もとのまま
桶狭間において主君・今川義元が斃れたのを受け、松平元康は駿河への帰国途中。亡き父の居城であった岡崎城に立ち寄るのでありました。そこで彼が目にしたのは
【歓迎元康様】
の垂れ幕。今川から派遣された占領軍が義元の訃報に接し退去してしまったらしく、岡崎城に残っていたのは松平の家臣のみ。晴れて元康は13年ぶりの帰還を果たすのでありました。
『元康帰還』の報を受け。岡崎の旧臣は勿論のこと。三河に居る松平の親戚一同がこぞって元康を支持。その理由は、かつて三河で繰り広げられました親戚同士の諍いと岡崎の家臣の離反により織田・今川両氏の圧迫に苦しんだ挙句。今川に占領された苦い経験があったから。
「こんなハズでは無かった。」
と後悔に駆られる中、突如訪れた義元の討ち死にと元康の帰還。
「もうあんな思いは二度としたくはない。」
と旧臣並びに一族は結束。元康の勢力は一気に拡大するのでありました。そんな中、元康は
(……これだけしかないのか……。)
松平の勢力が西三河一帯に拡がったとは言え。その大半は親戚が持っている土地。彼ら一族の支援があって初めて成り立っている手前。彼ら一族の土地に手を付けることは出来ない。元康が有しているのは岡崎城周辺のわずかな土地のみ。そのわずかな土地から上がる収入のみで一族の権益を守らなければならない。幸い西の織田からは同盟の誘いがあり、東の今川は膨張政策を辞めたため攻め込まれる心配は無いにせよ。
(このままでは勢力の拡大もままならない……。)
加えて
(今川時代のことがあるため、今は我慢してくれている家臣にもいずれ我慢の限界と言うモノがやって来る……。)
更には
(いくさにおける恩賞を用意することにも四苦八苦……。とてもでは無いが、勢力の拡大など出来ぬ……。何処か原資となるものは無いものか……。)
そんな元康が目にしたもの。それは……。矢作川沿いに拡がる街の賑わいでありました。
(ここから兵糧の調達と課税を行えば、今後必要となる軍事費を確保することが出来る。)
と踏んだ元康でありましたが、そこに立ちはだかったのが
『本願寺教団』
本願寺は鎌倉時代に起こった新興宗教。新興であるが故。自ら収入を確保しなければ維持拡大をすることが出来なかった彼らが目に付けたのが交易。まだ手付かずの海や川沿いに市を開き、布教と増収を目論見成果を挙げていた彼らでありましたが、ただでさえお金のあるところは狙われやすいことに加え、彼らは新興の宗教であることもありまして、しばし攻撃を受け、拠点を失ったこともあった彼らは。
(いつ狙われても良いように。)
と、より頑丈な要害を建設する一方、
(狙われないようにするためには。)
とその土地土地の有力者に布教を行うことにより、自らの利権の確保を図るのでありました。そのことはここ岡崎でも行われておりまして、元康が目を付けました場所につきましても元康の父・広忠が「不入の権」。そこでの収益は全て本願寺のモノである認めた土地。元康が手を出すことの出来る場所ではありませんでした。それでもお金の無い元康は、本願寺の利権を手に入れたい。そんな元康の動きに対し本願寺は
「別に狙おうとしても構いませんよ。でも狙ったらどうなるかわかりますか?今あなたを支援している家臣と一族の大半は、我が本願寺の門徒でありますよ。そんな彼らが信じる我が本願寺に元康様が介入しようとした場合。家臣はどのような行動を採ることになるのでありましょうか……。それでもやりますか?」
実際、加賀など本願寺の国になったこの戦国時代。それでも背に腹は代えられぬ元康は、家臣に打ち明けるのでありました。そこで家臣が言った言葉。それは……。
「我々はこれまで信じて来た門徒を捨て、元康様の浄土宗に改宗します。」
と言うモノでありました。もっとも浄土宗と門徒は師匠と弟子の関係の宗派で。別に喧嘩別れしたわけでも無い。同じ『南無阿弥陀仏』を唱えることには変わりありません。もちろん本願寺への思いは家臣それぞれあるにせよ。大事なのは現世のこと。元康に忠節を勤め上げるのが家臣としても役目。これ自体。門徒の教えには反していない。むしろ反しているのは本願寺のほう……。とは言え、ここでも今川占領時代の苦い経験が生きたのは言うまでもありませんが……。
有力家臣のほとんどが元康の味方となって始まった本願寺との戦い。本願寺側の大半は、よくて分家筋。大半は松平に編成されていない小領主のみの陣容。元康側の完勝に終わると見られていたこの戦いでありましたが……。
本願寺は全国各地に展開する一大勢力。経済の基盤は流通経済。これまで幾度となく武力で持って利権を奪われて来た。それを守るためには……最新の兵器を備えておく必要がある。
迫り来る元康に対し本願寺側は、当時の最新兵器である鉄砲で応戦。その様は
『雨が降るが如く。』
危うく元康は……。
となるも多勢に無勢。次第に元康側優位に傾くのでありましたが、そんな元康が目にしたもの。それは
『南無阿弥陀仏』
と唱えながら先頭に立って元康側の部隊に突撃する。死をも恐れぬ門徒農民達の姿……。
宗教の持つ恐ろしさを目の当たりにした元康は降伏したものの多くは許すも、条件として浄土宗への改宗を要求するのでありました。
降伏した本願寺側に対し元康は
『もとのまま。』
と述べ安堵させたのでありましたが。問題なのはその『もとのまま』でありまして。どのような元のままなのか?と言いますと
『寺が建つ以前のもとのまま』
つまり更地にすることでありました。その後、これと同じことを元康改め家康が実行に移したのが、1614年の大坂冬の陣後のことでありました。