卯月の章・後編
三限目が始まると、構内は急に静かになる。
和人は人気のなくなった学生サロンに入ると、適当なテーブルに座り、昼休みのうちに話を聞いたサークルのチラシを取り出した。
RPG同好会、漫画研究会に囲碁・将棋友の会。
思い返せば、どこも一長一短という感じだった。
「ここにいたか。どうだ、やっぱりフットサルやりたくなったろ?」
学生サロンに入ってきた裕太が同じテーブルに着いてチラシをのぞき込んできた。
「うーん、見事にインドアなサークルだな。で、なんだよこのRPG同好会って」
「あー、なんかTRPGとかいうの、やるらしいよ。受付の人がえらく訛っててさ、おまけに語り出したら止まらない巫女さんがいたり、変な同好会だった」
和人は喋ってからしまった、と思った。
裕太がフットサルサークルに入ると言っていたのは確か、うぐいすパンの彼女がいると思っていたからではなかったか。
「ふーん。コスプレで人を呼ぼうってサークル、意外にあるもんなんだな」
裕太はピンと来ていないという感じで答えた。
「そういえば、フットサルはもういいのか?」
「ああ、昼休みが終わると見学者も来ないから紅白戦はやらないってさ」
「そうなのか」
和人は相づちを打ちながら、缶のお茶を口に運んだ。
RPG研究会でもらったものだ。
「で、TRPGって、なんだ?」
「あー、よくわかんないけど、みんなでキャラ作ってRPGやるんだって。今度の土曜に体験会やるって言うから、行ってみるか?」
「今度の土曜? フットサルの練習あるから無理」
裕太はフットサルサークルに入ることを完全に決めているようだ。
「あー、そう。じゃあ」
「お前、代わりに体験会参加して来いよ」
「なんでだよ」
「チラシもらってきたってことは、少しは興味があるんだろ?」
「んー、まあな」
和人は言葉を濁した。
確かに興味はある。
だが、同時に合わないかもしれないという思いもある。
なんとなく、手に持ったままのお茶の缶に目をやった。
『百聞は一見にしかずって言うし、一度体験してみればよかんべ』
由香里の言葉が耳の底から浮き上がってきた。
「そうだな、百聞は一見にしかず、とかいうし」
「その意気だ。お互い道は違えども、出会いを求めてがんばろうぜ」
「おい待て。いつの間にそういう話になった」
「サークルの目的なんかそれだけだろうが」
裕太は親指を立てた。
悔しいほど、その姿は決まっていた。
「おー、男子ども。なにやってんだ?」
学生サロンの戸が開いて、西村恵梨香が入ってきた。
やや栗色がかった長髪は寝癖が目立ち、野暮ったい黒縁眼鏡の奥からは眠たげな目がのぞいている。
背中にPCバッグを背負っているが、体が小柄なせいでずいぶん重そうに見える。
「ちょっと、サークルの話をね」
「あー、そういや今日から勧誘期間だったっけ。どこに入る気?」
「俺はフットサル。で、こいつはRPG同好会に入るんだってよ」
「おい、俺は入るなんて決めてないぞ」
「入っちまえよ」
「何やってんだか」
言いながら、恵梨香はチラシを手に取って眺めた。
「RPG同好会ねぇ。あたしは興味ないけど、趣味人の集まりらしいね。普通の人間が入って持ちこたえられるかは気になるかな」
「持ちこたえるってなんだよ」
「あー、そのまんまの意味。オタク色に染まらずにいられるかどうか、さ」
「気が付くとオタくなってんのか。怖ぇなー」
恵梨香と裕太はすっかり和人をからかう気でいるらしい。
「オタク色とか言うなよ。こっちまで怖くなるじゃないか」
「がんばんなよ、オタくならないようにさ」
「そうそう、オタくなったら俺ら絶交だから」
「だってさ。骨だけは拾っとこうか?」
「ちぇっ、覚えとけよ」
和人は舌打ちすると立ち上がった。
「お、やるか?」
「やんない」
自販機横のゴミ箱に空になった缶を捨て、新たにコーヒーを買って戻る。
「まあ、骨拾いは冗談だけどさ、後でどんなだったか聞かせてよ。興味あるから」
恵梨香はにやり、と笑った。
「ところで、演習のレポート、テーマ決まった?」
「あー、俺はまだ」
「右に同じ」
「おいおい、しっかりしてくれよ。テーマの発表は今日だろ」
うんざりしたような口調だった。
「しょうがない。あたしが手伝ってやるから、超特急で考えるよ」
和人と裕太は時代劇のように恵梨香に頭を下げた。
***
その週末、和人は部室棟の前に立っていた。
部室棟、とはいっても体育館の長辺に沿う形で二階建てのプレハブが並んでいるだけだ。
RPG同好会の部室はその部室棟の二階、北側の端を割り当てられていた。
スポーツ系のサークルが練習している声がわずかに聞こえるが、それ以外は静かなものだ。
和人は深呼吸すると、階段を上って部室の前に立った。
やや緊張しながら、遠慮がちにノックする。
「はーい、誰ー?」
ドアが開き、由香里が顔を出す。
「あ、やっぱ来てくれたん? 嬉しんねー。ほら、入って入って」
由香里に引っ張られるように部室に入ると、六畳ほどの部屋にテーブルが置かれ、数人の学生が席に着いて和人の方を見ていた。
テーブルの上にはパーティサイズのチョコとべっこう飴が盛られた木皿と缶のお茶が人数分、用意されていた。
「見学者の、えーと、名前なんだっけ?」
「あ、高木です。よろしくお願いします」
和人が遠慮がちに挨拶すると、大きな拍手が起きた。
拍手が収まると、一番奥の席に座っていた白いジャケットの男子が立ち上がった。
「ようこそ、RPG同好会へ。僕は会長の三橋浩一だ。今回のセッションではゲームマスターも務めている。今日は存分に楽しんでいってくれ。そして、できれば正式に入部してくれると嬉しい」
見た目通りの、芝居がかった、それでいて爽やかな挨拶だった。
「副会長の稗田真珠よ。別に入る入らないは自由だけど、漫研なんかに流れたら承知しないから」
浩一の左隣に座っていたうぐいすパンの彼女、もとい真珠が指を突きつけてきた。
和人は一瞬面食らったが、すぐに由香里が言っていたことを思い出した。
真珠は以前の巫女風ではなく、青いコートの上にブレストプレート、黄金色のロングヘアという洋風ファンタジー風の衣装を着ている。
和人は国産の有名RPG、『クリスタル・クエスト』のシリーズに登場する女騎士の格好だろう、とアタリを付けた。
「ま、まあ気にしないでくれ。彼女、漫研の会長とは犬猿の仲でね。ユカさん、高木君にキャラクターシートと筆記用具を」
「あ、はいはい。それじゃあ、これがキャラクターシートね。書き方はわかるん?」
「いえ、ネットでちょっと調べてきたんですけど、わからなくて」
「うん、初めは誰でもそんなものさ。今日は体験会ということもあるし、ルールブック掲載のサンプルキャラクターを使用することにしている。気に入ったキャラクターを選んで、データを書き写してくれ」
浩一が文庫サイズのルールブックを差し出した。
それを受け取って開くと、そこには繊細なイラストで彩られた、異世界の冒険者たちが紹介されていた。
「人間の戦士、ドワーフの重戦士にエルフの狩人……戦士だけでも色々ありますね」
「魔法使いもね。三種類ある魔法はそれぞれ得意分野が違うから注意するといい」
「部長、初心者に魔法使いを勧めるのはどうよ?」
今まで黙っていた男子学生が口を開いた。
肩に掛かる長髪がやや軟派な印象を与えるが、黒のミリタリージャケットに細いズボン、ツヤツヤした革ブーツという格好はどこかのバンドマンにも見える。
「別に勧めてるわけじゃないよ。最低限の説明さ」
浩一は参ったな、と苦笑いを浮かべた。
和人はそんなやりとりを聞きながら、サンプルキャラクターの説明と運用方針を読み比べていた。
「大丈夫? 初心者さんなら戦士系、それも近接戦闘型がお勧めよ」
真珠がいくつかのキャラクターを指で示す。
人間の戦士、ドワーフの重戦士、ドラゴニュートの武闘家、ケットシーの密偵の四体だ。
「できることは少ないけど、その分迷わなくて済むわ」
「わかりました。じゃあ、人間の戦士にします」
和人が選んだ人間の戦士は、戦士としての技能の他に密偵の技能を心得程度に持っているキャラクターだった。
「決まったら、データを書き写すんさ。はい、シャーペン」
由香里がシャープペンと消しゴム、それに二個のサイコロを和人の前に置いた。
「他は決まったかい?」
浩一が訊くと、すぐに他のメンバーが手を挙げた。
「あたしは人間の魔術師にするわ。援護射撃は任せなさい」
「俺はケットシーの密偵。まあ、いつも通りうまく立ち回って見せますよ」
「んー、あたしはエルフの狩人。前衛二枚いれば安泰だんべ」
「では、私はエルフの神官にします。お手柔らかにお願いしますね、浩一さん」
「みんな決まったようだね。じゃあ、それぞれデータを書き写してくれ。あ、パーソナルデータは自由に決めてくれてかまわないよ。舞台は例によってフェンリル王国だから、そのつもりで」
浩一はにこり、と笑うと鞄から紙束を取り出した。
「さて、できあがったPCから自己紹介をお願いしようかな。あ、PCというのはプレイヤー・キャラクターの略だよ」
「大丈夫です、基本的な用語はネットで調べた時に覚えてきたんで」
「そうか。稗田先輩が有望な新人と言っていたのは間違いじゃないわけだ」
などと言いながら、浩一は紙束をめくっている。
「あったりまえでしょ? この真珠さまの目が狂うわけないじゃない」
真珠は自慢げに胸を張った。
「ところで、キャラの設定はできた? 世界観は大丈夫ね?」
「えーと、普通の欧風ファンタジー世界でしたよね?」
「そう。ヘレネースとバルバロスの抗争が続く、剣呑な世界だけどね」
ヘレネースというのは『ブレイドエイジII』における神々の戦争で、勝利者である光の神々に仕える種族である。
人間やエルフ、ドワーフなど、一般的なファンタジー作品で味方側に登場する種族が多い。
それに対して闇の神々に仕える種族がバルバロスで、こちらもゴブリンやオーガなど、ファンタジー作品の悪役が多い。
「まあ、そんなわけさ。高木君……は初めてだから、稗田先輩、まずお手本をお願いします」
「仕方ないわね。私はマーシャ、見ての通りの魔術師よ。これでも王立魔術アカデミーの優等生だったのよ。冒険者になったのは窮屈なアカデミーに嫌気が差したから。知識はため込んでるし、攻撃魔法も充実してるから、その辺りは期待していいわ。以上!」
真珠は堂々と役になりきっていた。
「さすが稗田先輩、見事です。じゃあ、次は高木君、やってみるかい?」
「え、はい。やってみますね。えーと、僕はオスカー、戦士です。元は傭兵団にいたのですが、自由が欲しくて冒険者に転身しました。戦いでは前に出て直接攻撃をします。……こんな感じで、いいですか?」
「うん、初めてにしては上出来だよ。それじゃあ、次は克君、頼むよ」
「うーす。おいらぁミッチェル、ネコだ。好奇心の赴くままに日々を暮らしてる。だから、そんな俺に冒険者は転職なんだわぁな。ま、適当に頼むわ。戦いじゃあまり役に立たねぇが、避けんなぁ得意だからよ、敵の気を引くぐらいはしてやんぜ。以上」
克、と呼ばれたバンドマン風の男子学生は本当に気怠そうで、どこまで演技なのか、和人にはわからなかった。
「まったく、ダイスの女神に好かれてる君がケットシーをやると本当に当たらないからね」
「女神だって女には違いないからな。部長も口説いてみれば?」
「なるほど。でも残念ながらその気はないよ。さて、次はユカさんか」
「ん、あたしはディアーナ、狩人。好きなもの、ネコ。冒険者なった理由、修行のため。戦い方は、弓を使った後衛からの射撃。以上」
対して由香里の方は片言でエルフのイメージとは少し違ったが、普通に話すと訛りが強すぎるから、それを抑えているのかもしれない。
「よし、じゃあ最後は美鈴、君の番だ」
「はい、浩一さん。……わたくしはエリス、太陽神の神官をしています。今回、故あって冒険者となりました。戦いは苦手ですが、回復魔法が必要になりましたら遠慮なくどうぞ。以上です」
美鈴、と呼ばれたやや昔っぽい服装の女子学生は見た目そのまま、淑やかな話し方だった。
澄んだ声は、出来のいい鈴の音のように和人の耳を通り抜けた。
「みんな最低限の設定はできたようだね。では、始めようか。君たちは今、フェンリル王国の都にある酒場兼宿屋、『花冠亭』にいる。ここは、冒険者向けの宿としてはそこそこのランクで、新米さんへのサポートもそれなりに充実している店だ……」
***
バルバロスを撃退し、郊外の農村に平和を取り戻したのは実時間にして四時間後のことだった。
「今日はずいぶん、ダイスが荒ぶったわね」
真珠は額の汗を拭う素振りをしながら言った。
事実、この日のセッションは大荒れだった。
判定の失敗が相次ぎ、戦闘では敵も味方も有効打を得られない状況が頻発した。
そんな苦闘の末の勝利である。
喜びもひとしおだった。
「……それで、どうだったかしら、新米君? 初めてのセッションは楽しめたかしら?」
真珠が新米君……和人の方に目を向けると、彼は呆然とした顔で自分のキャラクターシートを見ていた。
「おーい、新米君?」
真珠が身を乗り出してのぞき込むと、和人ははっとしたように顔を上げた。
「あ……えーと、稗田先輩」
「どうしたのよ、ぼーっとしちゃって」
「え、いや、なんかよくわからないんです。終わったっていう安心とか、色々と……」
「そう」
真珠は体を引き戻すと、お茶の缶を口に運んだ。
「まあ、あれよ。経験を積めばその内慣れてくるから」
和人の方に木皿を押しやる。
「食べなさい。アタマ使ったんだから、甘いもの食べて糖分補給しないと」
「あ、ありがとうございます」
和人は木皿からべっこう飴を取り、口に放り込んだ。
包装はきれいに広げて重ねる。
その枚数はすでに六枚ほどになっている。
真珠はあきれたようにそれを眺める。
「あんた、べっこう飴好きね」
「お婆ちゃん子なので」
和人は飴を舐めながら答えた。
言われてみれば、どこかセンスがジジくさいところはある。
初めて見たときはやけにセンスのない奴だと思ったが、それなら納得できる。
「そうですね……やっぱり、演技をするっていうのが初めてなので、戸惑いはありましたけど、でも……」
「でも?」
「楽しかったです。正式に入部させてください」
「ん、そっか。歓迎するわ」
真珠はとびきりの笑顔を作って右手を差し出した。
「改めて。三年の稗田真珠よ。副会長やってるわ。よろしく」
「よろしくお願いします」
和人も右手を差し出し、二人は堅く握手した。
不意に、拍手が巻き起こった。
「よろしく、高木君。今日から君も我がRPG同好会の一員だ」
浩一がやはり芝居がかった口調で言った。
「やることが大胆ですね、副部長」
克に言われて、真珠は自分が男子と握手しているという、当たり前の事実に気付いた。
みるみる内に耳が熱くなってくる。
「かっかっかか克! いい加減なこと言ってんじゃないわよっ!」
「ははっ、隠さなくていいですよ」
克はカラカラと笑っている。
「今度から新月の夜は背後に気を付けなさい……っ」
真珠は吐き出すように言うと、黙って俯いた。
胸の内に怒りと恥ずかしさとが渦巻いている。
「稗田先輩?」
美鈴の気遣うような声。
仲間を心配させてしまった。
真珠は、少しだけ責任を感じた。
だから、その分何かをして場の空気を悪くならないようにしないといけない。
真珠はだから、吠えることにした。
「克っ! 今度そーいうくっだらないこと言ったら承知しないからねっ!」
「あー、そういうとこも可愛いですよ、副部長」
克はそんな反応もお見通し、というように笑っている。
「承知しないって言ったばっかでしょうが!」
真珠は床を踏みならしながらムキになって反論した。
大人げないとは思うが、これが生まれついての性分だ。
「まあまあ、そうムキになることもないですよ。克君もからかいすぎだ。もう少し時と場合を考えてくれ」
頃合いを見て浩一が仲裁に入ってきた。
「とりあえず、時間も遅いし、今日はこれで解散」
「了解。またお願いしますね」
克はさっさと立つと、片付けを始めた。
他のメンバーが手を出す間もなく、手際よく片付けていく。
「はぁ……。ったく、しょうがないわね」
真珠の中で、怒りがどんどんと萎んでいく。
「克、後でなんか奢んなさいよ。先輩命令」
「うーす。挽茶羊羹でいいですか?」
「もうそれでいいわ」
真珠ははぁ、と小さく息を吐くと、自分の荷物をまとめ始めた。
***
帰りの電車が来るまで時間があったので、電車組はコンビニで時間を潰すことになった。
和人はコンビニの前で、何をするでもなく缶コーヒーを飲んでいた。
と、そこに練り羊羹が差し出される。
「君の分も買わせたの。迷惑かけたからね」
真珠だった。
「ありがとうございます」
缶コーヒーに挽茶の練り羊羹は合わない気がするが、もらえるものはもらっておくのが和人の信条だ。
「今日、すごかったですね」
「あいつはいつもあーやってからかうのよ。だから君もそんな気にしなくていいの」
「そんなもの、なんですか」
「そうよ」
和人は練り羊羹を一口かじった。
挽茶の味がじわり、と口の中に広がる。
「さて、あたしは下り電車だからそろそろ行くわ。じゃね」
真珠はそう言うと駅に向かって走っていった。
上りの電車が来るまで、まだ時間がある。
和人はコーヒーを飲み干すと、缶をゴミ箱に捨てた。
その時、携帯電話がメールの着信を告げた。
恵梨香からだった。
『同好会どうだった?』
用件はそれだけだ、と言わんばかりの飾り気のないメールだった。
和人は小さく笑うと、返信のメールを打ち始めた。