皐月の章・後編
予鈴と共に講堂に飛び込んだ和人は、後ろの方の席に恵梨香がいるのを見つけた。
そっちに近付いていくと、途中で袖を掴まれた。
「ちょっとちょっと、高木君」
由香里だった。
「なんですか、佐々木先輩」
「昨日、シャイターンに会ったんだって? なんか言われたん?」
「えーと、しゃい、たーん?」
「ん、漫研の斎田会長。斎田だからシャイターン」
シャイターンは『ナハトメイガス』の敵役である魔王の中でも最強の存在として設定されている。
その名を以って呼ばれるということは
「斎田先輩って、そんなに強烈なんですか?」
「まあ、そうでもないんだけどさ、前に副会長と部室で大喧嘩してさ。そん時に克が呼びだしたんさ」
「へえ……」
確かに、真珠と瑠衣なら相当派手な喧嘩になっただろう。
和人はその様子を想像してぞっとした。
「で、シャイターンになんか言われたん?」
「いえ、別に変なことは言われませんでした。ちょっと、恋がどうのこうのって」
「ふうん? まあ、あの人そっち系の話好きだかんね」
由香里はからからと笑った。
「あ、サボるなら後ろより真ん中へんの方がいいよ。後ろはけっこう警戒されてるから」
「いえ、サボるつもりはないんで」
「あの子と一緒がいいんだんべ? 仲良しなんね」
「仲良しっていうか、同じゼミの仲間なだけで」
「あー、まだ一年じゃそんなもんか。二年になったらそのゼミの仲間っていうのとは違った意識になるかんね」
由香里はそう言って手を前後に振った。
行っていいということらしい。
和人は軽く頭を下げると、恵梨香の隣の席に腰を下ろした。
「何の話してたんだよ」
つまらなそうに頬杖をついた恵梨香は、手元の本に目を落としたままきいてきた。
「別に大したことでもないよ」
「んー。あ、そう」
どこかよそよそしい反応だった。
「あー、でさ、昨日の会長のあれだけど」
「大丈夫、気にしてないよ」
「ならいいけどさ」
恵梨香はそう言って大きな欠伸をした。
「ったく、この講義は退屈なんだよ」
「はは、仕方ないよ」
和人は宥めるように言うと、鉛筆とノートを手にした。
やがて本鈴が鳴り、講師が入ってきた。
「あ、そうだ高木。昨日買ったこれ、結構面白いぞ。暇つぶしに読んでみるか?」
「遠慮しとく。まじめに講義を聴いておかないと後で困る奴が出てくるから」
「そうか。まあ頑張れ。あたしはサボるから」
恵梨香はもう一度欠伸をすると、本をしまって今度はノートに絵を描き始めた。
「ほら見ろ。後でノート見せてー、って言ってくるんだろ」
和人はそんな恵梨香の方をちらり、と見ると自分のノートに講義の要点を書き留める作業に戻った。
***
講義が終わった恵梨香が部室に戻ってくると、瑠衣が紅茶を入れて待っていた。
「おかえり。紅茶入ってるわ」
「あー、どうもすいません」
「ん。ところで西村。昨日のお友達、結局どうなの?」
「どうなのって、別にどうもないですよ」
「そう? 実は気になってる、なんてことないの?」
「ないですって」
恵梨香は手近な席に荷物を置くと紅茶を受け取った。
「大体、あいつらじゃ子供過ぎてあたしには釣り合いませんよ」
「あら? 男子はいつまでも子供なのよ。こっちが『子供っぽいから嫌』とか言ってたらいつまで経っても彼氏なんかできないわ」
恵梨香はそれには答えず、ノートを引っ張り出してさっきの続きを描き始めた。
それをのぞき込んだ瑠衣が楽しげに笑う。
「その漫画の主人公、高木君になんとなく似てるわね」
「隣にいるんで勝手にモデルにしました。そんだけです」
「じゃあ、隣にいたのが私だったら、私がモデルになってたのかしら?」
「まあ、そうなりますね」
恵梨香は描きながら答えた。
「なんにせよ、あいつとこれの主人公にはなんの関係もないですから」
「あらあら、ずいぶんあっさりと否定するのね。まあ、いいわ。別にあなたが誰と付き合おうと私の知ったことではないけど」
瑠衣は自分の紅茶を口に運んだ。
「でもね、RPG同好会だけは止めなさい。あそこにいるのは変人ばかりよ」
そう言っておっとり笑う瑠衣の手には、いつの間にか恵梨香の読んでいたリプレイが握られていた。
「だから、違いますって」
恵梨香は答えながら小さく息を吐いた。
どうしてこの人はこればっかり。
***
夕暮れが近づき、大学の周囲にも蛙の声が聞こえ始める。
恵梨香は薄暗い坂道を登って大学前駅のホームに立った。
「今、帰り?」
後ろから掛かった声に振り向くと、和人がホームに入ってきた所だった。
「こんな時間からどこ行くんだよ」
恵梨香はなんとなく反発したくなって口を尖らせた。
「ま、それもそうか。そう言えば、裕太見た?」
「んー、言われてみれば今日は見てないな。まあ、あいつのことだから稗田先輩だっけ、あの人の後を追いかけてるんじゃないのか」
「まあ、そんな気はするけどね」
「それにしても、どうしてこう、みんな恋だの愛だのが好きなんだろうな」
「さあね。そう言えば、斎田先輩はやっぱり何か言ってた?」
「あー、まあね。昨日と大して変わらないよ」
恵梨香はうんざり、といった風に首を振った。
「そういえば、RPG同好会だけは止めとけとか言ってたぞ。なんか、変人ばっかりだからって」
「変人ね。確かにそうかもしれない」
「おいおい、認めるのかよ」
「いや、俺じゃなくてさ、会長夫妻とか、佐々木先輩とか」
「会長夫妻って、ずいぶんすごい呼び方だな」
「会えばわかるよ。本当に夫妻としか呼びようがないから」
「ほお、それは気になるな」
恵梨香が思わず和人の顔を見上げると、和人は恥ずかしげに目を逸らした。
「ん、なんだよ?」
「いや、なんか照れくさくなった」
「は? もしかしてお前、会長の冗談真に受けた?」
「そ、そういうわけじゃないけどさ」
「ったく、どうしようもないな」
恵梨香は肘で軽く和人を小突いた。
小柄な恵梨香は和人より頭二つは背が低い。
その身長差が、今は妙に腹立たしかった。
***
ごろごろと転がった二個の六面ダイスはそれぞれ五と六の面を上に止まった。
「十一、と。基準値は二だから十三だね」
「ちぇ、失敗か。器用なことは苦手なんだよなぁ」
鍵開けの試みは見事に失敗した。
克が猫のように大きく伸びをする。
翌日の昼前、部室では時間の開いたメンバーで短いセッションが行われていた。
「はははっ、でも目はいいじゃないか。自動成功まであと一歩だったよ」
「でも、失敗は失敗ですからね。成功しなきゃ仕方ない」
「それもそうですけど、今日は結構目がいいですよね」
「ああ、今日だけで自動成功が二度も出てる」
自動成功は六面ダイスが二個とも六を出した時に発生する、いわゆるクリティカルだ。
『ブレイドエイジII』では行為判定が目標値に関係なく成功扱いになる。
「その代わり、浩一さんは自動失敗が三回も出てますね。ゲームマスターにも経験値が入ればいいのに」
「仕方ないよ。これは『ガイア・セイヴァー』じゃないんだから」
自動失敗は自動成功の逆の目、つまり一のゾロ目で発生する。
行為判定は失敗になるが、PCが出した場合はわずかながら経験値を得ることができる。
ルールブックによれば、人は成功した時よりも失敗した時のほうが成長の糧を得られる、ということらしい。
「それに、GMは管理するキャラクターが多いからね。プレイヤーより自動成功や自動失敗を出す確率は高いわけだ」
浩一が苦笑混じりに言うと、小さな笑いが起こった。
「そうそう、確率の話が出たついでだけど、会誌の原稿は進んでるかい?」
RPG同好会は半期に一度、会誌『三十六分の一』を出している。
タイトルの由来は六面ダイスを二個振った時に特定のゾロ目が出る確率だ。
むろん、どのゾロ目を期待してるのかはきくまでもない。
「あー、それなんですけどね。俺は前回の続きにしますよ」
「あたしは今期もランダムチャートにしとく。一等楽なところは一番に押さえないと」
「私は昨日話した通り、キャンペーンシナリオを用意しています」
「うん、楽しみにしてるよ。で、高木君はどうするんだい?」
「その、考えてはいるんですけど、思いつかなくて」
「そうか。まあ、期限までは時間があるし、よく考えてくれたまえ」
浩一はそう言うとぱん、と手を打った。
「さて、それじゃあセッションに戻ろうか。あいにくと鍵を開けることはできなかった。君たちはもう一度鍵開けを試みてもいいし、諦めて他の方法を探してもいい……」
浩一が進行を再開すると、室内の空気が一気に引き締まった。
さて、高木君はどんな企画を持ってくるだろうか。
浩一は心の中でそう呟きながらセッションを進行していった。
***
セッションが終わったのは昼休みが終わった頃だった。
メンバーは学食に移動し、遅めの昼食を取ることにした。
「それにしても、ほんの二時間で結局何回自動失敗したんでしょうね?」
「もうそれはいいよ。それより、克君は何にしたんだい?」
「日替わり定食にしようかと思ったんですけど、品切れだったんでカレーにしました」
「あたしはかけそば。高木君は?」
「味噌ラーメンです」
「みんな見事にばらけたね。それじゃあ、いただこうか。美鈴」
「はい、浩一さん。今日はさっぱりした和風にしてみました」
美鈴がにこにこと笑いながらテーブルの上に二人分の弁当箱を並べた。
ふたを開けると、美鈴の言う和風弁当……海苔の佃煮、ゴボウの笹掻きにキュウリの漬け物という、かなり質素なおかずが姿を現した。
白飯の上にはなぜか目玉焼きが乗っている。
「……うん、君らしいね」
さすがの浩一も反応に困ったのか、少しの沈黙の後に発言したのがこの一言だった。
「うふふ、ありがとうございます」
「思いつかねんだったら無理に和風にすることもなかんべに」
ぼそり、と誰かが言った。
誰が言ったかは大体わかるけど。
「それじゃあ改めて。いただきます」
「いただきます」
浩一の音頭で全員が一斉に箸を取る。
もうそれだけ待ちくたびれていたのだ。
「ところで、会誌のことなんですけど」
食べ始めてしばらくした時、和人がおずおずと口を開いた。
「ん、なんだい?」
「えっと、リプレイみたいなものを、その……書いてみたいなって」
浩一は一瞬だけ面食らったが、すぐに真面目な表情に戻った。
「なるほど。普通の小説を書くのとは勝手が違う。それでも大丈夫かい?」
「ええ。そもそも、俺は普通の小説ってものを書いたことがないです」
「そうなん? あたしはてっきり、そっちの趣味があるから書きたいって言い出したんかと思った」
「だよな。副部長だって、元々漫画が描けるからリプレイ漫画を書いてるわけで」
「もう稗田先輩がやってるんですか?」
「ああ、彼女は『ナハトメイガス』のリプレイを第一号から連載してるよ。美鈴、今持ってるかい?」
浩一が訊くと、美鈴はすぐに鞄から薄い冊子を二冊、取り出した。
表紙には六の目を出した状態の六面ダイスが二個と『三十六分の一』という筆文字のタイトルが配されている。
「はい、どうぞ。もし欲しければ、たしか部室にバックナンバーがあったはずです」
美鈴が会誌を差し出すと、和人は興味深げにぱらぱらとめくっていたが、あるページで手を止めた。
「これが稗田先輩の?」
「ああ、稗田真珠プレゼンツ、『ナハトメイガス』コミックリプレイ。これのおかげで会員じゃないけど会誌は欲しいっていう人は多いよ」
「完結したらこれだけで単行本にしようなんて冗談もよく言ってますね」
リプレイの題材になっている『ナハトメイガス』は人知れず世界を守る魔術師となって世界の裏側から現れる魔王達の陰謀を阻止するゲームだ。
ジャンル的には現代異能バトル系で、ゲームの舞台は現代日本に設定されている。
「どうだい、高木君?」
「なんか、すごいです。ちゃんと世界観の説明も無理なく入っていて、それでいてシナリオもちゃんとできてる」
「まあ、知らない人にはこれがリプレイだとは分からないだろうね」
浩一はそう言うと小さく笑った。
「高木君も、リプレイを書いてみたいんだったら稗田先輩に相談してみたらどうだい?」
「ええ、そうしてみます。注意点とかも聞いておきたいですし」
「あ、それで、システムはどうします? やっぱり『ブレイドエイジII』ですか?」
「そこまでは考えてなかったですけど、今から新しいルールを覚えるのも大変ですよね?」
浩一はそれを聞くと、うん、と頷いた。
「そうだね。メーカーによってある程度傾向はあるけど、シナリオを作るならやりなれたゲームの方がやりやすいだろうね。なれてないシステムだと、シナリオは作れてもマスタリングで色々手間取るだろうからね」
「大変なんですね」
「ああ、確かに大変だよ。ルールブックは高いし、システムを自作するとなると時間がかかり過ぎる。だから『ブレイドエイジII』でやってごらん」
浩一が言うと、和人は意を決したようにはい、と返事をした。
いい返事だ、と浩一は思う。
リプレイを書くとは、同時にゲームマスターになるということでもある。
まだプレイヤーとしての経験もそれほどではないのに、もうゲームマスターに挑戦しようとしている。
面白い試みだが、勇気のいることでもある。
自分ですら、セッション前には若干の緊張を伴うというのに。
浩一は隣に座る美鈴の方を見た。
美鈴は、浩一の心を見透かしたように柔和に微笑んでいた。
「高木君の初GM、絶対に成功させよう」
「はい、がんばりましょうね、浩一さん」