第18話
放課後、文芸部室には誰もいなかった。一人静かに座り、「二つの月」の物語を続けようとしたが、言葉が出てこない。主人公の少女もまた、選択の岐路で立ち尽くしたままだった。
ドアが開く音がして振り向くと、美咲先輩が立っていた。
「あら、紅林さん。一人で?」
「はい…」
美咲先輩は私の隣に腰掛け、私が書いている原稿に目をやった。「行き詰まってる?」
「はい…」再び同じ返事しかできなかった。
「私もよく経験したわ」美咲先輩は静かに言った。「物語が進まないとき、それは作者自身が答えを見つけられていないから」
先輩の言葉には、いつも的確な洞察が含まれていた。だからこそ、今は少し怖かった。私自身の心の内を、そのまま映し出されるような気がして。
「先輩」勇気を出して尋ねた。「何か辛い経験をされたことは…ありますか?」
美咲先輩は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに優しい微笑みに戻った。
「もちろんよ」彼女はメガネを外し、静かに拭き始めた。「実は私、高校一年の時に…親友の好きな人と付き合ってしまったことがあるの」
その告白に、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
「その時は、自分の気持ちに素直になることが、一番大切だと思ったの」美咲先輩は遠い目をして続けた。「でも結局、親友も彼も、両方を失った」
教室に重い沈黙が落ちた。
「どうして…」私は小さな声で尋ねた。
「本音で向き合わなかったから」美咲先輩は真っ直ぐに私の目を見た。「三人で正直に話し合うべきだったの。代わりに私は、親友に隠れて彼と会い、彼には親友の気持ちを話さず…結局、全てが歪んでしまった」
美咲先輩はため息をついた。「それからよ、私が『藤見』として小説を書き始めたのは」
「先輩が…藤見さんだったんですね」
「そう」彼女は穏やかに頷いた。「匿名だからこそ、本音を書けた。でも、それは一種の逃げだったと気づいたの。だから最近は、自分の名前で作品を書くようにしているわ」
美咲先輩の話に、私は深く考え込んだ。本音で向き合わないことの代償。それは私も既に支払い始めていたのかもしれない。
「紅林さん」美咲先輩が続けた。「あなたに助言できるのはここまでよ。あとは自分自身で答えを見つけなければならない」
帰り際、彼女は振り返って言った。「でも覚えておいて。本当の友情も、本当の愛も、誠実さから始まるものだということを」
その言葉は、長い間私の心に響き続けた。




