7月7日 雨
窓を叩く雨の音で目を覚ました。締め切ったカーテンの向こうから、灰色の光が少しだけ漏れ出している。わざわざそこまで足を運ばなくても分かる。ああ、今年も雨か。何せ季節が梅雨だから、それも仕方ない。
7月7日
雨
目覚ましより先に目を覚ましたのは久しぶりかもしれない。時計の指し示す時間を見て少しだけ迷ったが、結局アラームを解除してベッドから抜け出した。昨日何となく早めに眠りについてしまったせいで、あまり気持ちの良い二度寝は出来そうになかったからだ。もちろん布団を頭まで引き上げ、暗闇の中で身体を丸めてしまえば再び眠りの中に吸い込まれることは分かっている。起きた直後の私の頭は、たとえどれだけすっきりしているようでも、本当はまだ半分眠っているのだ。そのことを私は良く知っていた。今日でちょうど20年目、それだけの時間を私はこの身体と付き合ってきた。
少し余裕を持って起きた分、余裕を持った朝を過ごそうと思った。トースターに食パンを放り込むと、私はコーヒー豆を電動ミルに流し込む。時間のない朝にはお湯を注ぐだけのインスタントコーヒーしか飲まない。こうしてお気に入りのコーヒーを淹れるのは小さな贅沢だ。そんな贅沢もしたくなる。20回目の誕生日は、ちょっとだけ特別だ。
誕生日、それは私にとって、他の人より少しだけ多くの意味を持っている。と言っても他愛もない話だ。普通は365個の選択肢のうち、無意味な一つに個人的な意味がちょこんと付け加えられる。9月4日や5月20日は全ての人に意味のある日ではない。でも7月7日は、少しだけ違う。みんなが七夕と呼ぶその日に、私は生まれた。
誰しも少しは誕生日に愛着を覚えるものだと思う。私もその一人だ。色々な書類に記入もしてきたし、暗証番号に使ってみたりもする。自分だけに与えられたその特別な数字は、何だか少しだけホッとするような、居場所を与えてくれるような感覚さえもたらしてくれる。たまたまデジタル時計が07:07と表示しているのを見るだけで、じんわりと心が和むから不思議だ。そういう私の特別な日が、星空、笹の葉、短冊と願い事、それからきれいな言い伝えに彩られていると言うのは何となく誇らしい気さえする。
小さい頃はよく「織姫様だね」なんて言われた。自分でもぼんやりと、その儚げなヒロインに自分を重ねてみたりした。子どもは誰でもお姫様になれるのだ。私が織姫様から七夕生まれになったのは、いつ頃からだっただろうか。自然と自分も周りも、そんなことは口にしなくなっていた。
教室には予定通り早く着いた。ただでさえ受講者の少ない一限目の授業、その教室に私はいつも二、三十分は早く入るから、大体は一番乗りだ。黒板近くのスイッチの感触もすっかり手に馴染んだ。それをパチンパチンと鳴らしてから、明るくなった教室の中をまっすぐといつもと同じ座席に向かった。
私は誰よりも早く教室に入るのが好きだ。そうすれば必ずお気に入りの席に座ることが出来る。私は人が沢山詰まった教室で、開いた座席を探すあの時間がとても苦手だ。もしかしたら気に入る席がないかもしれない。それどころか私の居場所は一つもないかもしれない。そんな不安の中で一秒でも早く居場所に落ち着こうと教室中に目を走らせるのが大嫌いなのだ。
それから早く教室に入れば、授業が始まるまで自由に過ごすことも出来る。ともすればそれは、自室で過ごす時間よりもずっと自由なのではないかとすら思えてくる。私はその時間にゆったりと文庫本のページをめくるのが大好きだ。がらんとした教室で物語に触れているうちに、ポツリ、またポツリと生徒が席を埋め始める。それからやがて生徒同士で会話が始まり、それは穏やかな朝の喧騒へと成長していく。しばらくすると教授が現れ、講義が始まる。そういう全く違う時間が同じ教室にゆっくりと流れていて、地続きになっているのだということはとても不思議で、ぼんやりとした満足感を私に与えるのだ。白髪の教授が早足で教室に入ってきて、私はパタンと文庫本を閉じた。
「それにしても凄いよね。もう丸二年?」
景子は学食の小さなケーキをフォークで更に小さく切り分けながら、感心したように言った。ただのチョコレートケーキにカラフルな星型のチョコレートを散りばめたそれは、七夕の今日でなければ「七夕ケーキ」だなんて誰も思わなかっただろう。それどころか大人っぽいチョコレートケーキに子ども染みた星型のチョコが載せられた姿は、今日と言う日でしか容認され得ない歪ささえ持っている。
「まだたったの二年だよ」
そう返しながら私も一口、ケーキを口に運んだ。景子と同じ七夕ケーキ。味は悪くなかった。
「いやいや、だってもう近くにいた方がずっと短いでしょ?」
「まあね」
「それってなんか、私には想像もつかない世界だなあ。私なんて遠距離無理だと思ったから、こっちに来る前に別れてきたし」
「景子はちょっと極端だよ」
私がそう言うと、景子は「そう?」とひょっとこのような顔で言った。彼女は時折意味もなくそう言う妙な顔をする。それがおかしくて、私はクスクスと笑った。
「でもやっぱり凄いよ、ホントに。私の周りだと大学で離れ離れってパターンはもうほとんど別れてるもん」
「そうなんだ」
私は景子ほど友達が多いわけではないから、そう言う事情は良く知らなかった。
「やっぱりハル、なんか古風で一途な恋愛してそうだしねー」
「もう、やめてよ」
茶化して言う景子に、私は照れたようにして返した。でも内心では、本当にやめて欲しいと思っていた。
彼女は私の心のうちを知らない。私と彼のことを知らない。彼と直接会ったこともない。私と彼の関係が、ただピリオドを打たれていないだけの「一般的な遠距離恋愛」だと知らない。恋人と離れ離れの私の前で「遠距離恋愛は続かない」と言う一般論を平気で言えてしまうのは、きっと「でもあなたは違うから凄いよ」という意図なのだと思う。そう言う風に無邪気に「特別」を信じられるのって、私には良く分からない。
「今夜会いに来てくれるんでしょう?」
「うん、一応ね」
「良いなー羨ましい」
眩しそうに目を細めて、彼女は言った。彼女の羨望がどこまで本気なのかは分からない。彼女は何でもちょっと大げさなくらいに表現するし、おどけてわざとらしく振舞ったりするから、ときどき私には本当の彼女がどこにいるのかさっぱり分からなくなる。私は上手く笑い返せているだろうか。
「でもさー七夕の夜に会いに来て貰えるってさ」
今度はわざとらしくない笑顔で彼女は言った。
「何だか、織姫様みたいだね」
久々に言われたな。
別れよう、そう思っていた。嫌いになった訳じゃない。他に好きな人が出来たという訳でもない。だけどあの頃みたいに恋焦がれているかと言えば、多分そうではなかった。そのことに気付いてしまったから、別れようと思った。ちょうど二年間と言うのもキリが良い。
私とコウちゃんが付き合い始めたのは、ちょうど二年前の今日だった。私はバスケ部のマネージャーで、彼はバスケ部のエース。どこにでもある平凡な話だと思う。
私はマネージャーの中でも目立つ方ではなかったから、女の子から人気の高いコウちゃんは手の届かない存在だと思っていた。だから時々言葉を交わし、飛び上がりそうにドキドキしながらもどこかホッとするような、そんな時間を少しだけ分けてもらえればそれで満足だった。
私のどこが良かったのかは、未だに良く分かっていない。だけどあの日、彼は私の前に現れた。彼も彼なりに緊張していたのかもしれない。彼は私の目の前で、黙って自転車の荷台を指さした。二人乗りなんてしたこともなかった私にはその意味が分からなかったから、私たちの間には気まずい沈黙が流れた。一言「乗れよ」と言ってくれれば分かったのに。
彼は部活で疲れた身体に鞭打ち、自転車を走らせた。私は彼のその大きな背中や、汗で湿った制服の裾、それからもしかしたら初めての二人乗りへの不安感もあったかもしれない、そういうものがごちゃ混ぜになったものでもう訳が分からなくなっていた。心臓がうるさいくらいに飛び跳ねていて、そのまま壊れてしまうんじゃないかと思った。
街の灯が少しずつ遠ざかり、どんどん人気がなくなっていった。私は勇気を振り絞って「どこへ行くの」と訊ねたけれど、彼は「良いから」と短く答えた。それで勇気は使い果たしたから、あとはただじっと、彼の腰に手を回して黙っているしかなかった。
彼が連れてきたのは大きな広場を持つ公園だった。日中は家族連れやボール遊びをする子供たちでにぎわっている公園は、夜闇の中で少し怖いほどに静まり返っていた。周囲の遊歩道には街灯があったけれど、広場の中心の方にはもうほとんど光が届いていない。彼はそのあたりまで乗り入れると、一番暗くなる辺りで自転車を止めた。
「着いた」
息も切れ切れと言う様子で彼が言って、私は自転車から降りた。それを確認すると彼も自転車から離れ、芝生の上にゴロンと横になった。二人を乗せて結構なスピードで漕いできたから、彼の息は相当に上がっていた。
「ごめん、私……重かった?」
「いや、そんなことねえよ」
恐る恐る訊ねた私に、ほとんどかぶせるようにして彼は答えた。それから、運動部なめんな、と小さく呟いた。
「プレゼント」
彼はそう言って、人差し指をピンと伸ばした。私は一瞬意味が分からずに、彼の指先をじっと見つめていた。
「ちげえよバカ。上」
彼に言われて慌てて空を見上げた。空には星が溢れていた。
周りに明かりのない場所から見ると、濃紺の夜空はびっくりするほどくっきりと星を浮かび上がらせていた。全天に数えきれない星が広がり、その真ん中には光の帯。昔の人がミルクを流したとか、大きな川だって言った気持ちも良く分かる。その星たちの集まりは全体を大きく二つに分けるように、夜空の中心をさらさらと流れていた。
そしてそれを挟んで、一際大きく輝く二つの星。こと座のベガと、わし座のアルタイル。今年は、会えたんだ。
「おめえ今日誕生日だろ」
「え、うん……」
「これが俺からのプレゼントだ。嬉しいか?」
「……」
彼は多分真剣で、顔も真っ赤にしていたんだと思う。その時は暗くて分からなかったけれど、今の私なら良く分かる。多分彼は湯気が出るくらい真っ赤な顔でそう言っていた。私は思わずぷっと吹き出してしまった。それまで死ぬほど緊張していたから、彼のそんな真面目な様子にどうしても笑いが止まらなくなってしまったのだ。
「何で笑うんだよ!」
「ごめん、でも……おかしくって……」
どうにか抑えようとしても、私のお腹は私の物じゃないみたいにクスクスと小さく痙攣を続けた。彼は不器用でガサツなくせにびっくりするくらいロマンチストで、それでいてとっても一生懸命だった。きっと「この星空は最高のプレゼントだ」って、心からそう思っていた。流行りもののアクセサリーや、ちょっと大人っぽい香水の方が星空よりも喜ばれるなんて考えは、彼の頭にはこれっぽっちもなかったのだろう。そんな彼が、私は大好きだった。
大学に入って、私たちは遠距離になった。第一志望は同じ大学だったけど、そう全ては上手く行かない。私は無事に合格し、彼は第二志望に合格した。
田舎から出ていく私たちは、同じ関東ならお隣さんみたいなものだと思っていた。だからその時は何の危機感もなかったし、愛し合う二人の間には何の不安もないだなんて、本気でそんなことを思っていた。そんな風に思えるくらい、私たちはお互いが大好きだった。
けれどそうは行かないのもお決まりのパターンだ。思った以上に忙しいキャンパスライフによって、私たちの生活はマジックテープの様にべりべりと引きはがされていった。彼は元々ガサツだったし、私も慣れ合うのは得意ではなかったから、電話やメールのやり取りはとても少なかった。むしろ離れたからと言って頻繁に連絡を取るようになるのは、なんだか互いを必死で繋ぎとめようとするみたいで嫌だった。そんな必死にならなくても、私たちはずっと繋がっていられる、そう信じたい気持ちがあった。もしかしたら彼も同じ気持ちだったのかもしれない。私たちは少し意地を張るようにして、本当に限られた頻度でしか連絡を取り合わなかった。
それでも私たちの関係は壊れなかった。彼は長身でスポーツマン、顔も結構悪くないし何より気さくな性格だからきっと機会はいくらでもあったと思う。でも彼が浮気をすることはなかった。私に隠し通していると言うことはないと思う。彼はそういう器用なまねができる人種ではないのだ。
私の方にも機会くらいはあった。サークルで知り合った一つ上の先輩から告白されたことがある。彼はコウちゃんとは正反対みたいな人だった。小柄でスポーツはからきしダメ、どちらかと内気だ。でもとても繊細で、優しくて、それから博識だった。彼はときどき、どこか遠くを見つめるような目をした。その先に何があるかは誰にも分からなかった。そういう目をするときの先輩は少し悲しげで、それから大人びて見えた。
サークル内でもあまり目立たなかった私は、自然と先輩と一緒にいることも増えた。多分どちらかと言うと、コウちゃんよりも私とお似合いだったんじゃないかと思う。でも、私にそういうつもりは全くなかった。先輩の繊細な心も、私のその気持ちには気づいてはくれなかったみたいだけど。
彼氏がいるからと、断った。先輩はそれを知らなった。多分サークルの人たちも多くが知らなかったと思う。あまり言いふらすことでもないと思っていたし、それまで聞かれることもなかったから黙っていた。でもそれは黙っていたら分からないくらいには、私とコウちゃんの関係が私の生活の中で小さな場所しか占めていないという、そういう寂しい事実を私に再確認させた。
先輩は私に謝った。知らなかったからごめん、と。でもそれから最後に、彼はこう言った。
「その彼と別れてくれだなんて言わない。だけど一度だけそのことを忘れて僕を見て欲しい。もし僕が間男なんかじゃなく、ただの一人の男だとしたら、君は僕をどう思う? もしそれが悪い感情ではないのならば僕は君を待ちたい。それでもだめなら、君のことは忘れる。僕はただ、君を幸せにしたいだけだから」
私は答えられなかった。今はそういう風に考えられない、とただそう答えた。彼の問いかけから逃げ出した。嫌な女だと思う。だけど私は混乱していたのだ。頭を整理するには少し時間が必要で、その為には一人になる必要もあった。だって「彼がいなければ」なんて考え方、私にとっては驚くほど斬新で、考えもしないものだったのだから。
それから私は考えた。沢山考えた。彼のこと、私のこと、私の人生のこと。彼のいない人生のこと……。答えは何も出なかったけど、少しだけ頭がクリアになった気がした。
私たちの関係は多分、何も生み出していない。高校生だった頃はたくさんのものを生み出していた。彼と歩く帰り道は全てのものが輝いていたし、共に過ごす時間はいつも私を幸福にしてくれた。離れてからしばらくも、やっぱりそうだった。離れていても彼のことを考えれば幸福だったし、次に会える日をいつも楽しみにしていた。そういう関係はたくさんのものを私たちに与えてくれたのだと思う。
だけど時間が経って、それは少しずつ変わっていった。今では私たちの人生は、時々しか交差しない。特別な日には一緒に過ごした。バレンタインデー、ホワイトデー、クリスマス、それから互いの誕生日……。一緒にいれば楽しかった。ああこの人は私の恋人だなと疑うこともなかった。でもその間の何でもない日には、私たちは恋人だと本当に言えただろうか?
義務感だったのかもしれない。恋人として過ごす義務。他に恋愛しない義務。私たちはそういう義務を忠実に履行していたし、それは多くの場合とても良いことなんだと思う。だけど私たちは忠実過ぎた。笑顔のまま、関係を疑う機会すら奪われたまま、何かを少しずつ少しずつ取りこぼしていっていた気がする。それはきっと救い上げたつもりで、指と指の間からサラサラと零れ落ちていたのだろう。気付けば今、手の中に、どれだけのものが残ってるだろうか。私は怖いから、開いて見ることは出来ない。
私は彼が好きだ。今も彼がやって来るのを、約束の二十二時を楽しみに待っている。彼がやって来て、一緒にケーキを食べて、お祝いをして、それから多分身体を重ねることになるだろう。それが幸福だってことは間違いない。間違いないから、幸福なうちにさよならしたい。多分今なら良い思い出に出来るし、それからお互いもっと幸せになれるから。幸福な二年間を、いつまでも大切に仕舞っておきたいから。明日目を覚ましたら、さよならしないと。
家事を済ませてしまってからベッドに腰を下ろした。ご飯は景子たちと食べたから洗い物はなかった。洗濯物を取り込んで、丁寧にアイロンがけをして、綺麗に畳んでタンスに仕舞った。彼が来るから部屋もきれいに掃除した。合間にはチラチラと時計に目をやった。二十一時三十分。微妙な時間が残ってしまった。
ベッドに座ってお気に入りのクッションを抱いたら、心地良い気怠さが身体を包んだ。ほんの少しだけお酒を飲んだから、そのせいかもしれない。彼が来るからやめておこうと思ったのだけど、二十歳になったお祝いだと言われるとどうしても断り切れなかったのだ。本当に二十歳までお酒を飲んだことのない私のことを、彼女たちは律儀だと笑った。だって、そういう性格なのだ。
初めて飲んだアルコールは何だか不思議な味がした。ちょっと苦くて、なんだか喉の奥でふわっと広がるみたいだった。まだ美味しいとは思えなかったけど、それもだんだん好きになるのだろうか。
大きなクッションを、きゅっと抱きしめてみる。顔を埋めると良い香りがする。これは彼がくれたものだ。彼からの、二回目の誕生日プレゼント。去年の今日、ちょうどこのくらいの時間。ベルが鳴ってドアを開けると、大きな包みを抱えて満面の笑みの彼がそこに立っていた。久しぶりにその笑顔を見たあの時の気持ちは、どうしても忘れられそうにない。それに大きな包みを見たときの驚きも。彼がこれを抱えて、はるばる電車を乗り継いできたと言うことがどうしてもおかしくて、私は堪え切れずに吹き出した。いつかみたいにクスクス笑い続けた。彼は「そんなに笑うならやらないぞ」と拗ねてみせた。でもそれをまた抱えて帰る彼を想像したら、いよいよ私の笑いは収まらなくなってしまった。どうして彼はこうも、誕生日プレゼントで私を笑わせてしまうのだろう。一つの才能なんじゃないかなと思う。今年も私は笑えるかな……
不意に視界がジワリと滲んで、頬を熱いものが流れた。しまった、と思った。でももう遅かった。一度流れ始めた涙は止められない。止めようとして目頭を押さえても、ギュッと眉根に力を入れてみても、あふれる雫は止められなかった。泣きはらした目で彼に会いたくはない。だって今日は最後なのに……そう考えたら更に涙は止まらなくなった。洪水は両目では飽き足らず、鼻の方まで詰まらせ始める。
私はクッションに顔を埋めた。何だかそうせずにはいられなかった。柔らかいクッションの生地が私の涙や鼻水を吸い込む。顔を動かすと、自分が濡らした生地が気持ち悪い。妙に冷めた気持ちが湧いてきた。その冷たい気持ちは、涙を押し出してくる気持ちとぐちゃぐちゃに混ざり合って、今度は色んなことに腹が立ってくる。もう何が何だか良く分からなかった。何が欲しいのか、何がしたいのか、何が私をこんなに追い詰めるのか……
考えは一個もまとまろうとしなかったから、自分がゆっくりと眠りに落ちていっていることにも気付けなかった。
ケータイの振動で目が覚めた。一瞬何が起こったかわからなかった。着信画面にはコウちゃんの名前が表示されていて、慌てて時計を見たら、もう二十三時を過ぎようとしていた。状況がよく飲み込めないまま、私は慌てて通話ボタンを押した。押した瞬間しまったと思った。泣き疲れて眠った私は、多分酷い声しか出せない。
『ごめん、ハル! 今着いた!』
電話がつながった途端、彼の声が溢れてきた。私には声を出す暇もなくって、それは少しだけ助かった。
『理由は後で説明するから、とにかく下に降りて来てくれ!』
「えっ、でも……」
私の声は思った通りあまりにも酷くて、出しかけた声を途中で押し込めてしまった。
『ちゃんと埋め合わせはする! とにかく急いで!』
そう言うと彼は一方的に電話を切ってしまった。私は一瞬呆然として立ち尽くす。こんなに大幅に遅刻して、私の気も知らないで、いきなり下に降りて来いだなんて……。流石にちょっと勝手が過ぎる。
腹を立てたままアパートの下に降りてみたが、彼の姿は見えなかった。キョロキョロと辺りを見回したが、それらしき人影は見当たらない。そのとき、近くに停まっていた古い軽自動車が、ヘッドライトをパッパッと点滅させた。よく見ると運転席に乗っているのは、確かにコウちゃんだった。
私は慌てて駆け寄ると、助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「わりぃ、遅くなった」
彼は顔の前で手を合わせて謝った。
「事故で途中が大渋滞だったんだ。ずっと運転してたから連絡も入れられなかったし、ごめん!」
彼があんまり熱心に謝るので、私は許してあげることにした。それに何だかそんな彼を見ていたら、一人で泣いたり怒ったりしていた自分がバカみたいだった。彼は「とりあえず行くぞ、時間がない」と言って車を出した。私は慌ててシートベルトを締めた。
「行くってどこへ? ってかこれ、コウちゃんの車?」
「いや、車はバイト先のオヤジから借りてきた。オンボロだけど我慢してくれ」
彼は一つ目の質問には答えなかった。
「うち、駐車場ないよ?」
「大丈夫。近くにコインパあるの、来るとき見てきたから」
そう言いながら彼は車を走らせた。車はいまどき珍しいマニュアル車だった。
私は昔、マニュアル車の助手席に乗ったことがある。父親の会社で使っていた古いバンがマニュアル車だったのだ。当時はそれがどういうものかは分かっていなかった。運転しながらしきりにシフトノブを動かす父親の姿を、不思議な思いで見つめていたのを何となく覚えている。自分の免許はオートマでとったから、それ以来マニュアル車に乗ったことは一度もなかった。
コウちゃんも普段はマニュアルなんて運転する機会がないみたいで、操作はちょっとだけ不慣れだった。エンストはしなかったけれど、シフトチェンジのときに時々カクンと揺れることがある。そのたびに彼は小さく「ごめん」と言った。
「これでもちょっとはマシになった方なんだ。向こうを出た時はホントに酷かった」
必死にギアと格闘しながら、彼は申し訳なさそうに言った。私は「大丈夫だよ」と答えた。
必死で運転する彼を見ていたら、二年前の今日を思い出した。あの時彼は私の前で、必死でペダルを漕いでいた。少し上り坂になった時には立ち漕ぎで、何とか私をあの公園まで送り届けようと、一生懸命にペダルを漕いでいた。
あの頃から色々なことが変わった。二人は今は恋人で、だけど遠くに住んでいて、毎日顔を合わせることはなくて、彼は車が運転出来て、私にはもうお酒が飲める。ハンドルを握る彼の横顔は、あの日よりもずっと大人っぽかった。たった二年かもしれないけど、彼は確かに大人になっていた。でもあの日と全く同じ必死さで、私をどこかに運んでいた。
「ハル、もしかしてさ、泣いてた?」
急に訊かれて、私は少し焦った。
「泣いてない」
「嘘言え。俺が来なくて寂しかったんだろ」
彼のそんな物言いに、私は少しムッとしかけた。でも私が言い返す前に、彼は私の頭にポンと左手を乗せて「ごめんな」と言った。ガサツな彼には似合わない、優しい声だった。彼の左手は前会った時より少しだけゴツゴツしていて、なんだか男らしくなった気がした。私は「運転に集中しなさい」と、彼の手を掴んでハンドルの方へと押し戻した。
しばらく走っていると、だんだんと辺りから明かりが少なくなっているのに気付いた。私はもう、彼の意図に気付きかけていた。二年間も付き合っていたから、彼の考えていることも結構分かるのだ。
しばらくの間私たちは言葉を交わさなかった。でもあまり不快な沈黙じゃなかった。オンボロ軽自動車はたまにガタガタ言ったし、路面の凹凸を拾っては大袈裟なくらいに揺れたけど、私たちは何だか平和な気分で包まれていた。彼もそう感じていたかは分からないけど、横顔はなんとなく、そんな感じだった。
「なあ、ハル」
道幅が少し狭くなり、上り坂が増え始めた頃に彼は再び口を開いた。
「お前さ、まだ俺のこと好きか?」
不安げな声だった。
「うん……好きだよ」
私は自然と答えていた。頭より先に、心が勝手に答えてしまったみたいだった。もしかしたら、さっきまでの私なら違う答えをしたのかもしれない。何も答えられなかったかもしれない。だけど今、私の言葉は唇を心地良く震わせて、車内の空気にじんわりと溶け込んで行くようだった。
「そっか、良かった」
彼の声も、さっきより更に温かかった。
「俺も好きだよ」
「うん」
何だかとても、満たされた気持ちになった。
「実はさ、ちょっと不安だったんだよ」
「不安?」
「ああ」
「私の気持ちが離れちゃうのが?」
「それもまあ、ある。でもそれだけじゃない」
彼はそこで一度言葉を切った。
「もしかしたら俺が、ハルのこと縛りつけてるかもしれないって考えたらさ、すげえ不安だったんだよ。本当はもう俺のことなんか好きじゃなくなっても、他に好きな男が出来ても、お前は優しいから黙って我慢しようとするんじゃないかってさ。こうして離れ離れになったのも俺が悪いみたいなもんなのに、その上お前の幸せになるチャンスまで奪ってんじゃないかって考えたら、どうしようもなく不安になるんだ」
坂道が急になって、彼はギアを落とした。エンジン音が少し大きくなる。
「コウちゃんは悪くないよ」
私はなるべく、優しく響くように言った。
「私、幸せだよ」
そう口にしながら、ああ私は幸せなんだって思った。その言葉は口の中で不思議に踊って、それから胸を温かくした。ありがとう、と彼が言った。
彼はずっと私のことを考えてくれていた。そう思うと胸がいっぱいになった。私がいじけて、自分のことばっかり考えているときも、彼は私の心配をしていた。彼はガサツで、無神経だけど、とっても優しい。
私は静かに涙を流した。でも拭うのは我慢した。車内は暗いし彼は運転中だから、きっと気付かれない。大丈夫。握った拳が膝の上で小さく震えた。
彼の左手が伸びてきて、何も言わずに涙を拭った。指の皮はちょっぴり厚くて、表面はガサガサしていた。男の人の指だった。
沢山のものが変わった。失くしたものもきっとたくさんある。一緒にいても緊張しないし、彼のことで頭がいっぱいになることもない。手をつなぐだけで舞い上がったり、キスすることに臆病になったり、隣を歩く距離に悩んだり、そういうことはもう出来ない。デートの前でもぐっすり眠れるし、部屋着にすっぴんでも平気で会えちゃう。それでも、多分それで良いんだと思う。そういうのはきっと、一番大切なことではない。確かめるのが怖くって、手のひらの中に閉じ込めて、自分で見えなくしてただけ。本当に大事なものは、その中にちゃんと残ってた。
曲がり角を抜けると、不意に視界が開けた。フロントウィンドウ一杯に星空が広がる。雨はとっくに上がっていた。多分家を出た時から。私が気付かなかっただけ。
星空の真ん中には、眩しいほどの光の帯。ベガとアルタイルは、今年も会えたみたいだった。
7月7日
雨のち、晴れ
七夕と言う事で思い切って書きましたが、黒歴史になりそうなものが出来上がりました。
恋愛と言うモチーフは私にはちょっと早いみたいです。