珀李の恋
中つ島と沼地の境までくると、珀李は振り向いて、阿王と国王を待った。彼女は、ぼろぼろ泣いていた。
「知らなかった・・・。でも、私は鹿王さましか愛せない」
「たぶん、そうじゃないかと思ってた」
国王が優しい調子で言った。
「あはは・・。本当はみっともないと思っているでしょ?勘違いも甚だしくて・・・」
「そんなことは思わないけど・・・あの卵には何か理由があるんだよね?」
辺り一面に生臭い匂いが漂ってきたと思ったら、珀李の爪先から上に向かって身体が溶け出し、水となって流れ、くねくねと曲線を描いて、地を這うように、沼地へと流れ出ようとした。その流れの先端はまるで蛇の頭のように、曲がりくねった水の流れの跡は蛇の身体そのものに見えた。
「これで分かったでしょ」
ぐぐっと頭が持ち上がり、透明な蛇神がこちらを向いていた。
「父は邪神真桑・・・美少年に扮し、母を誘惑した。そうして生まれたのが私よ。父のもとで育った私は、鹿王さまと同じ母から生まれたとは露程も知らなかった。父は何も語らなかったし、他の神々もそんなことは話題にしなかった」
「私も阿王も、さっき知ったよ。父は知っていたようだが、おおっぴらに話す事柄でもないしね」
阿王はこの手の話は苦手だ、だからあえて話すこともなく、二人の会話を聞いている。
「私、全てを話す、話したいの。そうして、鹿王さまのもとを去る、そう決心したの、今・・・。卵の件は、もちろん私の大好物だし、もしかすると同じものを食していれば、いつか鹿王さまの気持ちも私に向かって来るかもしれないという儚い望みをかけていたこともある。悲しいことに・・・どれだけ月日が経とうと、全くその気配はなかったけれどね。恋人として愛される可能性がないなんて思わなかった。側にいれば・・・私の愛に気づいて愛してくれるものだと思っていたわ。残酷よね・・・兄妹なんて。白鹿に化けていたのも、鹿王さまに同族だと思わせ親近感を持ってもらうため。本来足のない私は、足を使う度に身体のあちこちがとても痛んだ。でもそんなこと、たいしたことではなかった。今感じている胸の痛みに比べたら・・・。初めてあの方にお会いした時、紀女の婚約者とは分かっていながら、私の胸は飛び跳ねた。私は邪神真桑の娘として紹介され、名前は秘された。紀女の厚意で連泊することになり、毎日、二人の仲睦まじい姿を目にすることに。彼に大切に愛情をもって接してもらう彼女がだんだんと憎らしく思えてきた。同じ女なのに・・・どうして彼女は、あんな素敵な方にこんなにも溺愛されるのかとね。私の想いは彼に固執してしまい、諦めるなんて考えられなかった。次第に・・・私が彼女に取って代わって、何が悪いというの?そう思い出した。そして結婚式前夜のこと、私はとうとう彼女の前に本来の姿で向かい合った。死期を悟った紀女の最後の言葉は何だったと思う?『あの方をどうか大切にして欲しい』、それだけよ。自分の死を前にした彼女の一言を私は心の中で笑った。その時は彼女の言っていることの本質が見えていなった。でも、今は、よく分かるの。私の名前は自分でつけた。珀は白い王様、だから鹿王さまのこと、李は大きな木の下に子どもでしょ、大きな木が鹿王さまで子どもが私よ。どれだけ私があの方のことを想い、愛していたのか・・・分かるでしょう」
「でも・・・あなたの罪は消えない。そうでしょう?」
「そうね・・・。でも真相を知っていたのなら、私を早くに手放して欲しかった・・・」
「叔父上もあなたが血の繋がった妹だと思えばこそ、そうはできなかったんだと思う。紀女を愛すれど、妹のあなたを害することは情が許さなかった」
「ううう・・ううっつ」
珀李は嗚咽しながら、ただ泣いている。
「ここを去ると決めたってことは、罪を償う気だよね・・・」
「黄泉の国へ行って、死の世界に閉じ込められている紀女の元神と私の元神とを交換してもらうわ」
「決意は固いんだね」
「鹿王さまの幸せを願っている。今まで辛かった分、あの方が心から笑えるのならば、私はそれで充分・・・今も・・・心から愛しているの・・・」
珀李はシュルシュルと沼地に入ってゆき、奥底まで潜って行った。
「行ってしまったなあ。これで良かったんだろうけど、なんだか悲しいね・・・」
「国、そんな情けをかける相手でもないだろう。だって彼女は最初から邪魔者だったんだからさ」
客間で鹿王と香出は、国王と阿王が戻ってくるのを待っていた。
「なかなか帰ってこないね。どこまで追って行ったんだろう?」
「もしや・・・何か二人にあったとか・・・そういう可能性はありませんか?」
「いや、それはない」
「わらわが見て参りましょう」
香出が立ち上がると、二人が帰って来た。
「どうしたの?あんまり戻らないから、心配したわ」
「ごめん、ちょっとね・・・」
国王が言いづらそうにしながら、鹿王を見た。
「もしかして・・・珀李か?」
「ええ、彼女は自分の意志で黄泉の国へ行きました」
「そうか・・・」
「阿王、どうしたの?顔が青いわ」
「女性は怖いなって思ってさ」
この阿王の発言を発端に、またもや二人の喧嘩が始まった。二人は独自の恋愛論を相手に押し付け、押し戻され、会話が白熱している。
突然、鹿王が立ち上がった。
「どうかされましたか?」
「紀女が戻ってきたようだ。私を呼んでいる!」
国王の耳には、その声は聞こえない。もちろん、恋愛について激論を交わしている後の二人に聞えているはずもない。
ふらふらと鹿王は客間を出て行き、麝香の残り香がふんわりと下りてきた。
鹿王は左右上下に張り出した枝のような立派な角を持つ白男鹿になって、声のする方へ急いでいた。水面を蹴り、飛び、こんこんと水が湧き出る泉へと辿り着いた。
そこに、紀女は在りし日と同じ姿で立っていた。鹿王は、彼女の身体にすり寄った。
「会いたかった。どんなにあなたのことを想っていたことだろう」
「私も会いたかった。あなたの温もりを忘れたことはありません。こうして再び会えるなんて、夢のようです」
「どうして?」
「珀李が来て、私と入れ替わったのです。彼女は死の世界に身を沈めています。そうして、あなたに申し訳なかったと・・・」
鹿王は黙っている。
「珀李は別れる際、私に、こう話してくれました。自分は不義の子として生まれ、深い業を背負っていた。結婚した相手と相思相愛にならなければ、否応なく相手を飲み込んでしまう性にあるのだと・・・」