第25話
文化祭四日前の午後、陽菜は自分の部屋で携帯電話を握りしめていた。メッセージを送るための言葉を考え、消し、また書き直す。窓の外では雲が厚くなり、光を遮り始めていた。
ついに決意を固め、彼女は結花にメッセージを送った。
「話があります。今日、あの海で待ってます。五時に。お願い」
送信ボタンを押した瞬間、陽菜は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。返信があるだろうか。結花は来てくれるだろうか。
携帯を置き、陽菜は準備を始めた。制服から私服に着替え、バッグに手帳と破られたノートのページを入れる。心の準備をするかのように、深く呼吸を繰り返した。
窓の外を見ると、空はますます暗くなっていた。天気予報では夕方から雨の予報だったが、それよりも早く嵐が来そうな気配だった。
陽菜は階段を下り、玄関に向かった。リビングを通り過ぎる際、家族の写真が目に入った。両親と幼い頃の自分。みんなが笑顔の写真。あの頃は、何もかもが単純だったのに。
*正直に生きることの大切さ。*
その思いを胸に、陽菜は家を出た。
海岸への道は、いつもより長く感じられた。風が強くなり、髪が顔にかかるのを何度も耳にかける。頭の中では、どんな言葉で話せばいいのか、何度も考えていた。でも、脚本通りにはいかないだろうとも思っていた。
海に着いたとき、そこはまだ誰もいなかった。しかし、すぐに陽菜は波の音と共に、記憶の中の小学生たちの姿を思い浮かべた。あの日、三人で手をつないで「正直に話そう」と約束した場所。皮肉なことに、今日も空は嵐の前の不穏な様相を呈していた。
陽菜は波打ち際に立ち、遠くの水平線を見つめた。風が激しくなり、波も高くなっていく。今にも雨が降り出しそうな空気。
そのとき、砂を踏む足音が聞こえ、振り返ると結花が立っていた。
彼女の表情は硬く、目には複雑な感情が宿っていた。いつもの明るい結花とは違う、沈んだ雰囲気。陽菜の心は激しく鼓動した。
「話があるんだよね」結花が最初に口を開いた。その声は風にかき消されそうなほど小さかった。
「うん…」陽菜は喉の渇きを感じながら答えた。「ここがいいと思って…約束した場所だから」
二人の間に重い沈黙が流れる。海の波音だけが、その空白を埋めていた。
「結花、私…」陽菜は言葉を探した。「ずっと言えなかったことがあるの」
結花は黙って陽菜の言葉を待った。彼女の目には、すでに何かを悟っている色があった。
「亮太くんのこと」陽菜は勇気を振り絞った。「私…彼のことを…」
その瞬間、空から最初の雨粒が落ちてきた。まるで陽菜の言葉を急かすかのように。
「好きになった」陽菜の言葉と共に、雨脚が一気に強まった。「気づいたときには、もう抑えられなくて…でも、結花が三年間想い続けてきたって知ってたから、この気持ちを認めたくなかった」
雨は二人を容赦なく打ちつけ、シャツが肌に張り付くほどに濡れていった。しかし、二人とも動こうとはしなかった。
結花の表情が変わった。驚きではなく、怒りだった。「いつから?」
「古本屋で雨宿りした日から…」陽菜は正直に答えた。「あの日のこと、全部話さなかった。それが最初の嘘だった」
「ずっと黙ってたの?」結花の声が次第に高くなった。「どれだけ私を騙していたの?」
「騙すつもりじゃなかった!」陽菜も声を上げた。「ただ…結花を傷つけたくなくて…」
「嘘をついて私を守ろうとしたの?」結花の目から涙が溢れた。雨と混じり合って頬を流れていく。「それって本当に私のため?それとも、自分が罪悪感を感じたくなかっただけじゃない?」
その言葉は鋭い刃のように陽菜の胸を突き刺した。確かに、自分を守るためでもあった。結花を大切に思う気持ちと同時に、自分が「悪者」になりたくないという思いもあったのだ。
「約束を破ったのはあなただよ!」結花の叫びが雨音にも負けずに響いた。「正直に話し合おうって、あの日ここで誓ったのに!」
陽菜の中で何かが崩れ落ちた。膝から力が抜け、砂浜に座り込んでしまう。雨は容赦なく二人を打ちつけ続けた。
「ごめん…本当にごめん…」陽菜の声は震えていた。
結花も同じように砂浜に膝をつき、二人は雨の中で向かい合った。
陽菜はバッグから破られたノートのページを取り出した。雨に濡れないよう守るように手で覆いながら、結花に差し出した。
「これ…」
結花は躊躇いながらもそれを受け取り、雨から守るように体を傾けて読み始めた。亮太への気持ちを正直に綴ったその文章は、陽菜の心の叫びそのものだった。
読み進むにつれて、結花の表情が少しずつ変わっていく。怒りから悲しみへ、そして何か別の感情へ。
陽菜は震える声で続けた。「私も完璧じゃない。弱くて臆病で…でも、結花との友情は本当に大切で…だからこそ、もう嘘はつきたくなかった」
雨が少し弱まってきた。風の音も穏やかになり、二人の言葉がより明確に聞こえるようになる。
結花は長い間黙っていた。そして、ようやく口を開いた。
「実は…私も気づいてた」
陽菜は驚いて顔を上げた。
「あなたと亮太くんがどんどん近づいていくこと」結花は静かに言った。「最初は怒ったけど、でも同時に…私自身も亮太くんへの気持ちを疑い始めていたの」
「え…?」
結花は濡れた髪を耳にかけながら続けた。「三年間好きだと思ってきたけど、それは本当に恋なのか、それとも単なる憧れだったのか…最近、分からなくなってきたんだ」
雨がさらに弱まり、二人の周りに小さな静けさが生まれた。
「私が怒ったのは」結花は深呼吸して言った。「陽菜が嘘をついたことだよ。気持ちそのものじゃなくて」
陽菜は言葉を失った。予想していた反応とは全く違っていた。
「私たちの友情はこんなことで終わらせられないほど大切」結花の声にはもう怒りはなく、静かな強さがあった。「だから、これからは正直に話そう。昔の約束通りに」
雨がほとんど止み、雲の間から夕日が顔を覗かせ始めた。光が二人を薄く照らす。
「本当に?」陽菜は信じられないような声で尋ねた。「私を許してくれるの?」
「すぐには無理かもしれない」結花は正直に答えた。「でも、時間をかけて。私たちの友情の方が、どんな恋よりも長く続いてきたんだから」
二人は静かに立ち上がり、濡れた服の砂を払った。空には雨上がりの虹が薄く見え始めていた。
「亮太くんのこと、どうするの?」結花が尋ねた。
「わからない」陽菜は正直に答えた。「今は、あなたとの友情を修復することが一番大切」
結花はしばらく考え込んでから言った。「二人で話した方がいいと思う。三人で」
陽菜は驚いて結花を見た。「本当に?」
「うん」結花は少し切なげに笑った。「それが正しいことだと思う」
海は嵐の後の静けさを取り戻しつつあった。波は穏やかになり、風も和らいでいた。
「帰ろうか」結花が言った。「風邪引くよ」
二人は肩を並べて、海岸を後にした。かつての小さな約束は、嵐の中で新たな形となって生まれ変わったようだった。




