第9話
梅雨が最も激しさを増した六月末のこと。
合同企画の打ち合わせ後、美術室で亮太くんと二人きりになった。突然の豪雨で、下校時間が来ても外に出られない状況だった。
「すごい雨だね」窓を打つ雨音に亮太くんは言った。
「うん…」
美術室の静けさは、雨音によって不思議な空間を作り出していた。時間が通常とは違う流れ方をしているような感覚。
「今描いているのは?」私は亮太くんのイーゼルに目をやった。
「ああ、これ…」彼は少し恥ずかしそうに風景画を見せてくれた。「海岸線の絵なんだけど、何か足りないんだ」
私はその絵を見つめた。確かに技術的には素晴らしいのに、何かが欠けているような…。
「この波の色」私は思わず言った。「もう少し深みがあれば…海の記憶みたいな」
「海の記憶?」亮太くんは興味深そうに尋ねた。
「うん、波が記憶を運んでくるような…」言葉に詰まりながらも、感じたままを伝えようとした。「過去と未来が交差する場所としての海」
亮太くんは一瞬驚いたような表情を見せた後、笑顔になった。「素晴らしい表現だね。その言葉をもらえないかな、このタイトルに」
「え、いいの?」
「うん、『海の記憶』。紅林さんの言葉が、この絵に命を吹き込んでくれた」
彼の言葉に胸が熱くなった。自分の言葉が誰かの創作に影響を与えるなんて、初めての経験だった。
窓際に立つ亮太くんのシルエットを見つめながら、私の心は静かに、しかし確かに高鳴っていた。その瞬間、脳裏に結花の笑顔が浮かび、胸が締め付けられるような罪悪感を感じた。
彼の横顔。窓からの光に照らされて、まるで絵画の中の人物のよう。思わず見とれてしまう自分がいた。
*私は一体何をしているんだろう。結花の気持ちを知っているのに。*
雨は次第に小降りになり、私たちは学校を後にした。別れ際、亮太くんは「また明日」と言った。その言葉が、嬉しさと苦しさを同時に運んでくる。
家に帰る道すがら、空には梅雨の合間の短い夕焼けが広がっていた。オレンジから紫へと変わりゆく空。亮太くんが見せてくれた絵のような空。
私は足を止め、その空を見上げた。
*二つの月のように、二つの気持ちの間で揺れ動く私。どちらの光に導かれるべきなのだろう。*
スマホが鳴り、画面を見ると結花からのメッセージだった。
「明日の放課後、亮太くんと調べ学習するの!応援してね♡」
メッセージを読み、私はため息をついた。返信を送りながら、心の中で自問した。
*このまま正直に生きられないとしたら、私はどうなってしまうのだろう。*
海を眺めながら約束した日のことを思い出す。あの日は三人で「正直であること」を誓ったはず。でも今の私は、その約束から少しずつ遠ざかっていっている気がした。
梅雨の雨のように、私の気持ちも曖昧に、そして確実に変わりつつあった。