関所
3日ほど歩き、ようやく揲たちは森を抜けて関所へたどり着いた。人々の笑顔あふれる空気が疲れた身体をゆっくりと癒してくれる。
大きな関所らしく旅芸人、武士、行商人など様々な人の姿が見受けられた。その中でもやはり男の鳥面は異質だった。おかげで迷うことはなかったが道行く人は皆、彼をチラチラと盗み見るため近くにいる揲にまで視線が集まりこそばゆい。
少し男と距離をとろうと歩調をゆるめたその時だった。闇夜を切り裂くような鋭い叫び声が人々の間を通り抜けた。
人の声だと認識するまでに1秒、声の主を探すまでに1秒かかった後、揲の身体は勝手に動きだした。
みると15、6の娘を3人ほどの兵士が取り押さえている。一瞬、王宮からの追手かと肝を冷やしたがよく見ると着物に施された家紋が違う。さらに皆、帯に色とりどりの組紐を何本かつけていた。
3人のうちの1人——ひげ面の武骨な男が娘の腕を引っ張った。
「助けて」としわがれたけれどもよく通る声で彼女が叫んだ。
思い出される、記憶。『近頃10から15あたりの女の子がみんな火曛に集められてねぇ』そうのんびりとした口調で言った商人のたるんだ顔が脳裏に浮かんだ。
彼のようにまた、町の人々は誰も少女を助けようとはしない。鳥面をつけた男のことは物珍しく見るのに今にも連れ去られようとしている少女のことは鳥が空を飛ぶように当たり前も出来事として捉えている。
揲がこの土地は妙だと感じ始めたのはこの瞬間からだった。
まず手始めに揲は泣き顔を作って兵の一人にぶつかった。
「何すんだ、このガキ⁉」
「ごめんなさい。でも大変なんだ、兵隊さん助けてくれ!むこうで火事があった。風が強いからすぐこっちにも火の手がまわってくる!どうにかしてくれ!」
「何をバカなことを…火の手など見えぬではないか」
あからさまに嫌な顔をしてひげ面の兵士が言った。同時に彼の立派なヒゲももぞもぞと動く。
口からのでまかせで言い返せず揲はだまって唇をかみしめた。
それみたことか、と兵士の勝ち誇ったような声が聞こえた。
「あれ、ご存じない?先日、絮璆の王宮であった大火事の原因」
背後からのくぐもった声に揲はハっとする。見なくてもわかる、鳥面男だ。勝手にいなくなった揲を追いかけてきてくれたのだろう。
彼の言葉に子供の戯言だと軽く受け流していた通行人のざわめき声が大きくなる。
「酒ですよ、酒。地面にこぼれた酒に松明の火が引火してあたりは炎の池になったと。
でもたかがそれだけで大火事になるなんて少し考えると妙ですよね?
龍のように大きい王宮が骨組みだけになってしまうなんて」
龍なんて見たことありませんけど、と笑ってつけたす彼。嘘よ真実がいりまじった言葉を流暢につむぎ疑う余地をあたえさせない。
面をつけているため表情はわからないが頭の良い子供が書物の一説をそらんじてみせるように涼しい顔をしているのだろうと思った。
「何が言いたい?」
「いやぁ、あんたの酒もおいしそうだからさ」
鳥面男が兵士の腰にぶらさがった酒瓢箪を指さす。
「おたくのお城も燃えてしまうかもよ」
風がピューと人々の間を通り抜けた。
「……馬鹿なことを申すな」
髭兵士の声はかすれ気味で、その手はわなわなと震えていた。怒りを覚えているのか、あるいは鳥面男を恐れているのかわからなかった。
揲はというと後者だった。娘が連れていかれそうになっている怒りよりも鳥面男の平坦で空虚な声が心臓をくすぐられたような、そんな不気味で暴虐的な感覚を作り出しひどく恐ろしかった。
ひげ兵士は揲たちに、自分は彼らに怒りを向けているのだからもちろん怒りの種類は違う。けれども怒りは恐れに勝てないのではないか、と小さな両手にそんな答えを導き出した。
だとしたら私の復讐はあっけなく握りつぶされてしまうのではないか——。
誰に、とは考えたくなかった。あの名前が頭に浮かぶだけで揲の怒りの炎はとどまることを知らず心をすべて燃やし尽くしてしまうから。
「炎はどんな形にだってなれるんだよ」
自分でも驚くほど冷たい声がでた。
火は感情と同じだ、自由に形を変えて見えないところでくすぶっている。自分でも気づかないその火種は小さくとも確実に何かを燃やし続けている。
「はやくしないとみんな黒焦げになるよ」
揲の一言にあたりは水を打ったように静まり返った。
やがて、ごうごうとそれこそ炎を連想させるほどにまわりが騒ぎだした。阿鼻叫喚とまではいかないが悲鳴や怒声がいりまじったその空間は異様としか言えなかった。
ひげ兵士がチッと舌打ちをして揲に背をむけた。残りの二人を引き連れて人込みをかきわけていく。彼らが通ることでできた空間も数秒後には慌てふためく人々にのみこまれた。
ぼんやりとした様子でとりみだした関所を眺めていた揲は「おい」という声に冷や水をかぶせられたような気持ちになって慌てて振りかえった。
みるとそこにはことの成り行きを見ていた鳥面男が立っている。
「あんたもいっぱしの口をきくんだな」
感心しているようで皮肉ともとれる言葉だった。
そして彼は先ほど襲われた娘と視線をあわせるように膝をついた。
「大丈夫か?」
地面にへたり込んでいた娘はええ、とうなずき立ち上がろうと壁に手をついたところで顔をしかめた。みると右足首が真っ赤に腫れている。
「さきほどのもみあいで足をひねってしまっただけです」
情けなさそうに笑いながら彼女は言った。
「少し足を見せてくれますか?」
そう言って彼は返事もまたずに娘の足を手に取った。
患部を人差し指と中指でなぞるとみるみる腫れがひいていく。驚いて思わず身をのりだしてしまった。
まるで彼が妖術でも使っているようで摩訶不思議な気持ちが揲の心を包み込む。
それは足を直してもらった娘も同じらしく、口を小さくあけて自らの足を凝視していた。
「あなたは仙人なのですか?」
彼女の声は震えていた。本音は違うのだろう。
きっと彼女は「あなたは悪魔なのですか?」と聞きたかったのだ。不可解な出来事は悪魔の所業、それがこの国での認識だった。仙人なんてものより、人間に魔力という毛が生えた悪魔のほうがよほど身近で想像にたやすかった。
「悪魔じゃなくて仙人ねぇ……」
ふふっと鳥面の下から笑い声がこぼれた。
「でも残念ながら妖術を使ってるわけじゃないんだなこれが。
聞いたことない?『龍爪草』。俺はそれをあんたの傷にぬっただけ。
いやー、妖術か。いいなぁ、使ってみたいよ。そしたら博打も負け知らずなのに」
「俺は勝ち知らずなんだけど」と彼は声をひそめてつけたした。
プッと揲は思わず吹き出してしまった。それにつられたのか娘もころころと鈴が転がるように笑い出した。きれいで、可愛らしかった。この笑顔を守れたと思うと暖かい気持ちになる。
周りの慌てふためく声などまったく気にならなかった。