皐月の章・前編
和人は上毛野駅の駅前にある大型書店に来ていた。
都市部の駅前ということもあり、地元の中堅書店に比べて圧倒的に品揃えが良い。
「お、十年振りに『迅影伝』の新刊が出てるぞ」
ノベルスの新刊コーナーを覗いた恵梨香が意外そうな口で言った。
「なんだよ、お前そういうむっずかしいやつ読んじゃうわけ?」
「あー、たまにね。この作者、一冊一冊のスパンが長いけど面白くてさ。っつか、坂上も読んでみろよ」
「俺はパス。漫画の方がいいや」
裕太はへへっ、と笑うと少年漫画のコーナーに走っていった。
「おい和人、ちょっと来いよ。『亡者の宴』の新シリーズがあるぜ」
「あー、はいはい」
和人は生返事を返しながら、文庫本のコーナーに目を向けた。
いわゆるライトノベルが並ぶ本棚の端っこに、白い背表紙の本が何冊か並んでいた。
カラフルな他レーベルに比べ、明らかに浮いている。
和人はその中の一冊を手に取った。
「『舟人』は何度読んでも癒されるよな……って何それ、面白いのか?」
裕太が和人の後ろからのぞき込んできた。
「あぁ、お前もラノベは読むんだよな。だったら、これも読めるんじゃないか?」
「ん、なんだそれ……台本?」
「いや、リプレイ。RPGのセッションを書き起こした読み物なんだってさ」
「そんなもんがあるのか。ま、俺はよく分からんけど、順調に染まってるみたいだな」
「誰がだ」
そんなことを話していると、二人の背後から恵梨香が割り込んできた。
「演劇なんか興味あるのか。なんか、意外」
「いや、演劇じゃなくてリプレイっていう……」
「リプレイ? 演劇の一種じゃないのか?」
恵梨香は怪訝そうに和人の持つ本をのぞき込んだ。
「……ふーん、ゲームの記録、ねぇ」
恵梨香はふんふん、と頷くと、和人の手から本を取り上げた。
「なかなか面白そうだな」
「あっ、西村」
「んあ、悪い。ほい、返す」
恵梨香は本を和人に返すと、自分で本を物色し始めた。
「なんだこのクソ長いタイトル。夜中やってるまんがじゃあないんだから、もうちょっと捻れっての」
その夜中やってるまんがの原作だ、とは、和人は言えなかった。
「で、高木的にはどれがお勧め?」
「うーん、俺も先輩に勧められただけだから……あ、これは読みやすいって聞いた」
恵梨香は和人に教えられた本をぱらぱらとめくり、頷いた。
「んじゃ、これ買ってくかな」
「世界観とか、大丈夫か?」
「適宜解説あるっぽいし、問題ないっしょ」
「うえー、西村までヲタに染まるのかよ」
黙って見ていた裕太がうんざりしたように声を上げた。
「漫画ばっか読んでる奴が今更『僕はヲタくありませーん』なんて言ってんなよ」
「お、俺はヲタくないっ! ヲタくないぞ!」
裕太は右手を高く上げて宣言した。
その手にはミリ屋御用達の戦争漫画『フェンリル』がしっかり握られていた。
「さて、会計行くか」
「だな。馬鹿の相手はしてられない」
和人と恵梨香は馬鹿に背を向けてレジに並んだ。
「あら、西村じゃない」
と、後ろから甘ったるい声で呼びかけられて恵梨香が振り向いた。
和人も釣られて振り向くと、栗色の髪をロールに巻いた、お洒落なお嬢様がおっとりと笑っていた。
「あー、会長。奇遇ですね」
「うふふ、面白いところを見ちゃったわ。隣の子は彼氏?」
「や、ちがいますよ。同じゼミの仲間ってだけです」
「あらそう、残念」
恵梨香の答えにその女子は肩をすくめる動作をした。
背が高いせいもあってモデルのように決まっている。
「漫画研究会の会長、斎田瑠衣よ」
「あ、高木です。高木和人」
「高木君ね。で、君は西村のこと、どう思ってるのかしら?」
「あ、えーと……」
急に振られて、和人は思わず恵梨香の顔を見た。
「おいおい、本気で考えなくていいぞ。どうせ会長の冗談だから」
「あら、冗談でいいの? 西村は気にならないわけ?」
瑠衣は口元に手を当てて微笑んでいる。
「あー、えっと、その……」
珍しく、恵梨香が戸惑ったような顔をしている。
ばかりか、やや頬が紅潮しているようにも見える。
「ちょっと赤くなってる。可愛い」
寝癖の跳ねた髪に野暮ったい黒縁眼鏡、中学生と見紛う小柄な体には不釣り合いなバックパック。
眠たげな目には今は困惑の色が浮かんでいる。
改めて見ると、可愛い。
ただし、女性としてではなく、小動物のような可愛さだ。
「若いわね。取り敢えず今は、お会計済ませちゃおう?」
瑠衣に言われて初めて、和人と恵梨香は会計の列が進んで、次が自分たちの番だと気付いた。
「あ、すいません」
和人は慌てて列を詰めた。
***
会計を済ませた後、和人たちは場所を駅舎に入っている喫茶店に移した。
「だって、お年頃の男女ペアよ? からかいたくなるじゃない」
そう言ってご機嫌そうに笑う瑠衣に、和人と恵梨香は顔を赤らめて俯いた。
「いやぁ、本当にそうっすよね」
そんな調子の良いことを言ってるのは裕太だ。
「でも先輩。この二人は絶対何もないっすよ」
「あら、どうして?」
「だって、色恋に興味なさそうっすもん」
「興味ないって、まあ、うん、そうだけど……」
和人は反論しようとしたが、言われてみれば確かにそうかもしれない、とも思えて何も言えなかった。
「あたしは別に……今は彼氏なんて考えたことが」
恵梨香がぼそぼそと言った。
「んふふ、花の命は短いのよ。今の内に燃えるような恋をしなさいね」
「そう言ったって」
「あなたの周りには幸い、こうやって男の子がいるじゃない。まずは一人でいいから手近な男の子と付き合ってみなさいよ」
「ちょ、会長ぉ」
瑠衣は恵梨香を手で制して和人と裕太の方に目を向けた。
「あなたたちもつまんない牽制なんかしてないで、どんどん手を出しちゃいなさいな。そうじゃないと、脇から入ってきたイケメンに奪られちゃうわよ」
「えっと、牽制とかしてるわけじゃなくて、本当になんとも思ってないんですけど」
「あら、そうなの? でも、いくらなんでもそれを本人の前で言うのは失礼よ」
瑠衣はうふふ、と笑った。
怖い人だ、と和人は思った。
なんというか、目が笑っていない。
「さて、私は失礼するわ。若いみんなの邪魔をしちゃ悪いから」
瑠衣はさっと立ち上がると店を出て行った。
「なんか、すごい人だったな」
和人はどっと肩の力が抜けたように感じた。
「だろ? あの人いつもああだから」
恵梨香もがっくりとテーブルに突っ伏した。
「でも、綺麗な人だな。俺、惚れたかもしんない」
「稗田先輩はいいのかよ?」
「稗田先輩も可愛いよな。あれで三年とか、詐欺だろ」
裕太はだらしなく鼻の下を伸ばしている。
「あー、馬鹿らしい。この色ぼけ男」
「お前の頭って、基本女のことなんだな」
「っるせーな。いいだろ別に」
二人の反応に裕太は拗ねたように口を尖らせた。
和人はそんな裕太に携帯電話を差し出した。
「ほい、稗田先輩のアドレス。知りたがってたろ?」
それを見た恵梨香も自分の携帯電話を引っ張り出す。
「んじゃあたしも。ほれ、会長のアドレスだぞ」
「いや、いい。直接本人に訊く」
「その割にこの一ヶ月、まったく行動できてないな」
和人がからかうと、裕太は苦笑いを浮かべた。
「仕方ねぇじゃん。あの人いつも取り巻きがいるんだから」
「お前、自分がその一人になってることに気付いてないだろ」
「え、そうなのか?」
「そうだよ」
「かぁー、それは気付かなかった!」
裕太は残念そうに頭をかきむしった。
***
「それで、それからどうしたんだい?」
「裕太のやつ、そのまま稗田先輩にアタックするって店を飛び出して行っちゃいました」
「ふうん、君の友達は結構熱いんだね」
翌日、部室で和人が書店でのことを話すと、浩一は困ったように笑った。
「それじゃあ今日稗田先輩を見かけないのは主にそれが原因かな」
「そうかもしれませんね」
影のように控えていた美鈴が同意する。
「浩一さん、どうしましょう? 今度のセッションの相談があったのに」
「まあ、そっちはどうにでもなるだろう。僕はそれより斎田先輩が怖いよ」
「え、どうしてですか?」
「ああ、高木君は知らないか。斎田先輩と稗田先輩、昔から仲が悪いんだ。理由はよく知らないんだけどね」
浩一は缶の烏龍茶を一口飲むと、先を続けた。
「去年までは稗田先輩も漫研にいたんだけどね、斎田先輩と折り合いが付かなくてこっちに逃げてきたんだ」
「そうなんですか。なんか、意外です」
「ははは、まあ、うちも当時は僕と美鈴しかいなかったからね、上級生でも入ってくれるのは嬉しかったよ」
和人はなんだか意外な感じがした。
真珠の性格からして、同好会の設立から関わっている気がしていたのだ。
「もっとも、俺からすればどうしてあの人が部長の言うことだけは聞くのか、それが不思議ですよ。どうやって口説いたんです?」
窓際に腰掛けてギターをいじっていた克が口を開いた。
「やめてくれ、克君。僕は別に口説いたりしたわけじゃないよ。稗田先輩の方から仲間にしてくれと言ってきたんだ」
「そうですか? 俺はてっきり、副部長は部長のことが好きなんだと思ったんですけどね」
「そんなことはないよ。それに、僕は君と違って心に決めた人がいるからね」
浩一はそう言って美鈴の肩に手を置いた。
「あー、はいはい。ごちそうさまです」
克は片手を降るとギターの方に顔を戻した。
「でも、本当に遅いですね、稗田先輩」
「ああ、掛け持ちしてる他のサークルにでも顔を出してるんだろ。副部長、あれで結構顔が広いから」
「そうなんですか?」
「結構、あちこちでみかけるね。名前を貸してるだけのサークルも多少はあるだろうけど、それにしても大した体力だよ」
「ふうん……。そうなんですか」
裕太の恋路は前途多難だな、と思いながら、和人はべっこう飴を口に入れた。
「あ、そういえばリプレイ買ったって、どのシリーズ?」
「えーと、GM雅の『ポンコツ冒険隊』シリーズです。ちょうど一巻があったので」
「そうか。あれは面白いよ。僕がこの同好会を立ち上げようと思ったきっかけだしね」
「浩一さんったら、真夜中に電話してきたんですよ。私はてっきり……ふふ」
美鈴は一人で思い出して赤面している。
対して浩一は手近なルールブックを開いて顔を隠した。
本の天地が逆になっているのはお約束というべきか。
「美鈴、あまりその話はしないてくれ……」
「いいじゃありませんか、浩一さん」
「部長、逢い引きはよそでやってください」
耐えかねたように克が声を上げた。
「あ、逢い引きって」
「逢い引きだなんて、そんな」
それでもそんなやりとりを続ける二人を見て、和人は恋人がいるって、色々な意味で幸せなんだな、と思った。