プライマルデート ~後編~
1400時/美術館
「な、なんかキンチョーするね」
駅からバスで約30分の場所にある市立美術館に俺と日向は立った。
近代的な建物の周囲にはやや郊外に位置していることもあって緑が生い茂っている。とても優麗な佇まいだ。
「『レンブラント展』……レンブラントってなに?」
「画家の名前。今日はその人の作品だけが展示されてる」
ぶっちゃけた話、俺は元々今日この日にレンブラント展に行くつもりだったのだ。日向が承諾してくれて良かった。
エントランスをくぐり、お土産コーナーを通り過ぎ、受付へと歩む中も日向はきょろきょろと忙しない。
「どんな画家さんだったの?」
「さっきも言った通り俺は芸術に明るいわけじゃないから、そらで解説できる程の知識はないんだ。でも中に入れば解説文が掲示されてるから大体のことはそこで知れる。レシーバーから解説が聴けるサービスもあるけど、利用は好き好きで分かれる」
「どして?」
「レシーバーの声に鑑賞を阻害されたくない派がいる。ちなみに俺は――」
「つけない、でしょ?」
「あたり」
「カノジョだも~ん♡」
余談だが、ゴキゲン日向はずっと俺と手を繋いでいる。形はもちろんLJ。
そろそろ受付に差し掛かる。入館料は大人二千円、学生千円と安い。
運営も大変なのだから、学生はともかく大人はもっと高くていいと思う。
「携帯の電源切っといて」
「おっと了解」
お札で入館料を支払い、俺と日向は厳かな雰囲気の『レンブラント展』へと踏み入る。
光と闇。
明と暗。
栄華と荒廃。
芸術界において一時代を築いたレンブラントの生き様を凝縮した美の森を、俺はしみじみと、日向は初めての体験として一歩一歩探求していく。
森を抜けるまで俺と日向の間に、会話はなかった。
◇
1500時/美術館エントランスホール
「はぁ……すごかった……」
約一時間ぶりに日向は声を発した。
じっくり時間をかけて食い入るように解説文と絵を眺めていたあたり、適性はばっちりだったと思われる。
「椎名くんが言ってた意味わかったよ。あの空間ヤバ過ぎ。すっごく穏やかな気持ちになれる」
「芸術って凄まじいよな」
「うん。半端ない満足感がある。でもこれってまだ表面なんでしょ?」
「きっと芸術への知識と教養と感性を追求すれば、もっと大きな感動が待ち受けてるんだと思う」
「もうそれ宇宙じゃん……まともでいられないよ」
日向の豊かな感受性は俺の伝えたかったことを漏れなく受け取ってくれている。
歴史上の人物はもとより、凶悪な犯罪者の中にも芸術を愛好する者は多くいた。芸術とは宇宙のように広大。故に人を惑わし、狂わせる。
「来てよかったぁ。でも感動疲れみたいなものはあるから、来るのはたまにでいいかなぁ」
「同感。たまにだからいい」
つくづく馬が合う。今度はミレー展に連れてきてみよう。
「よし! お土産屋で『夜警』Tシャツ買ってくる!」
「絶対着ないからやめた方がいい」
我が家のタンスに封印されしゲルニカTシャツもそう言っている。
美術館の運営には必要な収入源だから本当は止めたくないのだが、今日は結構お金を使わせてしまっているので、申し訳ないが止めさせていただきます。
使用金額
椎名:¥1,000 計:¥15,000
日向:¥1,000 計:¥6,800
◇
1530時/カラオケ
1730時に予約しているレストランまで時間を潰すため、俺たちはカラオケボックスへ入店した。
「椎名くんのハジメテはいただくぜ!」
意気揚々とマイクを掲げる日向はカラオケが好きなようだ。俺は初めて。
余談だが、美術館を出てからも日向と俺はLJ略。
「自信がないよ笑っちゃうな――♪」
日向は最近よく聞く女性アーティストの有名曲を歌っている。上手い。
「時が二人を追い越していく――♪」
「布施明っ、そして上手いっっ」
なんでもかんでも合うわけじゃない、か。
使用金額
椎名:¥1,200 計:¥16,200
日向:¥0 計:¥6,800
◇
1730時/ビュッフェレストラン
レストランに着いてからの日向は、色取り取りの色彩と旨味に富んだビュッフェを間に、ずっと笑顔で弁舌を奮っていた。
候補に挙がりこそしたが今日行けなかった店の話。
セレクトショップで試着した他の服の話。
パキ油さんの話。
バイクとタンデムに必要な装備の話。
海を始めとした夏の過ごし方についての話。
美術館とレンブラントについての話。
カラオケの話。
そして日常の話。
学校ではまだまだ俺の悪評が絶えない話。
負けてなるものかと闘志を燃やす話。
小学校低学年の頃からの付き合いだという月代の話。
本人も忘れているような月代の失敗話。
月代とはずっと親友でいられるだろうと確信している話。
俺にも月代と仲良くなってほしい話。
そしてやっぱり――、今日という日はとても楽しかった話。
使用金額
椎名:¥4,000 計:¥20,200
日向:¥0 計:¥6,800
◇
1920時/バス停留所
日没時間を過ぎたこともあって周囲は既に薄暗かった。
ここからの帰路はバスであるが、お互い路線は違うものなのでここで解散となる。
「ん~~! お腹いっぱい♪ ごめんね最後出させちゃって」
買い物袋を片手に背伸びする日向の足取りは軽い。その佇まいには充実が伺える。
「わたし、バイトする」
突然のバイト宣言。これは必然かもしれない。
「今日は付き合い始めて初めてのデートだからフルコースで遊んだけど、やっぱしお金かかるね」
確かに毎度このくらいデートをするのは不経済だ。というかこの国は物価が高すぎる。
「バイトしてる椎名くんと同じくらいの余裕をわたしも持たなきゃ。どう思う?」
「学生でありながら労働の是非を自分で決められるのは、立派なことだと思う」
つくづく日向はしっかりしている。男に寄りかかる発想は欠片もない。
「ありがと。それに使えるお金が増えれば、もっと色んなことができる。色んな場所に行ける。椎名くんと、彼氏と。……でも」
歩み寄ってきた日向はこつんとおでこを我が胸元に寄せてきた。
「一緒にいれる時間、減っちゃうかも」
周囲に人の気配はない。今ここは俺と日向だけの世界だ。
「得るものがあれば失うものもある。日向にとって、どちらの価値が高いかだ」
「ダントツ♡」
バスのヘッドライトが俺たちを照らし始めた。
あれは日向の乗る路線のバスだ。お別れが近い。
「椎名くん」
日向の手が腰に回る。
可憐な真顔が見上げてくる。
「ずっと、仲良しでいてね」
くんと俺のシャツが下方へ引っ張られた。
これは日向からの要求だ。その心は――、
「ん」
初デートの締めくくりに相応しい、フレンチでありながらしっかりとした愛情表現――、キスをちょうだい、だ。
「っ、じゃね」
目を合わせられないレベルで照れくさがる日向は停まったバスへ駆け込み、バイバイと手を振りつつ去って行った。
おそらく今のやり取りは車内の客に目撃されていただろうから、それに気づいて悶絶する日向の姿は想像に難くない。
少々のエピローグを残しつつ、我が人生初のデートは終わった。
内容を振り返り、自己採点を行なう。敢えて点数をつけるなら――、
「100点、かな」
◇
2100時/スチームネット
kaoru_hinata:こんばんこー
mizuki_shiina:こんばんは
kaoru_hinata:無事帰宅してお風呂済ませました
mizuki_shiina:こっちも丁度
kaoru_hinata:しかしあれだね
kaoru_hinata:ごっっっつ照れるぜ
mizuki_shiina:キスの余韻だ
kaoru_hinata:言うなっっ
kaoru_hinata:わかっとりゃーぜ
kaoru_hinata:なんか椎名くんふつー
kaoru_hinata:まさかなんとも思ってない?
mizuki_shiina:もともと緊張とかはしないタイプだ
mizuki_shiina:でもキスした時の日向は
mizuki_shiina:今までで一番可愛かったし
mizuki_shiina:日向以上に可愛い子なんていないと改めて確信できた
mizuki_shiina:絶対一生忘れることはない
mizuki_shiina:目を瞑れば蘇る
mizuki_shiina:とてもいい匂いで
mizuki_shiina:とても甘くて
mizuki_shiina:とても温かくて
mizuki_shiina:何度でもしたいと思った
mizuki_shiina:それくらい可愛かった
mizuki_shiina:可愛かった
mizuki_shiina:可愛かったんだ
kaoru_hinata:♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
mizuki_shiina:文字化けしてるな
mizuki_shiina:デベロッパに連絡してメンテしてもらう
kaoru_hinata:恋のデベロッパにメンテは無粋じゃぜ
mizuki_shiina:まだ化けてるな
kaoru_hinata:おい
◇
22時/自宅
しばらく続いた日向とのやり取りを終えた俺はPCの前に座り、とあるエクセルファイルを開いた。
表示されているのは背景や掛線の色すらも変えていない格子枠で、数十の項目と○×のプルダウンが設けられた質素な表だ。
幾つかの項目に○を入れて上書き保存。そして印刷。
ファイルはPCと外付けHDDとクラウドストレージへ保存。
印刷した表は折り畳み、携帯用鍵付カードケースへ仕舞って通学カバンに突っ込む。
これでいつ何時、たとえネット環境がなかろうとも、俺がどこにいようとも最新の情報を書き込める。
「フンフンフンフン、フン、フン♪」
初めてのカラオケの余韻を思い起し、大好きな曲を再生しながら声に出して歌ってみる。
「ママ~~ウ~ゥウ~♪」
我が指と眼は既に明日の日銭を稼ぐべく作業を開始しており、すこぶる滑らかだ。
「アイドワナダ~イ♪」
今宵は作業が捗りそうだ。
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7月4日(日)
1100時/バイクショップ
「ついにこの日が来たっ!」
初デートの翌週。
俺と日向は改めてバイクショップへとやってきた。
「言われた通りラフであったかい恰好してきたけど、こんなんでよかった?」
「バッチリ」
デニムパンツとスニーカーとパーカーを着てきた日向もまた、可愛い。
俺もデニムとブーツと薄手のPコート風ジャケットを着ている。
「日向、これ」
出来上がったメットを渡すと、高めだった日向のテンションは更に熱を上げた。
「カワカッコイイ~‼ もうこれは家宝にするしかない! ありがとダーリン♡」
これでもかとちっちゃいハグをいただいた。相変わらず大きな包容力だ。
余談だが、キスは先週以来12回しかしていない。実にプラトニックなお付き合いと言えるだろう。
「んでこれが椎名くんのバイク? わぁぁ、かっちょいいっ」
我が愛車『YAMAHA SR400 60th Anniversary』を日向は爛々とした眼で眺めている。気に入ってくれたようだ。
「黄色と黒のカラーリングが洒落てるね。60thってことはこの子還暦なの?」
「厳密に言えばメーカーが。でも車種自体も40年以上の歴史がある」
「へぇぇ、おっちゃんなんだぁ。ちなみに名前は?」
「SR400」
「それは車種でしょ? じゃなくてこのおっちゃんの名前だよ。かおる、みづき、みたいな」
「……いや、ない。そもそも単車に名前を付ける文化自体がない」
「ダメだよつけないと! 名前をつけることで初めて物に命が宿る! 特に命がかかってるんだからちゃんと愛してあげないと持ち主のことだって守ってくれないよ!」
また変なスイッチが入ったなこの子。
「もうこうなればわたしがつける! よし、ガリガリガリクs」
「ごめん日向、俺のバイクだから俺が名付けるのが筋だと思う。でないと俺を守ってくれない」
「それもそっか。ちぇっ、せっかくいい名前が下りてきたのに」
乗り物につけちゃいけない名前ランキングの上位だろうに。
「じゃあ何て名前にする?」
「……トラ、さん」
走るのが好きな黄×黒模様の中年陸上動物、虎のおっさん、略してトラさん。……我ながら安直か。
「いいじゃんそれ! えー、わたくし生まれも育ちも東京葛飾柴又です。渡世上故あって、親、一家持ちません。カケダシの身もちまして姓名の儀、一々高声に発します仁義失礼さんです。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します、的な⁉ 椎名くんも寅さん好きだっんだぁ‼」
世界一可愛い俺の彼女はわけがわからないことを宣った。
なにかとんでもない扉を開けてしまった気がする。
「んじゃ椎名くん、トラさんでドライブへGO!」
その後、めちゃくちゃ安全運転で街中を走った。我が愛車SR400改め、トラさんに乗って。
「バイクサイコ~♡ でねでね、全部で50作あるから夏休み中に二週できる計画をビキビキに立ててぇ」
初タンデムにはしゃぎながら空恐ろしいことを提案する日向の笑顔を背中越しに感じながら、物思いに耽る――。
あの夜を超えて今日という日にたどり着けて、本当によかった。
……のだろうか。議論の余地はあるかもしれない。