姉がいない
みゃあこといえば、昔、あたしにもお姉ちゃんがいたような気がする。
「今日もみゃあこが来ないよ」
「明日は来るんじゃないの?」
「またあ。それ何回目だ」
「あんただって何回みゃあこみゃあこ言うのよ」
ここ何日か、こんなやりとりがずっと続いている。
みゃあことは、あたしたちがここに来てから毎晩現れる猫のこと。あたしはべつになんとも思っていないんだけど、ゆえがやたらとかわいがっていて、あたしはそれに付き合わされている。
あたしたちはこの春大学生になったばかりで、今まで育った地を離れて小さなアパートで二人暮らしをしている。まだこの町にも慣れないから、毎日授業の後は家の周りを探索して行動範囲を広げている。しかしこれが結構大変で、あたしは家に着くなりいつもばたりと床に倒れ込んでしまう。それなのにゆえは横で元気に鼻歌を口ずさむのだ。
ゆえとは小学生の頃から同じ学校で、家も近所だからよく遊んだし、親同士もよく一緒にお茶していた。そして気付けば同じ高校に通い、同じ家から同じ大学に通うようになっていた。あたしにとってゆえは、気を遣わなくていい、楽に過ごせる相手だ。簡単に言えば、二人は姉妹みたいな間柄なのだ。
「ねえみゃあこはどこにいるの?」
ゆえが小さいベランダに向かって言うと、ミャー、と一声返ってきた。
今のはみゃあみらしい。らしい、というのは、あたしには猫のことがよく理解できないからなのだけれど、ゆえ曰く、毎晩来る二匹の猫は姉妹で、みゃあこが姉でみゃあみが妹だそうだ。最近みゃあこは姿を見せないのに、みゃあみは相変わらず一匹でここへ訪れる。
「わかんないんだよねえ」
ゆえはしゃがんでみゃあみを撫でている。
「そりゃそうよ、猫に話し掛けてわかるもんかい」
「違うよ、そうじゃなくて、みゃあこがどこにいるかみゃあみもわかんないって」
「は?」
「あのねひなちゃん、わたし、猫の思うことがなんとなくわかるの」
ゆえはわざわざこちらに向き直って力強く言った。
「はあそうですか」
あたしは適当に返事をして鍋を円卓に持ってきた。今日の夕飯は、安売りしていた野菜と豆腐を煮ただけの鍋だ。二人ともまめではないから、どうしても単純な食事になってしまう。
「ちゃんと聞いてるう?」
右手をみゃあみの頭に置いたまま、ゆえは訝しげな声を出した。
「聞いてるよ」
たしか前にも似たようなことがあったような。近所の犬に、お腹が空いているよね、と話し掛けたり、牧場の羊を群れから一頭指差して、あの子と仲良くできそう、と言ってみたり。そうだわ、ゆえは動物と話ができるって言う子だったわ。
それでもあたしが話を軽く流せるのは、それがどっちでもいいことだからだ。そんな馬鹿なと目くじらを立てて反論するのも、そんな能力すごいじゃないと感心するのもあたしの考えには合わない。普通そうだと思うけど、興味がないことには何も感じないのだ。
「みゃあみもみゃあこがいなくて寂しいみたい」
「ご飯食べないの?」
「食べる!」
小鉢と箸を二人分用意してあたしが座ると、ゆえは急いで部屋の真ん中に戻ってきた。
「ひなちゃん、野菜まだ残ってる?」
「冷蔵庫にあるよ」
にこにこしながらゆえはあたしの横を通り過ぎて、冷蔵庫を漁ってカタカタと何かをしてからまたあたしの横を通ってベランダに手を伸ばした。
「みゃあみ、ごはんだよー」
猫もご飯らしいから、あたしもご飯を食べることにした。自分の器にお玉で白菜と豆腐と人参を盛って、まず豆腐をつついた。
「しまった」
豆腐がすごく柔らかい。なかなか口まで持っていけない。まあ、特売品だから文句は言えない。
「おいしいー?」
少し間を置いて、ミャーと返事があった。おいしいのか?あたしは箸で豆腐を触ったままゆえの背中を見た。
「それはよかった」
うふふと笑いながらゆえは歩いてきて、あたしの向かいに座った。それから小鉢に白菜ともやしを入れて、食べる前にちらっと振り返ってみゃあみを見た。
「何あげたの?」
「野菜と昨日残しておいた果物を小さく切って、その上にツナをのせたサラダだよ」
「猫ってそういうの食べるの?」
「みゃあことみゃあみはなんでも食べてくれるの」
そう言ってゆえは白菜ともやしをぱくぱくと食べた。
「ごはんを食べるとき、すごく嬉しそうな顔するの」
空になった器には、人参と豆腐がすぐに盛られた。
「ふうん」
「ひなちゃん、お豆腐柔らかいね」
やっぱり言われた。ゆえなら気にすると思った。箸の使い方があまりうまくないから、掴みにくいものには必ず文句をつけるのだ。
「我慢して食べて」
「はい」
チークを塗った頬をさらに赤くして、小さな口を半開きにして、豆腐をぐちゃぐちゃにしながら真剣に口に運ぼうとしているゆえを見ていると、おかしくてかわいくて、一日の疲れが吹き飛ぶ気がする。
やっと小鉢の中身を食べ終えて、ゆえはもう一度みゃあみの方を見た。
「みゃあみもみゃあこのこと探してるんだよね、きっと。大事なお姉ちゃんだもん」
お姉ちゃんね。毎日一緒にいたのに、急にいなくなったら寂しいだろうな。
そう、お姉ちゃん。今まで考えたこともなかったのに、みゃあこのせいでぼんやりと記憶が蘇ってきた。すごく小さい頃、自分がいくつだかもわからないくらいの頃、ぬいぐるみを持って遊んでくれたり、寝るときにあたしの手を握ってくれたりした。姿も顔も全然覚えていないんだけど、大人の女の人だという印象があるから、結構歳は離れていたと思う。
どうしてこんなに突然思い出したんだろう。そもそも、思い違いかもしれないし、ただの夢かもしれない。でも、なんだか本当のような気がする。
「ひなちゃん」
「なに?」
呼ばれて我に返ったあたしは、箸を小鉢の縁に思い切り当ててしまった。
ゆえはまんまるの目をぱちぱちさせてこちらを見ている。
「明日、みゃあこを探しにいこう!」
「は」
「はじゃなくてみゃあこ!」
ゆえの声が大きい。
「明日は土曜日だし、学校ないし、ね」
「ねじゃないよ。飼い主のところでゆっくりしてるのかもよ」
「そんなことないよ。ほら、みゃあみがしょんぼりしてるもん」
と言ってみゃあみを抱き上げて部屋に連れてきた。ミーと小さく鳴いているが、しょんぼりしているのかどうかさっぱりわからない。
「ひなちゃん、一緒に探してよー」
みゃあみをこちらに向けながら、お願いをするときの声を出している。
「わかったよ」
仕方がない。ゆえに頼まれるとなかなか断れない。あいつは人に甘えるのがうまいのだ。
明日は特に用事もないし、構わないのだけれど、一日中空いているということが問題。ゆえはみゃあこがみつかるまで、あるいは暗くなるまで探すのを諦めないだろう。あたしたちは自転車も持っていないし、お金もない。だから移動手段は徒歩だ。つまり、あたしは一日中歩かされる羽目になるかもしれないのだ。
辛い。こういうときはゆえの体力が憎くて仕方がない。ゆえは夜まで歩き回ってもぴんぴんしている。今まで一度も運動部に所属したことはないのに。それに見た目がか弱そうだからって、なんとなく周りから庇ってもらっている。背がちょっとばかり高くてはっきりとものを言うあたしは、ゆえと比べて頼もしくみえるから、力仕事はいつもあたしに回ってくる。我ながら損な役回りだわ、と思うほかない。
「やった!」
大きな声にびっくりしたのか、みゃあみはゆえの腕を離れてベランダまで駆けていった。
「じゃ明日に備えて早く寝よ」
鍋を片付けながら、あたしは先手を打とうとした。今日も近所に公園がいくつあるか、コンビニの品揃えがどうか、とか調査して疲れているからせめてさっさと寝て英気を養いたい。
「だめだよー」
「なんで?」
「宿題やってから」
「えー」
「今日はひなちゃんと同じ授業受けたから宿題出たの知ってるよ」
真面目なやつだな。宿題なんて明日でも日曜でもいいじゃないの、と思っても、いいよと言ってもらえるわけもなく、眠い目を擦りながらあたしはゆえと頑張って宿題を終えた。勉強のできるゆえの言うとおりにしていれば間違いはない。あたしが答えに詰まっていると、ちゃんと手ほどきをしてくれる。疲れたけれど、宿題をやってしまってよかった。これで、明日は疲れたらすぐに蒲団に入ることができる。
「電気消すよ」
「うん」
部屋が暗くなると、急に耳が研ぎ澄まされる。ゆえが蒲団をめくる音がとても近く感じる。
「明日は朝からお姉ちゃん探すよ」
「はいはい」
「起きてね」
「はいはい」
あたしの返事を最後に、二人とも何も言わなくなった。それからすぐにゆえの寝息が聞こえてきた。寝付くのが早い。
一方のあたしは、今の「お姉ちゃん」というのに引っ掛かってしばらく寝付けずにいた。
頭に浮かぶあたしのお姉ちゃんは、どんな人なんだろう。今、いくつで、どこで何をしているんだろう。
もし、お姉ちゃんがいたとして、両親はどうしてこのことを黙っているのだろうか。うちに複雑な事情があるとも思えない。いや、複雑だからこそ平穏を装ってあたしには何も言わないのかもしれない。そうだとしても、直接訊く勇気などない。
考えれば考えるだけ本当にお姉ちゃんがいたとしか思えなくなってきた。でも、真偽は確かめようがない。
蒲団の中で溜め息をついた。
お姉ちゃんがいたら、一緒に買い物に行ったりするのかな。いろんなことを相談したり、教えてもらったりできたらいいな。元気なときは笑い合って、落ち込んでいるときは頭を撫でられながら慰めてもらいたい。優しい笑顔でこちらを見ているのを想像してみる。
あたしはもう一度溜め息をついた。
今まで気付かなかったけれど、あたしは、こんなにもお姉ちゃんという存在に焦がれていたんだ。
自分のことがわかって落ち着いたのか、だんだんと眠気がやってきて、意識が遠のいていった。
明日はきっと朝からゆえに起こされる。それまで、いい夢でも見られたらいいけれど。