別れ
「今日で俺はお前とお別れだ」
旅に出てから10日、人が大勢いる市場の真ん中でなにげなく彼は言った。喜びも悲しさもにじんでいない声は最後まで暖かくなることはなかった。しかし彼の心の温かさには触れることができた。
その鳥面もはじめこそ不気味で恐ろしいと思ったがよく見ると愛嬌のある顔立ちをしていることにようやく気がついた。なにしろ、彼が冷酷な人間ではないということがわかった。
だが彼は《《お別れ》》と言った。これから共に夕雩を討ち果たす仲間になれると思ったのにどういうことか。
「あなたはもう……その『隠れ里』から離れるの?」
「離れるというか……」
男は困ったように肩をすくめた。
「俺はそんな身分ではないんだよ。上のヤツラに頼まれた仕事はあんたを無事に送り届けること。そっから先、俺は御役御免だし放っておかれる」
自嘲するように彼は言った。
黒い羽織が寂しそうに風でゆれた。前を歩く彼の小さな翼も頼りなさげに揺らいだ。
無駄話をしてしまったと足を速めようとした彼の手首を揲はむんずとつかむ。そのまま彼と睨むように正面から向き合い一息で「賭けをしよう」と言ってやった。
男が呆れたように頭を掻き、ため息を一つつく。
「あのなぁ……自慢じゃないが俺の運の悪さは筋金入りだ。賭けにならないよ、俺は賭け事の神さんに嫌われている」
「そんなのやってみないとわからない。そうね……この通りの提灯の一番最後の柄をあてることにしよう。二人とも外したら引き分け、私が勝ったら……その金時計をちょうだい」
揲は彼の腰にぶらさがっている金の時計を指さした。え、と彼が守るようにそれにふれる。
「冗談じゃない、俺は降りる」
再び速足で行こうとする彼の背中に「あなたが勝ったら」と呼び掛けてやる。
「あなたが自由になる手伝いをしてあげる」
ピタリ、と彼の動きが止まった。
やはり自由に焦がれているんだ、と揲は彼の背中に思った。
人の最大の欲求は富と愛とそして自由、そうある本の偉い学者が説いていた。その欲求が全て満たされると人は幸福を感じると。その考え方はおかしいのではないかと昔の揲は首をひねっていた。貧しくても家族に囲まれて幸せな人もいれば、周りに誰もいなくれも自分の好きなことをやって幸福を感じる人もいる。三つの欲求が全て満たされていなくても幸せにはなれる。
でも全て奪われたら当然のように幸福は踏みつぶされる。地下牢に入れられて痛いほどよくわかった。ひもじくて、孤独で、そして自由になれない。なかでも自由を奪われるとかろうじて保たれていた精神が壊れる。
揲もまたそうであった。このまま男が迎えに来てくれていなかったら自らの首に刃を突き刺していたかもしれない。いわば彼は揲の命の恩人とも言えた。だからこそ幸せになって欲しい、殻を破ってほしい。揲に与えてくれた小さな幸福を彼にも返したいのだ。
いつも彼の背中は寂しそうだった。そんな彼が自由を手にしていないのではと思ったのには理由がある。共に過ごした時間の中で彼が自らの意思を示したことが一度もなかった。揲を攫ったのも命令されてのことだ、自分の決断ではない。どこか窮屈そうに生きているように見えるのだ。
「あなたは誰かに指図されるのを嫌っているでしょ?でも命令されなきゃ何もしない気がする」
偉そうな物言いだったが鳥面の瞳はジッと揲の瞳を見返してきた。
「……呪われているからな《《俺たち》》は」
どういうこと、と聞こうとしたが刹那その呟きを忘れたかのような男の明るい声音に何も言えなくなる。
「いいよ、賭けをしようじゃないか」
提灯の柄は全部で十ある。「龍」「蛇」「鮫」「狼」「百足」「鷹」「獅子」「虎」そして「潝」。
潝とは胤国で清い水を表し提灯には翡翠色の川とその傍に小屋のようなものが描かれている。
この国は極夜であるから提灯は生活にかかせない。市場ともなると何百もの提灯が必要になる。十種の明かりは無作為に並べられそれぞれの美しさが際立っていた。規則性あるようには見えず賭けにはちょうどいいだろう。
「俺は潝に賭ける」
「私は虎」その言葉に彼はピクリと小さく反応した。
「俺に勝たせようとしているのか?」
違う違うと揲は笑いながら首を振った。
胤国は龍が治める国と古より伝えられてきた。国を治める器を持つ者は真龍と呼ばれ王座に座ることを許される。そんな龍の敵は虎だと言われていた。理由は定かではないが『龍虎』という言葉の通り仲は険悪らしい。
そのため龍の国である胤国では虎がこっぴどく嫌われていた。虎を神とあがめる『朱華教』は禁教とされ信者は引き回しの上死罪。虎の提灯も過激な愛国心を持つ人々によって破壊されることが多くしだいに数も減っている。つまり最後の提灯が虎である可能性は限りなく低いのだ。
「……なんとなく頭に虎が出てきたの」
そうか、と男は聞こえるか聞こえないほど小さな声で言った。
「言っておくがこの市場は死ぬほど長いぞ」
彼によるとこの市場は有名な場所らしい。行商人や旅の一座が行きかう賑やかな街を揲は歩きながらだんだんと好きになっていった。
ふとむかいから走ってくる若い男の前掛けを見るとそこには『火曛油座』という文字がかかれている。
「本当にいろんなところから人が来てるのね」
感心してように揲が言う。すると前をむいたまま男がどこか誇らしげにふふんと鼻をならした。
「まあな、天下の東市だからな」
「東市っていうの、ここ?」
揲がそう問うと彼は慌てて「名前だけしか知らん。ありきたりな名だよな」と付け加えた。確かにそうかもしれないが簡単な名に込められた市場に対する民の愛情は深いものなのだろう。
「ここ、どこかの東にあるの?」
「さあね、詳しいことは知らないと言っただろ」
苛立ったような彼の返事。いつも通りといえばいつも通りなのだが何だか話そのものをしたくないような物言いだ。男に気をつかうあまり揲の口数は自然と少なくなっていった。基本的に彼から話しかけてくるのはほとんどないため結果、無言で市場を歩くことになる。10日前はこの空白の時間など気にならなかったが今は違う。何か話さなければと焦った気持ちになってしまうのだ。
しばらくして、その沈黙をみかねたのか一粒の水滴が揲の頬に落ちてきた。雨だ、と天を仰ぐとそれは空からの弾丸のように強く激しく襲ってくる。
今日はもう宿を探すのだろうか。チラリと男を横目でみると彼はしばらく止まったまままばたきもせずに空を見上げていた。
やがて急に揲の手首を掴んで彼は走り出した。
「近道を知ってる、急げ」
揲を地下牢から救い出してくれた日と同じようにひたすら走った。近道だという通りの右手にある小さな道は提灯もなく人もほとんどいない。ガラクタ置き場のように使われている場所だった。
突然、「なあ」と前をむいたまま男が静かに話しかけてきた。
「俺は自由に生きているようには見えないか?」
答えにつまる。揲自身が自由だ何だの言い切ったくせに彼のいつもと違う少し動揺しているとも感じられる姿に何も言えなくなる。
チラリと見えた鳥面に雨粒がつたって涙のように見えた。
「……自由に生きてるかなんて自分が一番わかってるでしょ?」
ずるい女だ、すぐに逃げるような言葉を口にしてしまう。そんな中途半端な自分がどうしようもなく嫌いだ。
「……自分が一番わかってる、か。……それもそうだな」
ビシャン、と男が派手に水たまりを散らばした。泥水が地に水玉模様を器用に描く。
どのくらい走っただろうか、目の前に黒い門があらわれたところで男は止まった。闇夜にまぎれたその門はなんだか不穏な気配を感じさせた。
「ここでお別れだ、その扉を開ければ新しい世界にいけるよ」
そう言った彼の鳥面がほほ笑んだように見えた。幻覚だとわかっていてもその笑みは確かに揲へやすらぎを与えてくれた。
揲は小さくうなずいて扉に手をかけたあとゆっくりと振り返った。
「やっぱり一緒に行こう、旅の終わりはここだもの」
男の右手首を掴んで強引に門の前に立たせる。彼は「しかたねぇな」と困ったように言った。その言葉にはほんの少しのうれしさもにじんでいるように感じた。
「よし、重いから気をつけろよ」
2人で重い扉を押した。なんの合図もしていないのに両開きの門はきれいに開かれた。怪獣の唸り声のような音と共に世界が広がっていく。
門を開けるとそこには1人の男が雨に濡れながら立っていた。遠目から見ると男か女かもわからなかったが腰に帯刀をしているから男だろう。整った顔をしており、黒髪をきっちり後ろで一つに束ねている。その細い腰には玉のついた銀色の組みひもを3本、翠色の組みひもを1本ぶらさげていた。
「お待ちしておりました、籠鶯殿」
「籠鶯……?」揲の戸惑った声を無視して細身の男は舐めるような視線をむけてきた。
「これが例の……」
「そうだ、稀珀の残党の娘一匹。篤驥殿、あんたのご主人もご満足だろ?」
ええ、と篤驥と呼ばれた細身の男が笑みを浮かべた。
彼らの会話に違和感を覚えながらも揲の胸では興奮のほうが勝っていた。
あたりをきょろきょろと見渡す度に胸が高鳴る。広い庭のような場所で塀の中に大きな建物が2、3個分かれて建っていた。絮璆にある王宮よりも大きいかもしれない。
これなら夕雩を討てる、と思った揲の心は次の瞬間あっけなく壊された。篤驥によって体を縄で縛られたのだ。
何が起こったのかわからなくなり、息をすることも忘れて男の鳥面を見た。次の瞬間わなわなと唇や手が震えだす。
「……どういうこと?」鳥面男の顔がゆがんでみえた。それが涙によるものだと揲は見なくてもわかっていた。
「私を……裏切ったの?全部嘘だったの?」
彼は黙って揲を見下ろした。それがその問いへの答えだった。
「篤驥殿、約束は守ってもらうからな。あんたらが一年半血眼になって探したこの娘を俺は一月でみつけたんだ。少しは色をつけてくれても罰はあたらないと思うぞ」
篤驥は苦笑しながら頷いて鳥面男の右手に袋をのせた。ジャリンという金の泣き声に絶望した気分になる。
「しかし籠鶯殿とはいえ焦ったのではないですか?約束の期限はこの雨がやむまで、わが主は気が短いですから」
「……これくらい余裕だ。けどね、もうガキのおもりはやらせるなと伝えておいてくれ。俺には向かないし、第一子供は嫌いだ」
そして鳥面男は縄で体を縛られた揲に目をやった。揲と視線をあわせるようにしゃがむとその額を軽くこづいた。
「次に飼われる場所は良いところだぞ、せいぜい殺されないようにいい子にしてな」
「……私はお前を許さないからな」
唸るような声でも彼がおびえることなどあるわけがなく、その呪いめいた言葉は所在なさげに闇夜をさまよった。
「……恨むなら天を恨め、自由にはなれないんだよ。お前も俺も」
あばよ、と鳥面男は立ち上がって揲に背をむけた。
黒門の外に消えゆくその背中には揲が縫った小さな羽が生えていた。疲れのせいか「嘘つき」と怒り狂って叫ぶことすらできずに揲は彼の背の羽をぼんやりとみつめていた。
揲の怒りの着火剤となったのは篤驥が吐いた衝撃的な言葉だった。
「さて、あなたは今から夕雩の者です」
視界が真っ黒になってグルグルと回ったように感じた。