悪魔の矢尻
10日前 胤国首都 絮璆
『悪魔の矢尻』と初めて呼ばれたのがいつだったか、|揲《せ
つ》はよく覚えていない。ただそう呟かれた声は昨日のことのように記憶している。
何度目かの夕雩家との戦だった。女の身でありながら揲は一人で敵の一部隊を壊滅させた。返り血だらけで本陣に帰ると誰かが小さく呟いた。まるで『悪魔の矢尻』のようだと。
胤国では悪魔とは偽龍のことを指す。国を治める真龍と見せかけ民を惑わす偽りの龍。その偽龍の姿は龍のふりをした蜥蜴と言われていた。それもただの蜥蜴ではなく尾の先に毒をもっている。人呼んで『毒矢尻』。
矢尻とは矢の尻、先端の尖った部分の名称だ。矢尻だけでは当然人を殺すことなどできず、矢と弓と共に初めて武器と化す。つまり『毒矢尻』とは恐れを込めながらも所詮はいざという時役に立たない偽龍の臣だと内心軽蔑するような意味もあったのだ。
狂暴な揲を恐れた上官により彼女は薄暗く寒い王宮の地下牢に入れられた。
彼女は元来そのように荒くれた性格ではなかった。ただ、やり場のない怒りを抑えていられるほど大人でもなかった。だから中途半端な『悪魔の矢尻』なのだ。
彼女は14を数えていた。その年になれば胤国の娘たちは親が見繕った男に嫁ぎ、髪を真白に染め上げる。だが揲の髪は黒かった。それも烏の濡れ羽色といえるほど品のいいものでもなく、むしろ縮れた毛は薄汚れて野良猫よりも汚らしいものだった。髪だけでなく肌も服もすっかり黒ずんでその姿は化け物のようだった。
ただ一つ、爪だけは念入りに手入れされたように美しかった。揲の爪は生まれつき他とは違っている。なんと色が白ではなくガラスのように透明なのだ。まるで揲自身の心のように脆く、染まりやすかった。
胤国は極夜、つまりは日が一年中昇らない国であった。
人々は油がないと生活できず、油座が経済を台頭していた。四季というものもなく通年冬。地下牢ともなると寒さはひどく身体にこたえた。それでも揲はその現状を嘆かなかった。辛い、苦しいと泣きさけばなかった。生き抜いてやる、と自らの手の甲に刃で切り傷をいれ、空腹や寒さとたたかった。戦でつくった傷よりそのことでできたもののほうが多かった。
けれども痛むのはやはり合戦の怪我だ。自分に甘いということかもしれないが手の傷の数と反比例して痛みは減っていった。寒さにより感覚が麻痺している、もしくは人間の驚異的な順応性によるもの、あるいは両方が作用した結果なのか揲にはわからない。
いっそのことその刃で自らの喉をつきさし何もかも諦めてしまえば楽になれるだろうか。だがそんな勇気など生まれつき持ち合わせていなかった。小さな小さなその胸には憎しみをも超えたどうしようもない気持ちと一滴ほどの諦めが混ざり合い歪な模様を描いていた。
前者の感情は生への原動力と言えるものだった。自分から全てを奪った『ヤツ』の幸せを粉々に壊してやるまでは死んでも死にきれない。
復讐と疲れと、つまりは生と死がうごめいて揲をもんもんと悩ませた。お腹が減った、寒い、辛い、苦しい。今まで我慢してきた本音が一気にあふれ出す。
人とは生と死のはざまにたつとどうやら幸せなことを考えるらしい。『悲しい妄想癖』とでも呼ぶべきだろうか。揲は今までに二、三度そんな『悲しい妄想』をしたことがある。
視界は霧にまかれたように不鮮明なくせして音や匂いは自らが地下牢にいることさえ忘れさせるほどに有りのままの姿であった。
そうこうしているうちに頭がボーっとして目の前にいたネズミの顔が歪みはじめ、グルグルと視界が回った。手足の感覚がなくなり水中にいるような不可思議な心地になっていく。やがて真っ白な視界にやさしくて暖かい匂いが降ってきた。けして香炉が織りなすような良い香りではない。土と草の味が鼻の中でふわりと広がる懐かしい匂いだ。その心地よい香りは揲をこの世に留め置くには十分すぎるものだった。
ふるさとの香りがした、家族の香りがした、愛しい人の香りがした。今はもうない幸福が自分を呼び止める。聞こえるはずのない懐かしい声が遠くから揲の名を呼んだ。
「揲、揲……」冷たい風の中でも確かに揲はその声を見つけた。
「こっちに来るな」とどこか必死で寂しそうな声に再び目をあけようとした。
冷たい空気で一瞬何を見ているのかわからなかった焦点が合った後はひどく驚いて、寒さも手伝ってか唇がわなわなと震えた。
「誰……?」
ようやくそれだけを口にして男の陰を震える瞳で睨む。揲と男を隔てる格子が今はなんだか頼もしいものに思えた。
「俺はあんたを奪いに来た。おとなしくしろ、悪いようにはしない。」
悪党のはくような言葉と共に陰がのそのそと動く。その口ぶりから男が牢番ではないことは明らかだった。暗くて輪郭がうっすらと確認できるだけで顔はわからない。
突然、視界が白く弾けた。それが松明の日だと気がつくのに少し時間がかかった。しかしその光でようやく男の姿があらわになる。
彼の姿に揲は思わず後ずさった。無表情な黒い鳥の面、それと同じく真っ黒な羽織。腰につけている金の時計がやたらとおどろおどろしく見える。帯にぶらさげた酒もまた行儀が悪そうに揺れていた。
「俺が恐ろしいか?」
くぐもった声に揲はだまってうなずく。「そうか」と彼はつぶやき慣れた手つきで牢の鍵をはずすとゆっくり中へ入ってきた。
「夕雩の軍とどちらが怖い?」
「あんなものは怖くはない!」久しぶりに大声をだした。男は薄く笑って揲と視線をあわせるようにしゃがむ。
「怖がるな俺はあんたを飼い殺した王宮の者とも夕雩の軍とも違う」
「だからあんなの少しも恐ろしいなんて…」
そうだな、と彼はうなずいた。
「そうでなければ仇を討とうなどとは思わないだろう」
揲はハッとして息をのむ。揲が女の身で王宮軍に加わったのにはそれなりの理由があった。主である稀珀家を夕雩家に滅ぼされたためその仇討ちを目的に軍へ入ったのだ。
それなのに、と揲は唇をかんだ。
夕雩と敵対する王宮軍に入れば自らの手で夕雩を滅ぼすことができると思っていた。しかし結果は連戦連敗。王が空位になっている今、王宮軍などなんの役にも立たないことを思い知らされた。おまけに揲は地下牢に放り込まれた。
「もういい……帰って、早くしないと牢番がくる」
嘘というわけではなかった。いつも揲に夜食を持ってくる初老の兵士が今日はまだ来ていない。
しかしどうにかしてこおの不気味な男を追い出したいという気持ちもその言葉には含まれていた
。
「大丈夫、邪魔させないようにしてきた」
動くはずのない鳥面がニコリと笑みを浮かべたような気がした。それと同時にゾワリと冷気が背をくすぐった。
ただものではない、と揲の直感が懸命に叫ぶ。
「あなたは……何なの?盗人?言っておくけど私は金になるものなんて持ってないから。それとも何?みじめな姿を笑いに来たの?」
王宮であるここに盗みが入ったことは今まで一度もなかった。いや実際には盗みをはたらこうとした不届きものも何人かはいたかもしれない。
ただ、成功例を聞いたことがない。牢に入っていても外の噂は耳にはいる。しかし今地下牢には揲以外の罪人はいなかった。たまにネズミが迷い込んでくるだけだ。
それだけ警備が厳重な王宮に入り込むのはよほど優れた運動能力を持つものかただの阿呆だ。男はどちらでもないような気がした。その細い体躯は揲がみてきた多くのもう省都は似ても似つかず、かと言って彼が纏うどろどろとした雰囲気は並みの人のものではなかった。
た雰囲気は並みの人のものではなかった。
そう眉を寄せて考えていると何がおかしいのか男は急に笑い出した。
「真剣な顔して面白いことを言うな。あんたをみじめだなんて恐れ多いこと考えるわけがないだろ」
強いて言うなら、と男は少しの間考える素振りをみせた。
「そうだな、俺はあるお方に命じられて今日だけ盗人になる」
「あんたという宝を盗むために」と男は不敵な笑みを浮かべて揲に一歩近づいた。
そして腰にぶらさげていた瓶を手に取り上へかざした。
「王宮にあった酒だが……いい色してやがる。百姓の日焼けと同じ色だな」
吐き捨てるようにつぶやいて彼はその瓶から手をはなした。
ゆっくり、けれども速く瓶が床にたたきつけられる。ガシャンという音と共にガラス片と冷たい液体が飛び散った。
「何する気……?」
凍えるような寒さと男への恐怖で声が小刻みに震えた。
やがてボッという音がして視界が一瞬で黒から白へ変わった。みるとあたりは火の海と化している。
思わず口から悲鳴がこぼれた。目の前で燃え盛る炎を消そうと慌ててボロボロの羽織で火を叩く。炎の燃える音と自らの呼吸音が混ざり合い獣の咆哮のように聞こえた。
「あたたまるだろ?」
男がふざけるように言った。持っていた松明の火を酒に引火させたのだろうか。
「どうしてこんなこと……?」
「何度も言っている。お前を攫うためだ」男が悪びれる様子もなく言った。
炎の生む音はますます大きくなりなぐるように羽織を叩きつけた。
そのうちに視界がにじんできた。それを灰のせいにしてなおも揲は手を止めなかった。火を消そうとおかしいほどに必死な自分が滑稽だった。地下牢は寒くて暗くて寂しい、王宮なんてものは人々のどす黒い悪意がうごめいて反吐がでるほど嫌いだっらのに。「燃えてしまえ」そう何度心の中で願ったことだろう。
だけど、と揲は男を睨みつける。
「私の居場所を奪わないで」
男は心外だというようにぐるりとあたりを見渡した。
「こんなところがあんたの居場所なのか?」
揲は小さくうなずいた。
夕雩家を滅ぼすこと、それしか生きている理由はない。たとえ地下牢へ入れられても夕雩を討てるのならばそこは揲のいるべき場所となる。
「あんたはこのまま王宮に飼い殺されたいのか?」
男はたんたんと揲に問いかけた。言葉が出ない、わかっていたはずなのに。 『悪魔の矢尻』とここの人々が揲を呼ぶ声がこだました。見てはいけないものをみてしまったような視線も思い出した。恐れ、嫉妬、侮蔑、人間の悪意が胸を矢のようにうちぬく。それをどうすることもできずにただ独り、ずっと暗い地下牢に閉じこもりありもしない幸福の陰を追い求めた。いつのまにかその心は憎しみ一色に染まり刃を手に取った。
「俺があんたを檻からだしてやる」
彼の瞳にうつる炎は美しく、そして恐ろしかった。それが災いの火なのか救いの火なのか心の中ではわかっていても信じることができなかった。裏切られることを恐れて体が金縛りにあったように動けずにいた。その様子を見た男はさらに問いかける。
「自由に生きたいと思わないのか?」
ハッとして思わず息をのんだ。
「どうして私は生きているの?」何度自分の血に汚れた手をみて思っただろう。
「どうして私はあの時に死ななかったの?」何度悔し涙を流したことだろう。
大好きな故郷を、時間を人を奪われて揲は生きる気力をなくしていた。この世のすべてが色あせて見えた。楽しいという感情が消えうせ、何か他の気持ちが小さな胸を支配したのだ。
ある日のことだった。揲がまだ地下牢に入れられる前の話。
故郷である天梛は夕雩の手にわたり揲は首都である絮璆に亡命していた。市場の提灯を数えながらふらふらと歩いていると一人の少女が路地で隠れるように座り込んでいた。10、11くらいの歳だろうか、ひどくやせており来ている物も汚れた鳩の羽のようなものだった。彼女に近づくと背後から太った商人が「おい、あんた」と肩を叩いてきた。
前掛けには『絮璆油座』という文字が書かれている。金持ちだ、と少し嫌な気分になった。
「アレに話しかけようとしてるのかい?やめな、やめな。あの娘は火曛から来たようだよ。妙な話さ、近頃10から15あたりの女子がみんな火曛に集められてねぇ。かと思ったらすぐに捨てられちまう。
当然誰も世話をしてくれる人がいないから金をとったり悪さをはたらく」
いい迷惑だよ、と商人は苦り切った顔をした。
火曛という言葉を聞くだけで顔が熱くなるのがわかった。
火曛は胤国の南に位置する土地——夕雩家の本拠地であったのだ。
やがて商人は瞼についた肉を持ち上げるように小さく目を見開いて揲をなめるように見定めた。胸が緊張で暴れだす。
大丈夫、ここは絮璆。万が一稀珀家の残党だとばれても問題ない。
そう自分に言い聞かせる。やがて商人が口を開いた。
「あんた、どこぞの旅の一座かい?」
緊張の糸が一気に緩んだ。
赤、白、緑と派手な色の着物に太い帯。旅芸人は関所を簡単に通れるため、揲は偽りの一座を語って戦火から逃れてきたのだ。
「気ぃつけな、ただの娘だからって舐めると痛い目に遭うよ」
商人は忙しいからとのんびりその場を立ち去って向かいの団子屋へ入っていった。ようするに近づくな、と言いたかったのだろう。それでも揲はその少女に近寄って視線をあわせるように膝を折った。
彼女の瞳はよどんで焦点もあっていなかった。この娘は自分と同じように心を殺されてしまったのだとぼんやりと気がついた。
揲はだまって懐にいれていた饅頭を彼女の手にもたせた。少女は驚いたように口を小さく開ける。
「もらって……いいの……?」
おどおどしたか細い声に揲はニコリと笑ってうなずいた。「ありがとう」と彼女もつられたように笑顔になる。子供らしい無邪気な笑顔だった。
「お饅頭、よくおっかあが一から手作りしてくれたの。おっとうも弟たちもみんな大好きで……もう一生食べれないけど」
「売られたんだ」と彼女は饅頭を見つめながらつぶやいた。
「夕雩家のお役人が10から15の娘は高く買うって村へやってきて……着るものも食べるものも住むところも困らせないからって……うちはちょうど今年が凶作で大変だったから私は行くって言った」
後半になるにつれ、だんだんと彼女の声が震えていく。
「おっかあとおっとうは何度も私に謝った。私は家族のためになるなら何でもいいって思ってたけど……やっぱり……」
ついに少女は嗚咽をもらしだした。
「帰りたい……おっとうとおっかあに会いたいよぉ……選ばれなかったからってどうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……?」
ギュッと胸がしめつけられる。
まったく同じことを考えたことがある。壊されるものだとわかっていたら、幸せなど求めなかった。幸せの中ではそれがずっと続いていくと信じてやまない。しかし永遠と続く楽しい時間を幸福とは言わない。壊れるものこそが幸福なのだ。
他人のものだからと平気で幸せな日常を壊す人間がいることがゆるせなかった。
泣きくじゃる少女の背に黙って腕をまわす。冷たい小さな体をどうにもしてやれない自分がもどかしかった。そんな中だんだん得体の知れない感情が毒のように体をめぐっていくのを感じた。
「もう生きていたくない」
悲痛そうな少女の声に揲は胸の内に広がる感情の正体に気がついた。
——奴が壊した幸せの数だけ、私が奴の幸せを奪ってやる。
憎しみと怒りとどうしようもない嫌悪が生み出したその感情に勝るものはない。
炎はうす暗い地下牢を眩しすぎるほど明るくしていった。心の奥底の不穏な感情もだんだんと膨れ上がっていった。
きっとこのまま地下牢にいたら何もすることができない。そんなのは嫌だ。
約束をした、少女と主と。必ず夕雩を討つと。
「お願いここからだして」
「そうこなくっちゃ」と男は揲に手を差し伸べた。その手はとても暖かかった。
今話から物語をスタートさせようと思ったのですが説明だけで終わってしまいました。申し訳ありません。