真龍3
紲御殿は宗主以外の男が入ることを禁じられているらしい。それゆえ篤驥とは門の前で別れ、揲は真梶の後に続いて長い廊下を歩いていた。
その途中、真梶は何度も「先ほどは取り乱して申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「私が来たことがそんなに嬉しい?」
気になって聞いてみると少しの間があいてから真梶は「ええ」とうなずいた。
「私は主が亡くなってから14年もの間この紲御殿で主のいない侍女として全ての雑用を押し付けられていましたから。
仕えるべき相手がいないのはなかなかに辛いことです」
寂しそうな横顔に余計なことを聞いてしまったと申し訳なく思った。
しかし、真梶はすぐに笑みを浮かべ話を続けた。
「正確には龍様が昨日までの私の主君だったのですが……何しろあのお方はめったにこちらへお渡りにならないので……」
「龍様?」と誰のことかわからずに問うと真梶は少し驚いたように軽く目を見開いた。
「宗主様のことです。ご存じありませんか?あのお方の本当の名は分家のご兄弟以外誰も知らないのですよ」
「夕雩という厦称があるでしょ?」
姓という風習がない胤国ではどこに住んでいるかで名が決まる。
厦称はその土地に住む者が名乗るときに使用するものだ。もちろん引っ越すと名は変わり、その土地に住まう者は百姓でも武士でも厦称は同じだ。
例えば揲の厦称である御潴とは故郷・天梛の中でも北東部に住む者の厦称だ。そこに住む者はどんな身分でも「御潴の○○だ」と名乗る。土地間の結束がかたい胤国らしい文化だ。
なお、その土地の長たる家は厦称の前に「宗」という字をいれることが許されている。揲の父も同様で名乗るときは「宗御潴」を使っている。
「あれは他の地方から見れば厦称だと思うのでしょうがこの火曛で誰一人『夕雩』と名のる者はおりません。あくまで夕雩は『夕雩城』つまりはこの城のことを指すのでございます。
でも宗主様のお名前を知らないから民は龍様とか夕雩様とか好き勝手呼んでそれが広まってしまったわけです」
『龍』とは古来より国を治める器とされていた。つまりここ火曛の民はあの夕雩家宗主のことを真龍だと信じているのだろうか。
だとしても領主の名を好き勝手呼ぶなんていい加減な話他に聞いたことがない。それは真梶も同じらしく「おかしな話ですよね」と笑いながら同意を求めてきた。
「ほら、信松……いえ、篤驥殿も夕雩と名乗っていないでしょう?火曛には厦称という習慣はありません。民は基本、姓を持たないし女子供にも与えられないのです。
姓があるのはこの城に使える上級役人だけだから信松はああ見えてとても偉い方なのですよ」
まるでわが子を自慢するかのように彼女は胸をはった。
「信松って……あの人の幼名でしょ?そんなに長い付き合いなの?」
「あら、また私はあの方のことを『信松』と……昔の癖はなかなか抜けないものですね」
少し恥ずかしそうに真梶が笑みをこぼす。
「篤驥殿とはかれこれ二十年以上の付き合いです。あの方が夕雩家にやってきたころからの知り合いですから」
つまり篤驥は十にもみたないころから夕雩家に飼われていたということか。それは宗主の傍らにいることを許される忠臣に育つはずだ。
そんなことをあれこれ考えているうちに真梶は一つの扉の前で立ち止まった。
「ここから先が揲様のお屋敷となります。屋敷の中ではご自由にしていただいて構いませんので」
そう言って彼女は両開きの扉をゆっくりと押した。目の前の景色が気色がだんだんと広がっていく。
最初に目に入ったのはまん丸の付きをうつす湖の水だった。扉の向こうはその湖に架かった木の橋へ続いていたのだ。
真梶にうながされおそるおそる足を踏み入れると床の木がギギッと鳴いた。その音さえも心地良いものに思えて自然と口元に笑みが浮かぶ。
ふと橋の向こう岸に目をやるとそこにはこじんまりとした質素なたたずまいの建物が見えた。もしかして、と揲はその建物を指さす。
「あそこが私の屋敷?」
「ええ、この屋敷は長らく主がいなかったので少しさびれてはおりますが良い場所ですよ。どうでしょう、お気に召されましたか?」
真梶の少し心配そうな問に揲は一も二もなく頷いた。こんな良い場所で寝るのは久しぶりだ。
調子にのって子供のように小走りで橋の上をかけると湖面に自分の姿がうつった。
それを見て何を思ったのかは自分でもよくわからなかった。
屋敷の中はいたって簡素なものだった。大きさとしては豪農の家と同じくらいといったところだろうか。長年使われていなかったようだが手入れは行き届いており、蜘蛛の巣一つ見当たらない。板張りの床もなつかしい故郷の家のようで気に入った。
「ここ紲御殿にはこういったお屋敷が十六ほど集まっております。
菊宮家、薊宮家、藤宮、そして宗家と各お家が東西南北四つのお屋敷を構えて奥方や姫君をこちらに住まわせるのです。
この屋敷は菊宮家の西のお屋敷——『西之菊屋敷』と呼ばれております」
真梶の説明に揲は首を傾げた。
「私はその菊宮家とやらの縁者ではないぞ」
良いのでございます、と真梶は揲の自室だという部屋に布団を敷きながらピシャリと言った。彼女が良いと言うならばありがたく使わせてもらおうと思い、揲もとやかく聞くのはやめることにした。
その後、真梶は部屋を出ていき揲は一人文机に頬杖をついて外の満月をぼんやりと見つめていた。
十日前に王宮の地下牢で見た月と同じ。味方に恐れられて監禁され、絶望の淵で見ていた月と同じ。そう思うとなんだか変な感じがした。
あれからいろいろなことがありすぎて自分でもよくわからないまま全力で今も走り続けている。
(「俺があんたを檻からだしてやる」)
その言葉を信じ、裏切られ仇の城へ送られた。
仇だと思っていた人間が仇ではなかったことを知った。
この城のどこかにいる仇を探し出すことを選んだ。
再び人を信じることを選んだ。
「これでいいのかな……?」
小さな呟きは宙をあてもなくさまよって消えた。
揲は稀珀家が滅びたその日からずっと孤独だった。