作者の魅力によってしか読まれない作品は作者が死んだら終わりである
タイトルは煽りが重要ですよね。
文学に限らず、あらゆるジャンルの芸術において、生前には成功を収められず、死後に評価されたアーティストが存在します。文学のジャンルで言えば、例えばカフカとか。
魅力があり、テーマがあり、読者の心に何らかの爪痕を残せる作品だけが、時を超えて評価を受けることができるのでしょう。
そしてそれは、一度でも創作の世界に足を突っ込んでしまった者ならば、誰もが夢見る理想であるはずです。
……え? 違うって?
そうかもしれません。これは私の単なる思い込みかもしれません。
お笑い芸人の又吉直樹が小説を書いてとある著名な賞を受賞した後、某大手検索サイトでの検索予測が『又吉 印税』になったと本人がテレビでネタにしているのを見たことがあります。
私は件の小説を読んでいませんので、内容に関する評価はできません。しかし、例えば私の作品が何かの手違いで賞を取り出版されることになったとしても、身の周りの人間たちに言われるのは『で、いくら売れたの?』『印税どれぐらい入ってきたの?』であって、作品の内容に対する感想ではないと思います。
悲しいですね。でも、それが今の『小説』を取り巻く環境であり、世界の現実です。
でも、そんな俗世に嫌気が差したからこそ、自分の世界を作りたいと思ったのではないですか?
話が反れました。前述のカフカにせよ、全く縁もゆかりもないところから突然作品が評価されたわけではありません。元々ごく少数の仲間内では評価されていたものを、カフカの死後に拾い上げ、再評価した人物がいます。
このごく少数の理解者がいなかったら、カフカの名前が世に出ることはなかったでしょう。もしかしたら、周りに理解者がおらず、誰の目にも触れることなく消えていった傑作および作家もいたかもしれません。
もし私がこの時代に生まれていたら、私が必死で書きためた原稿用紙なんか、家族の『何だこれ』という冷笑と共に、中に目を通されることもなくそのまま灰になっていたでしょう。
その点、インターネットと投稿サイトのある現代はいいですね。もし明日私が交通事故で死んだとしても、サイトが閉鎖されない限りは人目に触れる機会があるのですから。
魂を込めて書いた作品が、自分の死後もなお誰かの心の琴線に触れられるとしたら、そこには確かに自分の生きた証がある。こんな素晴らしいことはないと思います。
ところで、自分の作品の愛し方は人それぞれです。多くの人に読んでもらいたいと願うのも当然のことでしょう。この広大なネット小説空間には、そのために作者同士が相互に評価したり感想を述べあったりする文化がありますね。
これは私の想像ですが、そうした作者クラスタは自分の作品を読んでもらうためならどんな苦労も厭わない、自分の作品を我が子のように愛する方々なのでしょう。自分の子供が幼稚園や学校で不憫な思いをしないように、他の親御さんたちと仲良くしておくのと近い感覚。あくまで私の想像です。
しかし、人間と創作物は違います。人間の子供は成長していずれ大人になりますが、作品は作者が変わらない限りずっとそのままです。
頑張って他の作者の上手くもない小説を心にもない言葉で褒め称え、必死で交流して読んでもらった拙いままの小説は、その作者が死んだらそれ以上誰にも読まれなくなる。
え、それでもいい?
小説なんて自己顕示欲を満たすためのツールでしかないんだから自分が死んだあとのことなんてどうでもいい?
自己満足で書いてるだけなんだし下手でも馴れ合いで読んでもらえるんだからそれでいいだろって?
ああ、そうですか。そうですね。おっしゃる通りですよ。
貶されるとつらいし、自己批判は難しい。ササッと書いて他の作者とお世辞を言い合ってるほうがよっぽど楽しいですよね。
でも、私は自分が死んだ後にも残るようなものを書きたい。今はそれが叶わないとしても、いつかは。
私自身のことなんかどうでもいい。本にならなくてもいい、有名にならなくてもいい、偶然私の作品世界に迷い混んだどこかの見知らぬ読者の心に、たった一筋でも何かの爪痕を残せるような、そんな作品を。
もっと現実を見ろって?
現実なんか糞食らえと思ったから私は今ここにいるのです。
理想を捨てたらそこでおしまいですよ。
夜中に勢いで書いて、先程読み返して我ながら随分青臭いこと書いてるなあと赤面しましたが、まあたまにはこんなのもいいかなと思ってそのまま投稿してみます。