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退院当日の朝。
数ヶ月の間お世話になった病院の正面玄関で靴を履き、門をくぐって初めて病院の敷地外に出た。トラックを走っているときは、塀に阻まれ外の様子を見ることは出来なかった。どのような景色が広がっているのだろうと周りに目を向けたが、少し期待外れな結果になった。
「何もない……」
病院は荒野の草原に囲まれていた。道が整備されている様子もなく、ただぽつんと病院が建っているのみ。人の声が聞こえることがなかったので、人の少ない立地なのだろうと思ってはいたが、これはあまりにも予想外だった。
車のような乗り物も見当たらず、育成所までの移動手段は何なのか検討もつかなかった。
「これ育成所までどうやって行くんですか? まさか徒歩とか……?」
「そんな訳があるか、君は私の種族を忘れているようだな」
そう言って、ドクターは背中に手を回した。
アランもドクターも毎日飾り気のない白のワンピースを着ていたが、お出かけだからなのか二人ともポンチョを着込んでいた。ドクターは白、アランは緑のポンチョだった。
背中側の留め具を外したドクターは、一瞬身震いしたと思ったら背中で何かが蠢いた。その何かは急速に成長し、瞬く間にドクターの身長の二倍ほどある羽となった。
「羽って収納式なんだ……」
「こんなもの、常に生えていては邪魔になるからな。服も飛行専用のものを着なければならないし」
ほら、と背中を見せられると、羽の生え際の生地が大きく裁ち切られていた。なるほど、そのためのポンチョか。
「安定重視だと100キロまでしか運べないが、アランとサミュエル君の体重と荷物を合わせても越えることはないだろうから安心しろ」
「そんな運べるんですか?!」
改めて、天使という生き物に感嘆した。道の整備がされていないことにも納得いった。空を飛んで荷物や人の運搬ができる天使がいるのなら、わざわざ労力をかけてまで道を作る意味はないのだろう。
ドクターはアランと手を繋ぎ、次いで僕に手を伸ばしてきた。背中の荷物を背負い直し、ドクターの手を取った。
「それでは飛ぶぞ。目標地点、マリシュキン神聖育成所。方角、東南東。距離、おおよそ120キロ」
瞬間、強い上昇感が襲う。思わず目をつむってしまった。ドクターに気遣う余裕も無く、その小さな手を強く握る。
上昇が収まり、おそるおそる目を開けると、既にそこは空の上だった。
「うわ?! これどうなってるんですか?!」
「天使は触れたものの重力を無視させることができるんだ。だから今私の手を離せば落下するぞ」
「こ、怖いこと言わないでくださいよ……」
ドクターの手を握り直す。既に手汗で滑りそうで怖くなっている。高いところ自体は平気だが、流石にすがるものがドクターの手しかない状況は厳しいものがある。
ドクターは羽ばたいて、目的地に向かい始めた。病院ももうあそこまで小さくなってしまった。
相当な速度で移動しているはずなのだが、どういう訳かそよ風程度の風しか感じない。これも天使の能力なのだろう。
「天使ってすごいんですね!」
「天使よりも君の方がすごい」
間髪入れずに返された言葉に少しムッとしてしまう。それが手の握り方で伝わってしまったのか、ドクターに怪訝そうに問いかけられた。
「どうした、サミュエル君」
「……今は僕がすごいって話をしたいんじゃなくて、あなたや天使がすごいって話がしたいんです」
もやもやとした気持ちのまま受け答えしてしまったため、困らせてしまっても仕方ないと思ったが、ドクターは「ふ」っと息を漏らして続けた。
「君は可愛げはないが、素直でとても好ましい。その若さを大事にしてもらいたいものだ」
ドクターの顔は見えなかったが、笑っているのだろうことを直感した。いつかドクターの満面の笑みが見てみたいと思う。
「目的地まで二時間かかる。私との別れが寂しいのなら、ここで気が済むまで話をするがいい」
ドクターと初めて会ったときは、音声ガイドと話しているような印象があった。しかし、今となってはただ不器用なだけなことがわかる。神と天使の立場や種族の違いを重く捉えすぎているのだろう。この世界ではそれが当たり前なのかもしれないが、僕にはそれが酷く不自然に感じられた。
「それじゃあ、ドクターのこと教えてくださいよ! 僕のことも教えるんで!」
「私の過去など面白みはないぞ」
「それでもいいんで! むしろ面白かったら、僕の話とは釣り合わなくて困っちゃいますし」
僕とドクターの団らんは育成所に到着するまで続けられた。
退院して医者と患者という関係が終わり、神と天使という関係に拘泥する者がドクターしかいない今だからこそ、お互いラフに話ができたのだろう。想像もつかないドクターの経歴に驚き、僕の話を聞いたドクターは曖昧に微笑んだ。
眼下に広がる景色も、徐々に建物が増え、やがて都市と呼べるような街になっていった。ひときわ大きな建物が見える。恐らくあれが『マリシュキン神聖育成所』なのだろう。
ドクターはその建物の上で旋回し、高度を下げて門の前に着陸した。突然襲ってきた重力に足下がふらつく。
足取りが確かになってきたところで、ドクターは僕に向き合った。
「ここでお別れだ。入学書類は忘れていないな」
「はい、持ってます」
「……君はきっと、ここで様々な苦労をする。それは他の神以上のものだろう。それでも、私は君がそれを乗り越えることを期待する」
「任せてください! また会いましょうね!」
「ああ。アランもサミュエル君のことを頼んだぞ」
「うん!」
今までずっと会話に割り込まないようにしていたアランが元気に返事をした。ドクターにとってはアランより僕の方が幼児扱いらしい。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってきまーす!」
「またな」
これまでの話がサミュエルの目覚めの物語である。この世界での初めての友人であるドクターと別れ、天使として欠陥を抱えたアランと共に門をくぐる。
様々な意味で困難を抱えたサミュエルだが、幸いにも彼は楽天的であった。良くも悪くも先のことを深く考えないことが、吉と出るか凶と出るかは事態が好転・悪化した時にしか分からないし、今はその時ではない。未来など、どんな『権能』を持った神だろうが知ることはできないのだ。
しかし、未来予知とは言わないまでも、推測を立てることはできる。この時点で「神と天使の違い」を単なる種族の違いとして捉え、天使と対等な関係を築こうとしていることは、彼自身の立場を大きく変えることになるだろう。
その変化を良しとするか、悪しとするかはサミュエルが決めることである。彼がこの世界を知り、どのような結論を出すのか、ドクターは気に掛かっているようだ。
そんなドクターの思いを引き継ぐかのごとく、天使と手を繋いで歩みを共にする奇妙な神を見る目は四つあった。
全てはまだ始まったばかりである。
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