようなものだった。

 重たい機材、汗、無言の作業、時おり響く怒号。

 肉体労働に言葉はいらないが、時折、誰かの苛立ちが空気に滲む。


 中でも印象に残ったのは、誰かが落とした鉄板が、地面にガン、と大きな音を立てて叩きつけられたときだった。

 音の向こうから、誰かの叫び声と、誰かの謝罪が交差した。


 人間ってのは、重いものを持ってるとき、本性が出る。

 耐えきれなくなったとき、手を放すのか、踏ん張るのか―それだけで信頼の半分は決まってしまう。


 作業が終わる頃には、体中の関節が「もう限界です」と囁き始めていた。

 だけど、今日も怪我がなく終えられた。それだけで、十分すぎるくらいだ。


 ヤマダは帰り際、車の陰でスマホをいじっていた。

 その横顔を見ながら、俺は思った。


 あの人も、何かしらの不安を、ああやって誤魔化しているのかもしれない。

 言葉でマウントを取ることで、自分がまだ“まとも側”にいると確認してるのかもしれない。


 俺もそうだ。違う形で、同じことをしてる。


 ただ、その“形”がたまたま、もう少し静かで、少しだけ諦めに似ているだけだ。


 五日目の朝、起きた瞬間、ふくらはぎが軽く攣った。

 それを「いい兆候だ」と受け取れるほど、俺は達観していない。

 ただ、痛みによって「今日がまだ終わっていないこと」を自覚する。


 朝食は、あいかわらず過剰にうまかった。

 胃の中に何かが入ると、今日も一日分の「がんばるフリ」ができる気がするから不思議だ。


 現場に着くと、見覚えのある二人組がいた。

 一人は背が高く、肩幅がやたら広い。動きはやたらと荒く、言葉も雑だ。通称“サル”。

 もう一人は、反対に小柄で、なぜかいつも香水の匂いがする。顔立ちは整っており、女にモテるらしい。こちらは“ゴロスケ”。


 二人とも、社長が借り上げたシェアハウスに住んでいる身内組。いわば、社長ファミリーの“現場要員”だ。


「アレ、クロさんじゃないっすか。二万に釣られて来た口っすか?」


 サルが声をかけてきた。妙にフレンドリーだが、その背後には、うっすらとした見下しが混じっている。

 彼は私より年下だが、私に指示を出したがる癖がある。理由は不明。たぶん、動かせそうな相手を見つけると、つい口が出てしまうのだろう。


 以前、休憩中に「掃除しといてくださいよ」「片付け、黒川さんお願いっす」などと命令口調で言われ、さすがにカチンときて、少しやり合ったことがある。

 だが、サルは誰に対しても態度が悪く、どこでも喧嘩をしているらしく、社長からは「喧嘩屋」と冗談めかして呼ばれていた。


「…まあ、たまたま空いてたんで」


 とだけ返す。角を立てたところで、意味はない。

 現場では、“波風立てない能力”が、腕力やスキル以上に評価されることもある。


 一方、ゴロスケはというと、俺には興味がなさそうだった。というより、あまり男に興味がないのかもしれない。

 彼は女の“承認欲求”を満たす天才的らしく、デートは送迎付き、食事は奢られ、プレゼントまで貰うという完全勝利スタイルを貫いているらしい。


 見た目は中性的で、しゃべり方もどこかふわふわしている。昨今の“ゆるふわ男子”というやつなのか、それとも何か別のジャンルなのか、俺にはよく分からない。


 その日の作業は、特に問題なく終わった。


 汗は大量にかいたが、怒声も飛ばず、怪我人も出なかった。サルもゴロスケも黙々と作業をこなしていて、拍子抜けするほど静かな一日だった。


 ただ、休憩時間にふと思った。

 なぜ、あの二人と俺とで、こんなにも差があるのだろう。


 サルはどこかで“暴れて”も、また現場に戻ってこれる。

 ゴロスケは、派遣の仕事をしていても、別の場所で誰かに甘やかされている。

 俺には、どちらの“逃げ道”もない。


 別に羨ましいとは思わない。けれど、彼らの図太さと軽やかさには、少しだけ救われる。

 こういう人間も社会にいるのだと知るだけで、自分が何かを諦めるタイミングを誤らずに済む。


 この日もまた、汗と一緒に考えごとが流れていった。


 六日目の朝。

 目を覚ましたとき、ふと、「もう少し、ここにいられる」と根拠のない予感がした。

 うまい飯、温泉、適度な疲労。五感にちょうどいいバランスで構成された日々。

 それがもう少し続くような気がしていた。


 しかし、現実は、いつも静かに裏切ってくる。


「今日でお役御免になりますんで、帰り支度もお願いしますねー」


 派遣社員の一言で、あっさりと現実が回収された。

 フェスの“バラシ”という、誰も名前を覚えない工程が終われば、俺たちの価値も失効する。


「…思ったより、短かったですね」


イマイに言うと、彼はふっと目を細めた。


「まあ、人生ってだいたい、そんなもんじゃないっすか」


 そうかもしれない。

 長く続くと思っていた関係や仕事ほど、脆く、簡単に終わる。


 その日の仕事は、これまでと変わらず、黙々と身体を動かすものだった。ただ、終わりが見えているぶん、どこか浮足立っていた。


 作業後、荷物をまとめ、出発のバンに乗ろうとしたところで、アベ社長の社員が声をかけてきた。


「黒川さん、ちょっといい? ドライバーやってもらってもいいかな」


 一瞬、意味が分からなかった。だが、すぐに察した。

 要は、運転してみんなを連れて帰ってくれ、ということだ。


「…はい、いいですよ」


 断る理由もない。だが、そのとき隣で同じように頼まれた別のスタッフが、さらっとこう言った。


「運転代、出るんすか?」


 社員はちょっと面食らった様子で、言葉を探していたが、結局こう返した。


「…じゃあ、少しだけど出しますね」


彼はそれで納得したように頷き、俺は黙って車の鍵を受け取った。


 帰り道、助手席でぐうぐう寝ている誰かのいびきを聞きながら、ふと思った。

 黙っていると、損をする。

 騒げば、得をする。

 そういう構造は、学校にも、職場にも、そしてこの派遣の世界にも、ぬるりと根を張っている。


 私はまだ、騒ぐほど図太くもなく、得を取るほど器用でもない。だから、運転席で黙ってハンドルを握っていた。


 視界の隅に、夕焼けが赤く滲んでいた。

 誰かの一日が終わり、誰かの価値が、またひとつ期限切れになる。


 でも、そういうものだ。

 少なくとも、今日も自分の周りで誰も死ななかった。それだけで、もう十分だ

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